2013年12月31日火曜日

今年、307回更新した!ブログ


ブログを始めて3年目に入る。当初ブログを立ち上げるキッカケは、3・11震災
の復興支援活動MPOの広報用に活用を意図したものでした。

ところがNPO「大槌の風」がメインで取り組んできた、被災地の子どもに本を届
けることが、一段落を見るにいたったこと。ほかの事では、被災地の聞き書きや
被災写真の修復、大槌町被災者との復興支援東京交流会と、地産海産物即売
などで、支援の活動をしてきたが、少しずつ縮小してきており、「広報」主体から、
より個人的な「日録」に偏ってきている。

大みそ日、元旦も二日であることに違いはないが、気持ちを新たにさせる特異
なものがある。これが一年、365日を刻む暦の意味付けだと思う。
除夜の鐘、今年最後の鐘突きのシーンは、義娘の菩提寺、大槌町江岸寺の境
内からだった。
大津波の被災で壊れた鐘が遺物で見えるなか、初突きとなった鐘には「東日本
大震災復興祈願」の刻印が見えた。


2013年12月30日月曜日

年末最終回の忘年会!


顔ぶれは問わず、毎年暮れの28日に三々五々集まる「萬八忘年会」に出た。
「加藤登紀子ほろ酔いコンサート」が跳ねて、会場で一緒だった皆と直行した。

いま、制作進行が佳境に入っている冊子の準備会メンバーが中心だったので、
原稿の回収状況をめぐる話になった。予想されたとおり、店の創業時から1970年
代に、執筆者も、取り上げられたテーマも、集中していることが判明した。
併せて、座談会出席者からは朱入れしたゲラを受け取った。

この忘年会は、師走28日に日を固定して始まって第4回になるが、年々参集する
人はまちまちで、顔ぶれの探りあいになる。
大きな手術をして復帰したかに見えた竹Yが、再入院した。表面的には気丈に見え
ていたが、やはり厳しい現実を推測できる。
来年、ぼくが被災地に行くときに同行を申し出てくれているが、元気な回復を願うば
かりです。

遅れて登場のY関さんから、署名した自著『伝統工芸を継ぐ女たち』をいただいた。
出版社が、学藝書林とあって懐かしくなった。埴谷雄高の『死霊』真善美社版が古
書でも入手困難になっていたとき、<現代文学の発見>叢書の第一回配本で刊行
された記憶があったことによる。
伝統の技と心を伝える36人の女性職人を綿密な取材で伝えてくれる。男性社会と
いわれる職人の世界で、おんな職人としての自信あふれるメッセージがある。
収録写真もいい!
労作です。ありがとう。




2013年12月29日日曜日

加藤登紀子70歳のコンサート、感動した!

(2013・12・28影)
お登紀さんの通算41年目となる「ほろ酔いコンサート」ライブに参加する。
この連続ライブは初めてだが、パリでのシャンソン大会で優勝した中沢忠の凱旋、
ジョイントコンサートや、あきる野市(現)・キララホールのステージを十数年前に聴
きに行っている。

今回のライヴは、学生時代からお登紀さんと交流があるオサダNからの思いがけ
ない誘いにのったものだが、仕掛けられた選曲がよかった。
ピアフが好きでフランス語に疎いにもかかわらずシャンソンを歌い始め、淺川マキ
に刺激されて生(命)をテーマにした作詞、作曲に進化して、さらに愛や恋を歌って
きて、そして今回組み入れられた、3・11で被災した父親と生きて未来を見据える
子どもの絆を歌うと云う時代の流れをドラマ仕立てに構成されていた。
加藤登紀子の、時代と対峙しつづける凄い迫力に感じ入った。

二部は、ピアフ賛歌の三曲。
元旦から世界に発信されるシングル「富士山だ」(作詞故阿久悠)を披露。
「知床旅情」「ひとり寝の子守唄」アンコール曲「百万本のバラ」を情熱的に熱唱!



神田ガード下の「升亀」、店じまい!


(2013・12・28影)

東京・神田駅側のガード下の大衆酒場「升亀」が、昨日(28日)に閉店した。

会社通いの時は、この店を周一ぐらい、昼定食の定番にしていた。
ご飯が美味しくて、新鮮な刺身、煮物、肉豆腐鍋などがぼくの好みに合って
いた。
昼から夜に通し営業で大衆居酒屋に変貌していく、常に賑わいのある繁盛
店だったはずです。28日1時半頃だったが、閉店を惜しむ客が長蛇の列を
なしていた。

二階は中央線の走る電車の微妙な振動がする客室で、「出版かんだ湯けむ
り会」など何回か、集まりに使ったこともある。
戦後直後からあった風な店の佇まいながら、実は1960年代後半の創業と
聞いて意外に思った。

2013年12月27日金曜日

W+恒例の忘年会


吉祥寺の「魚猿」で、50年来の友が参集した忘年会がありました。
佐渡両津から取り寄せられた鰤など旬の魚がウリの小料理屋で、Y西が場所取り
してくれました。

集まった面子は、遠方よりY横をはじめ久しぶりの大Kら、十人だった。
体調不良で残念ながら出られない、と事前に様子を知らせてくれた門Hと、当日に
電話でやはり絶不調で欠席、皆にヨロシク、の電話があった柳A。二人の具合が、
大変気がかりです。
参加メンバーで、NPO「大槌の風」をサポートもしてくれているS増が、今年の第48
回「柳田賞」を受賞しており、お祝いの会を兼ねました。(拍手!お花と、Y泉が北一
硝子グラスの贈呈)
さらに、柳Aを気遣っての初参加のエンちゃんが加わる賑やかな顔ぶれでした。皆
から大歓迎の声が発せられた。
また、Y西から来春刊行(山と渓谷社)されることになっている『魔女の薬草箱』の
案内があった。

昨年の忘年会に都合悪く出られなかった桑Sの発声は、「自分に変化がないなか
で会うと、一年ぶりなのか二年ぶりなのか分からなくなってきている」だったが、確
かに年取るとともに一年の間隔を短く感じる。それが、変化なのか、忘れ去ったコト
なのか分からないところなのだが、、、。
飲むほどに、喋るほどに半時経ったところで、おのおのの身辺雑記語りで盛り上が
りました。


2013年12月26日木曜日

三省堂の雑貨SHOP!

