2014年1月31日金曜日

ロック歌手からの御礼!

トミー・野沢さんからの寄稿──19



 私が「でん八」の兄貴やアキちゃん、コンちゃんたちと知り合ったのが22、3
歳のころだったかな? ジャズ喫茶ACB(アシベ)によく出演していた頃だった
と思う。アシベの隣にキャバレーがあり、一、二度飲みに行ったことを思い出
す。当時、ポータブルが売り出された頃で、ホステスさんたちも小さな女性が多
く、ポータブルガールなどと呼んでいた頃だ!「でん八」の皆さんには本当にお
世話になった。

 大してギャラも取っていなかったため、お金もなかった。そんな時、アキちゃ
んは快くツケで飲ませてくれたもんだ。甘え甘えてその内ツケ扱いも一年に一、
二度の支払いにしてくれていた。年末になると除夜の鐘が鳴る前にツケ払いを
しなくてはと、池袋のジャズ喫茶が終わると同時にタクシーで借金払いに駆け
つけた思い出を今でもよく覚えている。階段を上り二階に行くと、アキちゃんが
ホッとした顔でニコニコしながら大きな帳面を出し、ツケの額を教えてもらい、
支払って、その日から、またツケで飲ましってもらった。大したギャラをもらって
いなかった自分には一番うれしかったし、心の休まる場所でもあった。帰りには
下に居る兄貴やコンちゃんと一、二分喋って帰る。

 また、いろいろな渡辺プロのタレント他大勢の同業者とも知り合い、私の生活
の一部となっていた「でん八」の皆様には、心よりお世話になり大きな声で言い
たい。「ありがとう!」72歳になったロック歌手、トミーより。
                           トミー・N(シャープ・ホークス)

2014年1月30日木曜日

「でん八」、50年目の告白

片山Kさんの寄稿から──18



よく続いたものだ。
芸大を出て勤めて2、3年目だから、昭和45年(1970年)頃のこと。仕事は忙し
かったけれど毎夜毎夜通いつめていた。はじめは「でん八」に、やがて「そのに」
に、そして「三」にである。新宿で飲んでいたと言っても、何の事はない一、二、
三を行ったり来たりの毎夜。「一」の一階の奥座敷、一畳だったが店が終わるま
で居て、同級のO君の青山ピーコック上のアパートに流れ込むか、アキちゃんの
帰り道に送ってもらって家に帰るかが多かった。カバンには歯ブラシと手拭が入
れてあり、どこにでも泊まれた。でも不思議に一ヶ月飲めた。多分ツケで給料が
入ると精算していたのではないかと思うが、安かったとしてもよくお金が続いたも
のだ。

 そう言えば、一晩で設計したことがある。ある夜、「でん八」の狭いカウンターで
O君と飲んでいたら、アキちゃんが「でん八・2」を始めるから設計してくれ、今晩!
締切りは明日の朝、と云う話になった。今晩?酒の勢いで私の勤めていた赤坂
のM先生の事務所に戻り、二人で徹夜して改修図面を書いた。本当に一夜漬け
の設計。手分けして僕が平面図などを描き、当時住宅公団に勤めていたO君の
方が断面詳細図を描いたのだから、ある意味貴重な図面ということになる。
朝方アキちゃんが、おにぎりと一升瓶を持って来てくれ、東京温泉に連れて行っ
てくれた。それが設計料。今はなき東京温泉、銀座裏の方だったと思う。そして
工事。多分事務所の帰りを早めて現場を覗いたのではないかと思うのだが、忘
れられないのは施工者が水道管を打ち抜いたこと。まだ経験も浅く、木造二階の
床下でそう云うトラブルが起きるのは想定外で驚いた。他の飲み仲間の人たちも
係わっていたようで、あれよあれよという感じで出来上がった。
 二人でよく飲んだ。と言っても実は酒は弱い。ただ毎夜、毎夜足が向かったと
いうのが正確なところ。そう言えば、週末土曜日の夜中、オールナイトの映画に
も通った。「でん八」でおにぎりを握ってもらい、高倉健や藤純子のヤクザ映画に
一喜一憂した。と言っても、実は徹夜も弱い。最初の派手な画面だけ観て後はほ
とんど眠っていた。

 思い出してみると、何のために「でん八」に通ったのだろうか。新宿が特に好き
だったわけでも、好みの女性がいたわけでもない。兄貴とアキちゃんの顔を見に
行ったにしても、それほど美男ではないし、噺家のように話が面白いわけでもな
い。二人とも声は渋くて良かったけど。
 ふと、もいかしたらそういう人たちが多かったのではないだろうか。大して飲みも
せず、何しに通ったか分からない人たちが毎夜、毎夜顔を顔を出したところ。
飲みに行くというよりも、飲みに帰る”わが家“のような気分に酔っていたのかも知
れない。
 50年経った今頃言うのも可笑しいけれど、兄貴、アキちゃん、店の酔い心地も
酔い醒めも悪くなかったヨ。
                               片山K

目瞼マヒにボトックス注射!

