2017年10月24日火曜日

或る作家の死            1902

イマイキミオが亡くなった知らせを受け取った。 合掌。

大学では同学年ながら、一歳年上だった。公務員生活を二年経てからの入学だっ
たことと、両親が浅草生まれの浅草育ちで、ともに地方に親類・縁者がいない生
粋の東京人で、何となく兄貴分という感じのつきあいだった。

彼が「新日文」の雑誌編集に関わっていた40代の頃は、神楽坂の会社に寄って
くれ、かつての組織活動に触れることはなくもっぱら小説執筆と文学談義に熱を
おびた。

その後、彼自身の『序章』で「群像新人長編小説賞」を受賞してからも、思い出
したように会っていた。賀状だけのやり取りはずっと続いていたので、5年前に
「今年は、一度お会いしたいものです。」としたためた。
以下は、返ってきた長文の一部です。

「いよいよFもそういう心境になったのか。」というのが率直な実感です。
ワセダに行ったときは「労働者」として働き始めて二年経っていたのでいささか
「老けた」同期生だったはず。そのおりはむろんのこと、(その後いろいろあっ
て)50歳になっても七十歳まで生きている自分を考えてみることはなかった。
こうした発想が「ひょっとすると七十ぐらまではいけそうだな。」と思うように
なったのは、六十過ぎてのことである。この感慨は、七十になっても未だそれま
でと同様にアタマが働いているということ。
(中略)
脊柱管狭窄症という疾病のために、歩くことに難がある。で、外に出かけるのは
旧友たちとの歓談のために外出するとき以外は滅多にない。が、兄がいうとおり
で今年あたりは、一度お会いしたいとは思う。死んじまってから「あのときに会
っておけばなあ。」と思いたくないから。ということで、暖かくなったら、お茶
の水あたりまでならオーケーです。
だが、会うことはなかった。後悔の念におそわれています。

イマイは、1月1日に「年一新聞」を発行(年賀)していたが、この二年届いて
なくずっと気がかりだったにもかかわらず、会うことはなかった。後悔の念深し。



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