(2013・12・25影)

水曜日の都心は、いつもよく歩く。
今日も東五軒町から御茶ノ水経由で、年末最後の水曜会に出て、明大前に。

先日の、NHK特集「巨大書店」(実は新宿紀伊國屋書店)をめぐる現代の読者
事情を追った映像を、水曜会メンバーも見た人が多数いた。
ビジネスマンの多くが、啓蒙的な生き方指南書や、事業成功者の事例集などの
実用書に手を出していたが、今年のベストセラーを見て、このジャンルの占有率
が高いことでもうなづける。
また、平台前に立って東野圭吾の本を探索する小学四年生にインタヴュしてい
たが、彼はすでに小説を好んで読んでおり読書感想を十分に言えていた。この
話を聞きながらほっとする気分になりました。

三省堂本店の一階前面で新業態となる雑貨と文具ショップ「神保町いちのいち」
(一丁目一番地から)を開設している。
店舗入口一番場所での展開なので、本屋さん本来の姿を逸脱するようにおもえ、
三省堂ファンにとって疑問符だったが、想定を上回る実績が出ているようだ。
この新形態の展開は、書店といえどもスペース産業、店舗運営の人員を圧縮し
て新しい事業へのシフトに踏ん切りになっているようだ。

時代の要請なのか、本屋さんは限りなく少なくなり、書店は複合的ブックショップ
に変容している。
http://goo.gl/JUFVvU

2013年12月24日火曜日

平泉中尊寺の金色堂/記憶の断層19



7日間の「リンクの旅」と称して、念願の久慈と宮古の沿岸をつないだ行程も最終
日になった。
青森から始まって、下北半島を一周し三陸海岸を経て北上山系を超え、遠野から
いよいよ最終コースの中尊寺へ。

遠野から花巻をへて、北上駅前の地下食堂でふるさと料理を食べながら休憩する。
北上駅を出発して平泉ICを出て中尊寺に着くのに2時間ばかり要した。
平泉町は、藤原氏四代ゆかりの史都として知られ、平安時代およそ100年にわた
って絢爛豪華な文化を生み出した地である。
それを象徴する黄金文化をしのばせる中尊寺金色堂や、平安時代の庭園遺跡を
ほぼ完全に残す史跡・名勝の毛越寺をじっくり見て回りました。
金色堂は、芭蕉が「五月雨の 降り残してや 光堂」と詠んでいます。


50年近く前にも中尊寺は訪れているが、その時は、義経が落ち延び急襲を受けて
自害した時に居た高館衣川館(義経堂)に関心が向いていたことを思い出す。
その高台から北上川の戦場跡をしばし眺望していた。

一ノ関ICから東北自動車道にのり、安達太良SAで仮眠して、一気に東京に帰って
きた。



2013年12月23日月曜日

柚子のある365日~ゆず湯


裏庭の柚子

一年中で最も昼が短い冬至。
柚子を大小いっぱい浮かべてお風呂に入った。
体全体が格段にあったまり、清められた感じで爽快になる。

ゆずの果皮から溶け出す香気がひろがり、懐かしい味の記憶をたどると、古里の
風景にいきつく。
田舎の裏山にも、育っちぱなしの大きな柚子の木があって、12月になると収穫し
て搾り柚子酢を作り保存する。搾った柚子を半分に輪切りして、柚子釜でアミとか
味噌を焼いて匂い立つ香りを満喫して食した記憶がよみがえる。
その幼少体験からか歳月がたっているが、一年中、柚子料理ないしはゆず酢の
お世話になっている。
ぼくの田舎では、お祝いに柚子酢を使った「ばら寿し」(祭り寿司)をつくる慣わし
があるが、寿司桶から立ち昇る香りと甘酸っぱい味わいは特別でした。
いまではYuが祖母から受け継いだ手法で作る華麗な「ばら寿し」を、月に一度は
楽しめる。

柚子の木は、実のつくまで十数年かかる。田舎と今住む東京を、歳月を経ても語
りかけてくれる香りがある。

2013年12月22日日曜日

ニューメディア出版の今。

2013・12・21影)

ニューメディア商品でありながら、取次を通して書店店頭に並ぶので、やはり出版
物の扱いになる。
この商品群は、大手出版社の独占なのだが、そのなかで新興の小版元で健闘し
ているところがある。

週に一回は行く、日の出町の「未来屋書店」店頭で面陳列されたリンケージワー
クスから出版されたばかりの『視力回復』を発見した。年に、二、三冊の新刊なの
だが、何故か良い場所取りをしている。多分、これまでの既刊商品の実績がそこ
そこ取れて、社名も少しずつ浸透しているからであろう。

ところで本書だが、「目の体操」を補助する様々な付録がついており、誰でも簡単
に楽しく「目の体操」ができるように工夫されている。四大付録が売りになっている
ようだ。
よくまあ継続して、あれやこれやの実用的アイディアが浮かび、それを商品化でき
るものだと、門外漢のぼくは不思議の思う。開発プロジェクトがあるでもなく、ほと
んど一人で発掘し想像力を駆使して、必要に応じて専門家に相談したり監修につ
け、完成させる工程のようだ。
書籍の数倍、原価も掛かるはずで、粗製濫造は絶対避けねばならない必須課題
のようだ。
 
5年前は予想だにしなかった、ニューメディア商品の店頭占拠率には驚くばかり
です。新刊点数がこれだけ増えてくると、それに伴う返品率も増加傾向にあるこ
とは間違いないと思われる。

2013年12月21日土曜日

私の叔父と「でん八」 ありがとう!