腎臓MRI検査(2014・1・16影)
(目瞼とは関係ありません)

日販から「水曜会」に出席。
次に定期的な目瞼マヒ治療をしてもらうため、御成門の慈恵医大病院に行く。

そろそろ十年近く診てもらっているS先生に、神経ブロック注射を施してもらう。
目の周りに6本、極細注射針でボトックスを注入するコト事態はずっと変わらな
い。この注射を決断した最初の頃は、危険を伴うので親族の承諾が必要であっ
たり、医師の他に研修生や看護師数人が立ち会っていたり、緊張させられたも
のです。最近は、注射する前後の血圧検査と数十分の安静を要するぐらいで、
淡々と処置を終える。

ボトックスによる治療は質、量、注入のテクニックにより効果が全く違ってくると
言われています。ぼくの治療は、経験の豊富なS医師の下でうけ続けてきてい
るのが、これまで目スっきり好結果をもたらしてくれている。
技術的更なる進化なのか、例証の蓄積から導かれるのか変化があって、最後
の一本の目じりにうった注射液の量が多かった気がする。
そんなことを感じながら、これでまた数ヶ月は目瞼マヒのうっとうしさから開放さ
れと思うとうれしい。

2014年1月29日水曜日

大雪のなかタクシーで、、、!

y永田さんの寄稿から──17



 原稿の依頼があった11月頃、永田は体調を崩し書くのを渋っていました。
 「書きたいことがあれば私が代わりに書いてあげるから」そう言いながらゆっく
り話を聞くこともせず、永田は12月14日に鬼籍に入ってしまいました。

 ”アニキ“や”アキちゃん“に感謝の気持ちも伝えたかっただろうし、また建築家
として足元のしっかりしていなかった頃の拠り所として、うさも愚痴も聞いていた
だいたお礼もきっと言いたかっただろうと思うのです。お二人にも永田にも申し
訳ないことをしたと思っています。
 
 永田にとって「でん八」は、普段ご無沙汰をしていても、気心の知れた親類の
ような存在だったに違いありません。「でん八」に行っていた、”アニキ“と一緒だ
ったと言えば、ご帰還が明け方になろうが許されると思っていたようで、悪びれ
もせずよっぱらって、何やかやとわけのわからないことを言っていました。
私が一緒にお店に伺った時はいつもきまって、永田がいかにいい男であるか、
というほめ言葉ばかりでした。その裏には、私に対して「だめな男だがよろしく」
といった、兄貴としてのかばうやさしい気持ちがあったのでしょう。

 今から40年前に、私は長女を出産しました。その日は十数年ぶりの大雪の
日で、都内の交通機関は完全にマヒしていました。そのなか”アニキ“はタクシ
ーで病院まで駆けつけてくださいました。私は大変恐縮しました。それまでただ
の店主とお客の付き合いだと思っていましたから、、、。たぶん、かわいい姪が
生まれたような気持ちでいてくださったのに違いありません。
 ”アニキ“の逝去の知らせを受けたとき、悲しみはそれは深いものでした。そ
の頃は仕事も忙しく、なかなかお店に顔を出す機会がなかった頃でしたので、
悔いる気持ちが大きかったのでしょう。
 今、私はなんとなくほっとしています。きっと長い間の空白を埋めるべく二人
は、空の上で大いに呑み大いに語り合っていることでしょう。
                                        y永田

2014年1月28日火曜日

追想 「でん八」

永松Yさんの寄稿から──16



 「でん八」によく行ったのは23、4の頃から30代前半の頃のような気がする。
40年ほど前の事なので記憶も朧げ、まあ青春時代と云ってよいかと思う。思い
出すと照れくさいような、気恥ずかしいようなどこか草いきれのするような、熱い
ヤカンに手で触れるようなそんな感覚を想い起こさせる時代だった気がする。
まあ青春とはいつもそんな時代なのかも。