続けて、H森田さんの寄稿から──。
一筆、転載了承と一言添えられていました。

ブログに、「ヒトはだれでも本来、機会があれば誰かに話してみたいコトを多か
れ少なかれ潜在的に持ち合わせているのではないだろうか、実感させられまし
た。」とありましたが、私もそう思います。
今回の企画は、そういう意味では必然なのかもしれません、、、。
あの時代に青春出来て良かった!なんて思ってしまいました。



私が初めて「でん八」に行ったのは、両親と一緒に行った開店祝の時だった。
私は小学1年か2年生、1階のカウンターに陣取り、コンちゃんの作ってくれ
卵焼きがとても大きかったことを今でも覚えている。

その後はと言えば、夏休みのお盆の頃は海辺の民宿を借り切り、正月は昭次郎
父か豊太叔父の家での新年会があり、親戚とお店のスタッフやお客さんたち
が集うこととなった。そんな環境にいると自然とお酒を口にする機会もあり、
叔父からは「お酒はな、飲んだら飲め、飲まれるな!」と、事ある度に教えら
れてきた。
私にとってこれは実にありがたい教えであり、大人になってもおかげ様でめっ
に「飲まれる」ことなく、飲めば飲むほどに気持ちが冴え、むしろヤケ酒が
出来ないのが悩みとなった。

大学生になり、初めて友達と「でん八」に行った。海の家や新年会で知ってい
顔があり、初めて二階に上がった。ホッケを食べていると、隣席の客人から
ホッケの食べ方を教えられた。おかげ様で、今では焼き魚全般食べ方は上手で
ある。 
私も年を重ね、だんだん飲み歩くこともなくなり、「でん八」への足も遠ざか
ていたが、7~8年前の夏、職場の人たちと銀座に行く機会があったので、
久しぶりに昭次郎叔父に会いに店に立ち寄った。久しぶりに会う叔父は紺ブレ
に白Tそしてブルージーンズ、実にオシャレでカッコ良く相変わらず若わかし
い。「おじさんは本当に若いよね~!いくつになったんだっけ?」「もう80
よ!」「すごいな~!」。元気そうに笑ういつもの叔父がいた。笑いながら
叔父は、「おれが大学生の時に戦争が終わった。そしたら、終わったその時か
ら、先生たちはそれまで話していたことと全く違うことを言い出したんだ。驚
いたよ、裏切られたようで悔しかったよ。それで俺は思ったんだ。一度、自分
で言ったことは絶対に守る、裏切らないって、、。それで今まで来たんだよ、
、、」「・・・そうなんだ、、、」。何故急にこんな話をするのかと思いな
らも、叔父の話に耳を傾けていると、今迄の数々の出来事が思い出され、「だ
からあの時叔父は、あんな決断をしたんだ、、、」と、妙に腑に落ちる思いが
っていた。

その後体調が悪いと聞いていたが、つぎに会ったのは病院のベッドの上にいる
叔父だった。面会の最後に「さようなら、また来るね!」と言うと、手を振る
かのように手を伸ばしてきたが、私は何故か、次に来た時に握手しようと思い
病室を出た。残念ながらそれが昭次郎叔父との最後の時となってしまった。

ありがとうございました。迷い多いこの人生のなかで、いつもさりげなく助け
れてきました。私にとって「でん八」は、人格を持った一つの存在に思えて
仕方ありません。銀座の店が開店した時、わが子の大学進学や社会人への門出
を祝うような気持になった、不思議な感覚を今でも覚えています。
「でん八」、叔父たち、そして、その支えるスタッフやお客さんたちで作り上
た一つの命なのでしょう。ありがとうございました。
感謝の気持ちで一杯です
                              H森田

2013年12月20日金曜日

冒険家が冒険家でなくなるとき。



先日、これまで大きなプロジェクトを担ってきたプロデューサーである友人が鎌倉
のミニ集会で講演したときの様子を披瀝してくれた。

定年退職した時点で、自ら活動してきた仕事を振り返り一書(『波濤を超えて─
堀江謙一をめぐる半世紀』言視舎・刊)にまとめているが、さらに時間の推移の
なかで、関わってきた冒険プロジェクトの気付かなかった側面を客観的に見られ
るようになり、自戒しながら喋ったようだ。

三浦雄一郎の最近のエベレスト登山は冒険家と呼べるのかどうか、2憶使えば
誰でもてもできる。いわんや、頂上からの下山は飛行機でするなんて、愚の骨頂
だと! 登山冒険家の条件は、セルパはつけるが無酸素単独登山、下山にある
らしい。行動をどう表現するか、と云う芸術家に近い。

堀江さんとて金をかけることでは同じじゃないか、と質問してみた。
彼の場合、最初の発想の段階で動力を何にするか、アルミ缶なのか、波動にす
るのか、一年かけて想像力を駆使して設計する。この段階で、多くのサポータが
いて出費もかさむ。航海が始まってから後の経費はかけていない。天気情報を
流すとか、精神的サポートは、「単独航海」を成功させるためにしてきた。
冒険家としては歳をとりすぎたが、今、期待できるとするなら、地球縦周りの完全
単独航行。北極圏の温暖化で通過可能で、自然環境保全(エコ)のアピールにな
ると言う。

彼は今年、自費で関係良好なエクアドルを訪ねて、もらった「島」の海図への明記
と記念プレートの新調イヴェントに出席してきた。
これもエコ親善のつながりだと思う。

2013年12月19日木曜日

シマダさんから、大槌町を訪ねた報告があった。 その二


忘年会で出た話から──。
前にあった会合でも、シマダさんは、出版「梓会」の研修で10月に三陸の被災地
を見て回ったときの、邪鬼迫る見聞を報告してくれた。
そして今回は、大槌の被災前に在った「街」に立って、緑の山間から大槌湾に流
れ込む大槌川と目の前の静かな海の美しいコントラストに表現できない痛みを感
じたと、語り終えて涙していた。
賑わいがあったはずの街並みは消え、漁港もやっと活気を取り戻す端緒に着い
たばかりの状態を見て、人間の生命力に悲哀を感じたはずです。

ぼくは縁戚者があって大槌町と繋がったとはいえ、三陸の大津波の被害の有様
に思いをはせる。数十年か百年かに一度、必ず襲ってくるモンスターの残酷さに
重ね合わせることになる。
この思いは、シマちゃんとて同じで、共有できるところでしょう。
震災と語りの共有があってこそ、被災者の懸命の再興に少し近づけるのではない
かと思っています。

もう一つ、「朝日新聞」地域版に載っていた、東村山の田浪さんが26年前に出版
した『復刻 あたらしい憲法のはなし』を再刊行(発売新泉社)した話題になった。
田浪さんは、ぼくが未来社駆け出しの頃、業界でお世話になった先輩の一人。出
版の業界を去ってから、ラーメン店店主であったり、市民運動を率先したり、現在
はNPO法人の代表を務めている。
で、いま進んでいる改憲論に危機感を持って、その話で盛り上がったわけではあ
りません。
新聞に眼を留めたヤスイさんが新聞持参で、合同出版社から日本読書新聞時代
の田浪さんのことを浮上させてくれたのだが、同席の多くの者が併せて、現代思
潮社、青木書店、みすず書房、未来社などの同時代人まで一気に覚醒させられ
るから驚きだ。
田浪さんの一年の凄い活動量は、新年の賀状で知ることになる!

本郷の「天喜」で忘年会 その一。

2013・12・18影

「やすい会」の恒例忘年会が、天麩羅や「天喜」でありました。

暮れに催されるこの会の忘年会の日は、なぜか雪がよく降る。新宿「青梅雨」や、
渋谷「つか田」の大雪に見まわれた日のことを思い出す。
会を終えて出た本郷真砂坂は未だ冷たい雨だったが、わが家に着くころは霙交
じりの初雪だった。

さて会の話題は、いつものように多義にわたった。
特に、11月26日に亡くなった金田さんを悼んで献杯の後に、身近で接してきた
何人かから追悼の言葉が発せられた。
この会にも数回、参加していただいています。

すい臓がんを宣告されながら、ずっと他言されなかった様子。
書籍仕入時代から面倒見のよかったカナダさんの人どなり。
社長時代の苦労話、、、。
ぼくの経験上、いったん話にのった事には、決着するまでサポートを惜しまない
男気な人でした。

「しのぶ会」が2月12日に行われると聞いています。

2013年12月17日火曜日

これから書く年賀状はどうする!


仕事で使用の普通ハガキの備えがなくなったので、近くの郵便局に行ったところ
年賀状を購入する人が列をなしていた。
まだ、年賀葉書すら買っておらず、のんびりしていたが、一気に強迫観念に駆ら
れてしまった。

年賀状を出す相手も、最も多く出していたピーク時から徐々に減らしてきて、個人
と仕事関係の比重が大きく変わってきています。
名刺管理があるように、年賀状の整理も一度して置けばいいものを、今日になっ
て慌てるパターンは改まらない。
このことは、何十年も前からもらった賀状が山となっているということで、大胆に
捨て切れていない。
住所の確認などで、稀にペラペラめくることがあるが、一度も見ることなく束ねた
まま在るのが圧倒的枚数である。
(早速、個性的な本文が添えられているもの、近況が知れるもの、住所変更がな
されたものに絞り込んで、他はおもいきって処分を始める)。

ほかに、データ化される電子的な管理方法(アプリ利用)には、いろんな術がある
はずだが、それで、ぼくの苦手意識が払拭されることはないと思う。

2013年12月16日月曜日

仙人峠を越え、遠野へ/記憶の断層18


釜石港から仙人峠にさしかかる手前に、「北の鉄人」と呼ばれた名門「新日鉄釜石
のラクビー部」の練習場が見える。(2001年に、チーム名称を「釜石シーウェイブ
ス」と改めて再始動)
仙人峠は、最も険しく九十九曲の急坂と称されて、内陸と海岸を結ぶ最短ルートに
なっている。

さて、遠野は民話のふるさとといわれる。遠野出身の小説家・民話蒐集家であった
佐々木喜善によって語られた、遠野盆地から、遠野街道に纏わる民話を、柳田が
筆記・編纂した初期 の苦労は尽きないはず。名著『遠野物語』の誕生の地である。
また、佐々木喜善の民話採集の聞書きそのものが記録された「昔話集」が1950
年代に未来社から刊行されており、Yuが文献として使っていた記憶がある。

山間の盆地に在る遠野の町は、落ち着いた雰囲気でいつ来ても変わらない。ちょっ
と外に出れば田園風景のなかに佇むことになる。遠野駅から5キロ余りでカッパ淵、
縦横に川が走っていて、水音が耳に心地よい。
隣町に義娘の母方の里がありその縁者に会ったとき、柳田をさしおいて佐々木喜善
の「膨大な言葉が眠っているのが遠野」の話をしたところ、よく言ってくれたといわん
ばかりに大変喜んでもらった。
市街地を四方八方走るうちに、いろんな遠野の神に出合う。しし踊りや神楽の祝祭
は限りなくつづく。保存、伝承がしっかり身になっており、100年、200年変わること
はない「民話の里」だ。

311大震災があって、この地の風景を見ながら、三陸海岸に出て大槌に行くことが
続いている。

2013年12月15日日曜日

磁場の「釜石」/記憶の断層17

震災前のJR釜石駅&三陸鉄道釜石駅(右端) 2002・8影

宮古から釜石には、山田町と大槌町をへて辿り着くのだが、2002年の旅では、
リアス海岸の入り組んだ入り江を縫うように走った印象しかなかった。
大槌町との出会いは、その後のことです。

釜石は50年足らず前から、下るときも、上るときも旅の起点になって、何度となく
寄っています。
特に、1960年半ばに行ったときの印象は強烈で、夜の帳が下りるころ釜石駅に
おりたって見たのが、釜石製鉄所の煙突から噴射する燃え盛るような溶鉱炉から
の煙だった。
さらに、夜の釜石のいさり火、巨大な船、魚市場に圧倒された!
旅館では遅い到着を待ってくれ、出された夕食がものすごい量の「山海の幸」だっ
たことが忘れられない。
その宿が沢田屋旅館だったことを、最近になっておもい出しました。
その後の2002年には、製鉄所にかつての活気は見られず、街は静けさが漂っ
ていました。
そんななかでも、三陸、釜石のきれいな海から獲れた海鮮料理には、何時も魅了
されます。

311震災前に祝い事で大槌行きの途中に宿泊したことがあって、そして震災後は
何度となく大槌町に足を踏み入れるたびに、釜石の民宿やホテルがベース宿とな
っていると云う具合です。

2013年12月14日土曜日

一週間に10日、通ったぞ!

Y関根さんの寄稿から──
『伝統工芸を継ぐ女たち』を7月に出版。

書影

「でん八50周年」とのこと。私が初めて「でん八」に連れて行ってもらったのは、
たしか、大学3年の頃。すでに45~46年は経っている。当時、私は大学祭の実
行委員長で、外部の男子校から、さまざまなイベントの誘いやクラブの紹介など
の窓口になっていた。そこに「チケットを売りたいからシャンソン研究会を紹介し
て」と飛び込んできたのが、長田直樹さん(チビサダ)と中村節也さん。その後、東
大での集会、デモに参加した帰りに偶然、中村さんに会い、そのまま「でん八そ
の一」につれて行かれたのが、「でん八」との深~い縁のはじまりだった。

当時、二十歳前後の感受性豊かな青春時代、アンチ権力、そして、微妙な異性
関係など、「でん八」に集まる連中に、益々私の感受性が反応し、その深みには
まってしまったのだ。面白かった、、、飲むほどに、酔うほどに、好きなことを言い
合う楽しみがあった。そして、カウンター越しのアキちゃん(松尾明弘さん)とのや
りとり。アキちゃんの会話の裏にあった心遣い。だからこそ、通い続けたのだろ
う。「一週間に10日こい」という歌があったが、そのくらい通ったときもあった。

そして私が誘ったのが、Jクボタさんだった。高校の同級生で、彼女は大学には
進学せず、速記の専門学校で学び、主席で卒業するほど優秀だった。彼女も「で
ん八」にはまったのだ。通うごとに彼女の会話の面白さに一層の磨きがかかり、
「でん八」を舞台にした恋愛も繰り広げられ、美しく変身もした。しかし、45歳ごろ、
すい臓がんであっという間に亡くなってしまった。彼女の母親は日本の速記者の
先駆けで、当時何人もの速記者を抱えた事務所を持っていた。親の跡を継ぐつ
もりもあったと思うが、親が大きすぎて、彼女は常に親の手のひらで踊っているよ
うな気持だったのではないか。それが亡くなった遠因と私はみている。

出逢ったさまざまな人が亡くなってしまった。「でん八」の主のアニキ(松尾昭二郎さ
ん)ももういない。「その一」が消え、「その二」も遠のいた時代、「その三」のアニキ
に会うのが楽しみだった。仕事のことや人間関係など日ごろの愚痴を言っていると
いつの間にか、アニキは私の本音を引き出していた。その会話の心地よさにいつ
も惹かれた。

人の好いアキちゃんと、どこかすごみのあるアニキ、その二人の作り出した「でん
八」で、さまざまな人間を見た。人生を見た。それが私の人生のコアになっている。
若いときに出会えたことが、本当によかった。
ありがとう、でん八!
                               Y関根(「家庭通信」主筆)   

2013年12月13日金曜日

小津安二郎・没後50年 隠された視線


Oカンさんの薦めで、BSの小津安二郎特集を観ました。
出演;吉田喜重、篠田正浩、岡田茉莉子、香川京子、司葉子。

小津映画は、今も魅了し続ける、、、と云うが、ぼくは若いとき、ほとんど松竹
系「家族映画」を観ることがなかった。
映画で家族の機微や諍いをテーマにしたモノを好まなかったからだろうと思う。
最近、この歳になって、「東京物語」や「秋日和」や「秋刀魚の味」などの、小津
映画の代表作といわれる作品を観て頷けるようになった。
デジタル・リマスター化が進み、DVDでも新作として観られ愉しませてくれる。

「東京物語」が、世界の映画監督358名が投票して選ぶナンバーワン作品に
昨年、推挙された。「ゴットファーザー」や「市民ケーン」などの名作をおさえて
のことなので驚く。
小津組だった篠田正浩、吉田喜重監督が共通して語っていることがある。
小津演出は、見せないことで観客の想像力を持続させる。言葉より、映像(絵
作り)を徹底して大切にしたと。
俳優には、カメラのレンズを見るように指示し、そのことで観客と対峙すること
になっている。
小津調と言われる、ローアングルから撮る、赤(赤いヤカンの謎)のこだわり、
そして一枚一枚を創りこんでつなぐ斬新な演出に、観客を魅了する秘密があ
るようだ。

小津監督に関わるメッセージ抄。
「秋日和」は構想から100日で脱稿。100人で作った総合芸術だ。
戦争や殺しは描かず、なんでもない日常の人間を描く。
小津映画(最後の「秋刀魚の味」)は、小津が撮った小津ドキュメンタリー。
後年は、「一年に500本映画があるなかで、一本こんなシャシンがあっていい
んじゃないか」。(小津安二郎)


2013年12月12日木曜日

『金子光晴 デュオの旅』が届く

書影(未来社・刊)

鈴村和成さんから、新刊『金子光晴 デュオの旅』(鈴村和成+野村喜和夫交換
ノート形式)を拝受。
発行元は未来社で、本書が同社から刊行されること第4冊目になる。

放浪の詩人、金子光晴が戦前、国外に旅した足跡を追跡した「紀行」文学。
マレー、ジャワから中国南部杭州・揚子江へ、さらには遠くパリ、フランドルの地を
現代の二人の詩人が、光晴の紀行文や詩篇に書かれた地名や見た風景を現場
に立って眼で確認しつつ、金子文学の内情を微細に辿る。

鈴村さんとは、自著『ランボー叙説』(永井出版企画/1970年刊)を編集した頃から
のつきあいだが、金子光晴や日野啓三(『アジア、幻覚の旅─日野啓三と楼欄美
女』)の足跡を追求する手法は、ランボーの「アフリカ書簡」に斬新な解釈を施して
きたように、作品からくまなく粘着質に実地検証することにあると思われます。

鈴村さんとは、金子光晴追跡の旅に出かける前に、「写真紀行術」をテーマにした
企画を練ってみたことがあった。
とにかく、彼が撮る写真はテーマがしっかりしている。そして、エロスがあり画像が
シャープ。本書にもふんだんに写真が散りばめてあり、177頁のセルフ・ポートレ
イトなどは旅の道中を彷彿させてくれる。
もう一つ発見したことがある。最初の『ランボー叙説』も、最新の本書も見返しが濃
い緑で統一されている。こだわりの鈴村さんらしい!
43年の歳月が流れている。

2013年12月11日水曜日

カレンダーの季節


水曜会で滝井さんに会った際に、ぼくの金田さんに触れたブログの話におよび、
それに添付したトーハンビルの写真を見て、「イイね」と言ってくれた。
さりげなく関連性を持たせた一枚だったので、気に留められてうれしくなった。

そして又、帰宅すると、彼の一筆書きが添えられた八木書店のカレンダーが届い
ていた。毎年のことながら暮れになるとわざわざ社に持参か、直接手渡ししてくれ
る。このたびの一筆書きといい、持参といい、心憎いばかりの配慮がある。
八木書店のカレンダーは、コンパクトながら自社所有の古地図、稀少な文書、絵
巻、草紙、墨書、近代作家の自筆原稿まで名品集なのである。
毎年、使うこと十余年になるが、ちょっとした目線を楽しませてもらっている。

カレンダーに挨拶文が添えられ、来る年が八木書店創業80年を迎えることにな
るという。 ますますの隆盛を祈念します。





2013年12月10日火曜日

あの頃の、あきちゃんは粋でまぶしかった!

「冊子」制作の進行上、寄稿原稿のうち承諾を得たものを逐一転載させていただ
きます。


「でん八」は私の青春に登場する大切な記憶のひとつである。『新宿・でん八物
語』ができると知って、心待ちにしていた。私は年号や場所を覚えるのが極度に
苦手なので、記念誌を見て、私の記憶をそこに織り込んでいこうと思っていたの
だ。ところが、私にも一言という仰せがあり、困ってしまった。しかし、それはとて
も光栄なことなのだと思うことにして、苦手な回想文に取り組むこととした。

 私の「でん八」通いは三越裏の狭い階段の上の「そのいち」からはじまり、末広
亭前の「そのに」、青山店、銀座店にも数回、そのあとはもっぱら歌舞伎町店「そ
のさん」だった。どれもHさんに連れていってもらった。親からの仕送り(飲み代が
入っているわけはない)で生活していた私はHさんによくご馳走になったように記
憶している。そうでなかったら私と「でん八」との縁は続かなかったのではないか
と思う。
 おにいさん、あきちゃん(と私は呼んでいた)のお母さんが高橋義孝のお嬢さ
ん(?)だったとかで、「そのさん」では、おにいさんとよくドイツの話をした。
藤森さんの尽力で私の著書を洋泉社からだしていただき、出版記念会までして
いただいたとき、おにいさんとあきちゃんが参加してくださったのでびっくりした。
 また、私が荻窪に住んでいた頃、終電に乗り遅れて、おにいさんの車で送って
もらったこともあった。おにいさんは、商売心ではなくて、誰にでもそういうことを
する人なのだということをあとで知り、すごい(意味不明だが)人だと思った。

 30年も昔のことだが、たまたま知り合いになった女性がかつて新宿に行きつけ
の店があったのよ、と懐かしそうに話したことがあった。それが、なんと「でん八」
だったのでびっくり仰天した。おにいさんにその話をしたら、彼女は三越裏の時
代にかなり頻繁に通っていたと話してくれた。今は彼女の名前も忘れてしまった
が、今回の記念誌のことが彼女にも伝わっているといいのにな、と思う。
 そういえば、一度だけ友人と一緒に青山の「傳八」に行ったような覚えがある。
カウンターにいたのはあきちゃんだったか。その頃のあきちゃんはとても粋で私
のような田舎娘にはまぶしかったな。
 「でん八」で一緒に飲んだり、話をしたりした人々の顔が浮かぶ。二度と会えな
い人も増えてしまったが、それもありなのかもしれない。50年前の私だって、もう
いないのだから。
 ふっと飲みたくなったとき、新宿に行けば「でん八」がある。今、私と新宿を結び
つけているものはそれだけかな。
                                    Yn(ドイツ文学者)

2013年12月8日日曜日

其処は、一献の棲家だった!


この夏には、ぼくが半世紀にわたって暖簾をくぐってきた「でん八」が50周
年になる。
アキサン、おめでとうございます。

酒を飲むようになって仕事のかね合いもあったが、頻繁に新宿に途中下車する
ようになった。
70歳を過ぎて、仕事の節目ができた今日まで、1960年代からの激動の
治、経済、社会、文化の変貌を経験するなか、居酒屋「でん八」とても苦楽の
あったこと、例外ではなかったはずです。
「でん八」50年──。店主松尾兄弟にあっては、心身ともに想像を超えた、多く
の累積する事があったことでしょう。
脱サラから始まった松尾兄弟の居酒屋が順調になった頃、ぼくは、松尾ファミ
リーの結婚式や祝宴に出席させていただき、乾杯や挨拶したことを思い出す。
その頃は、すでに、ぼくはイッパシの常連客に仲間入りしていたのだろうか。
初めての一歩は、屋台を出していた清水さんに連れて行かれてから。その後、
間断なく通いつめていたことになります。
「でん八」の何に、どこにぼくはひかれていたのだろう、、、。
小料理居酒屋の場合、カウンターの向こう側の主人と、こちら側の会話が絶妙
に弾んだり、沈黙であったりするのがいい。「でん八」のアニキとアキサン兄
弟の場の雰囲気づくりには天性のものがあった。
後年になってからは、客としてだけでなく親戚つきあい以上の関係にあるよう
に、思うことがある。
親密な関係のほかに、「でん八」に集う誰彼なく客同士のお喋り、ときに咆哮
も接しながら、お酒を重ねるのが、我がならわしにあっている。
「でん八」のカウンターで一緒になる客同士は、一時のコトながら皆が、知人
であったり友人のように和んで酒量があがっていく。
若いときは、「でん八」を起点にハシゴを繰り返していたが、今では唯一一献
棲家になってしまった。
だが、今は慕ってきたアニキは逝き、アキサンも引退している。かつての、賑
やかさはない。
「でん八」は隆盛すること50年、ぼくは70余歳、さてこれから先も、時には
まり木に座らせてもらおう。

二代目・弘史くんよろしく!

(「でん八 50周年記念」冊子の寄稿です。)

2013年12月7日土曜日

宮古・浄土ヶ浜/記憶の断層16


浄土ヶ浜(2013・12・5 Gyo影)
 今週、Gyoは映像の仕事で陸中の宮古に行っていました。

送ってもらった浄土ケ浜の、被災した後の凄みのある写真を見た。
海から昇る太陽光線をあびて手前の砂浜に向かって冬の影を落としているのが
侘びしい。
最初にこの砂浜に立ったのが47年前の夏で、その後も二度、震災前に旅してい
ます。何度となく縁あって行っているので、写真を見ただけで風景に溶け込めます。
大津波襲来で島の松が流出したのと砂浜がせり出し黒ずんだように見える。津波
後遺症を除いてだが、、、。

47年前は、まだ鉄道がなくて宮古から久慈には海岸沿いに行くことは至難のこと
でした。
2002年の夏の旅で、やっと海岸線のリンクを完成したというわけです。
宮古は、何度でも訪れたい土地になりました。

被災前、浄土ヶ浜大橋から(2002・8影)

2013年12月6日金曜日

アングラ新宿花盛りのときに

「でん八50周年記念」冊子への寄稿を一部紹介します。



50周年おめでとうございます。
私が「でん八」に行ったきっかけは、昭和44年(1969)当時、新宿歌舞
町にあったキャバレー「アダムとイブ」で、佐野柳哉さん率いるバンドの一
員として歌っている時に、佐野さんに連れられて行ったのが最初でした。
その後、2、3回行った記憶があります。バンドをやめて角筈にあったスナッ
バーテンダーをしている時に、佐野さんが来てでん八そのに」が出来たか
ら行うと、誘われておじゃましました。
中華ではない時です。しばらくして、友人に誘われてお店を変わる時10日位
あり、佐野さんから、「そのに」のバーテンさんが辞めて困っているので
手伝ってくれと言われて、1週間の約束でやる事になりました。
その間に、新しい店の話がご破算になり、そのまま、「そのに」に、残る事に
り、正式に勤める事になりました、昭和45年、前半位の頃だと思います。
現、歌舞伎町店の弘史が4、5歳の頃かな? 定かではありません。

昭和46年夏頃に、兄貴が腎臓結石で入院し、あきさんがでん八」をやり、私
「そのに」をやっていました。9月頃に私が「でん八」に行き、あきさんは
「そに」に戻りました。11月3日、文化の日、隣の「田毎」から出火して
「でん八」延焼、夜7時頃でした。店をリニューアルし営業を始めた頃に、
歌舞伎町に新店をつくる事になり、それに伴って、「そのいち」を売却する話
になり、売るのはもったいないので、私にやらせてくださいとお願いし、やる
事になりました。
その後、10年間営業して立ち退きで閉店することになりました。

書こうと思うと、いっぱいありすぎて書ききれません。野球チームの結成。
夏、三浦海岸での海水浴。忘年会の思い出など、、、色々ありました。
なので、ここでは皆さんがあまり知らない部分を書きました。
「でん八」なくして今の自分はありません。
これからも益々の繁盛とご活躍をでん八」ならびにお客様皆さんに幸あれ。

                          タカハシ・シロウ




2013年12月5日木曜日

つい、本音が出てしまう!


かつて、1960年代に「政暴法」を廃案にしたことがあるが、安定政権にある現政権は
力でトンデモ「特定秘密保護法案」の成立を強行突破してきています。

石破自民党幹事長は自分のブログで、秘密保護法案反対の国会周辺のデモについ
て「絶叫戦術はテロ行為とその本質であまり変わらない」と書いた。こと法案が、目指
すところを迂闊にも暴露してしまったことになる。
秘密保護法推進の背後にある本音がぽろっと出たのであろう。
われわれ国民に知らせず、言論を抑圧する秘密保護法の本質を端的に現している。

この法案は、実のところまるで軍機保護法(1937年制定)や、1941年に制定された
国防保安法と同じ構成だとされている。
暴力、テロの規定はあいまいで、時の「支配権力」によって如何ほどにも行使できる悪
法になるのは間違いない。

2013年12月4日水曜日

311震災1000日に思う。


 東日本大震災から1000日になる。
瓦礫の撤去処理はほぼめどがつきつつあるようだが、被災者の生活基盤の再興は
遅遅としてすすんでいない。

そんななかで大槌町の場合、人口の流出が二番目に多く、被災前に1万6千人弱あ
ったのが、現在1万3千人と発表されている。さらに、住民票を残したまま外に出てい
る流動人口を勘案すると1万人を切っているのではないかともみられている。
未来の展望が不確かななかで、進まないのが住宅整備だ。
被災者に貸し出す「災害公営住宅」の必要戸数の完成は3%程度で、4割は工事着
工に至ってないと云う。(福島は除く)
原因は地権者の思惑や不安が原因である部分もあろうが、一番の阻害要因は被災
者を慮った復興へ邁進して行く熱意のなさに思えてならない。

今日は、「大槌の風特定非営利活動法人」の支援者と、一年の活動を総括してみま
した。
事業として、道半ばのものもありますが、以下の活動ができた。
*「こどものとも」ほか、本の寄贈。
*第二次、被災写真の復元と整理。展示会。
*大槌の人との東京交流会(5ヶ所)と復興三陸海産物の即売手助け。
*「ひょっこりひょうたん島」とガラパゴス諸島の「ひょうたん島」を姉妹島提携を模索
 するドタさんのエクアドル行きのサポート。

なお、「本を被災地・大槌町のこどもたちに届ける」目的は、現段階で大まかな役割を
終えた。メンテナンスなどの継続事項は末永くやっていきたい。
兎にも角にも、被災者の復興にかけるおもいを、どこまで共有できるか確かめつつ、
他のNPO組織とも提携しつつ、しこしこと継続して関わっていくことを確認しました。

2013年12月3日火曜日

追悼・金田万寿人さん


金田トーハン元社長が亡くなったことを今朝の新聞で知りました。
心不全で11月26日に逝去。72歳でした。

1995年に、書籍部長だった金田さんにライン外の雑誌・ムックのコード取得に
あたり、親身に応援してもらった。
今では映画雑誌のなかで抜きん出ている洋泉社の「映画秘宝」は、当時、書籍
で刊行していた。そこで、書籍を定期雑誌化したうえで、数ヵ月後にムックでの
刊行を追認してもらうことにしました。相当無理がありましたがGOになりました。
ぼく自身、雑誌扱いに不慣れだったために、難しい局面を経験する半年近い交
渉になったが、カナダさんと当時の東京支社長の助言で秋に創刊できることに
なりました。
金田万寿人さん、いろいろと、ありがとうございました。合掌。

60年安保で、大学は違いましたが同時代経験をしており、何かと話す機会がありま
した。早く逝く同年代組みが出てきています。




2013年12月2日月曜日

大槌の鼻まがり鮭

鼻曲がり鮭の新巻(2013・12・1影)

3・11の大震災後、最初に大槌町に足を踏み入れたときに見た、大槌湾に流れ込
む大槌川は、自動車、家屋、ドラム缶、巨石など瓦礫で埋まり川の美しい姿はなか
った。

だが、一年数ヶ月後には、大槌湾から遡上しようと帰ってきた「鼻曲がり鮭」の元気
な魚群が見られたのだから驚きます。
津波によって、漁船や定置網はすべて流失してしまったが、復旧が進んで秋サケ漁
の水揚げも順調に復活しているようです。

さて、このたびこの三陸大槌産の「新巻」を送ってくれたのは、義理娘母からだった。
彼女は3・11当日、大槌町の実家を離れて大船渡の医療関係の仕事に従事して
いました。大津波の襲来からはやっとのこと難を逃れたが、家屋が流出してしまい、
お祖母ちゃんの安否がわかったのは一週間後のことでした。
こうした状況のなかで気丈に生きる娘母に、被災地を訪ねた時、上京してきたとき、
話す言葉がみつからなかった。
「わたしは生きている。亡くなった知人が、人がいっぱいいる。」と言って、表情はあ
っけんからんとしていました。
被災のこと、大槌のことを語ることを避けるように寡黙になっていまいたが、こうして
地元で再興をはかる知り合いのお店の海産物を送ってもらったことで、少しは許す
気持ちに和んできているようで、安堵しているところです。

2013年12月1日日曜日

大槌町、「ベルガーディア鯨山森の図書館」から




森の図書館を主宰する佐々木格さんから展覧会の案内が届きました。
「松家圭輔展」への誘いです。
現在展示中で、12月6日まで。(無料)

以下、チラシから───。
松家さんは、幼い頃に交通事故にあい、障害が残った。3年前から右手だけを使
い、絵を描くようになりました。
明るい色彩で海や大好きな三陸鉄道、最近では裂き織りを題材とした絵も描いて
います。

案内のチラシには、大槌湾と船越湾に突き出したリアス海岸の半島に、三陸鉄道
をイメージする透明感いっぱいの絵がそえられています。
「森の図書館」の活動に、先の「宮沢賢治と大槌のバラ輝石&童画展」につづき、
「松家圭輔展」が、佐々木さんの眼力でギャラリーに加えられることに感動していま
す。