 あの頃やたらと夜な夜なジャズ喫茶とかゴーゴーバー(デイスコとは云わなか
った気がする)。ジャズビレッジ・ビレッジバンガード・DIG・DUG・木馬・LSD・
プレイメイトetcに足を運んでいた。タバコの煙が蔓延しうさんくさい輩が傘を抱
えて、時代の苦悩を一人で背負っているような、そんな空気が充満していた。ど
こか「俺にはあまり向いていない」苦悩面は好きじゃない。もっと俗で、浪花節で、
怨歌で、陰気でありながら陽気な風を欲しがっていた。そんな時、ある偶然から、
某女性から面白いマスターが居る飲み屋行こうと誘われた。三越裏の小さな店
だった。マスターはちょっと知性を押し隠したようなテキヤの兄さんという感じ、ど
こかほっとするような気がした。元々日本酒が好きだったせいか店のオデンを肴
に夜毎通い始めた。三日に一度は行っていた気がする。(今思うと仕事もなく金
もないのによく通ったものだと不思議に思う。)その店に大学の建築科の先輩が
3、4人来ていた。ちょっとびっくりした。そういう関係か美大生がよく来るようにな
り、とても美術論と云えない話の渦のなか、暴言と怒号と喧騒の中で鬱屈する気
持ちを拡散していた。しかしそこにはクマさんとかシゲさんとかタケさんとかシロさ
んとかどこか長屋から飛び出してきたような人たちが我々小なまいきな青臭い連
中を中和してくれるような有難い存在として居てくれた。ある意味バランスの良い
店だったのだ。その内、でん八「そのに」「そのさん」が出来、そこからゴールデン
街あたりに飛び出して行った。ちょうどその頃、都電がなくなり、その跡地がケン
カのグランドとして皆に恰好の場を提供していた。もちろん2勝13敗という感じで
したが。

 60~70年代という時代は良かれ悪しかれ面白い時代だったのかなと思う時が
ある。フーテンあり、ヒッピーあり、学園紛争ありのまだ暴力が未来への変革の手
立てとして精神的に許容された時代だったのかも。それとも今のつまらぬIT社会
の身体感覚喪失の予感として暴力が機能していた時代だったのかも。いずれに
せよもうそんなヒリヒリするような胸がざわめく時代はやってこないだろう。もう時代
はずーと喪中のまま続く気がする。これから目に見えない放射能の霧を背後に感
じながら、さまよえる老人として、「でん八」のような階段のある薄汚れた巣窟を求
め徘徊していくのが関の山。うまくいけば天国(地獄)への階段をかろやかに落下
してみたいものだ。多分その階段は「でん八」の階段からずーと続いているのだか
ら。「でん八」の階段から落下した時から体は宙に浮いたまゝ。
                                     永松Y(建築家)

2014年1月26日日曜日

私と「でん八」との思い出

奥Sさんの寄稿から──15



私と「でん八」との出会いはまだ駒沢大学野球部に在籍していた頃でした。
 学生帽に学生服姿である人に連れられて、三越裏の細い路地とちょっと入っ
た小さな入口。一階には大村昆によく似た通称コンちゃんが働いておりました。
そのコンチャンもユニークな人物で今でも鮮明に覚ええいます。そして細い階段
を登り小さなカウンターだけのおでん屋を紹介されたのが始まりでした。

 不思議だったのはお客さんがカウンターのマスターを兄貴、兄貴、と呼び注文
していることでした。第一印象ちょっと”アブナイ“店かなァッと思ったぐらいです。
でも私もすぐに兄貴と呼ぶようになるのも時間はかかりませんでした。兄貴も「オ
イ、ススム、ススム」と可愛がってくれ相談にも乗ってくれるようになったのも嬉し
かったものです。

 その頃、アキさんは開店したばかりの「でん八・そのに」のほうで営業されてお
り、私も両方の店に行くことが常になっていきました。アキさんの話術の素晴らし
さ。やさしさは今の私の商売の原点になっていると思います。それから45年経ち
私の青春時代のすべてが「でん八」から始まったのも過言ではありません。また、
いろいろな人たちに出会うことができたのも人生の宝物となっています。
 大学教授、タレント、ミュージシャン、そして芸大の学生さん。そのなかでも自宅
が近いこともあり、四十数年余り家族同様付き合いさせていただいた飯田のシゲ
さんに会えたのも幸せに思っています。でも、最後を見届けられなかったことが
今でも淋しく、辛く、悔しい思いでいっぱいです。

 私も、未だ王子で飲食店ダイニング・バー・ザGを三十年余り続けており息子二
人が主になって頑張っています。
  「でん八」50周年記念行事がありましたら、是非お知らせください。皆様に会い
たいと思っています。
                               奥S(ダイニング・バー)





























もう一度、中野で歌おう!



今日、日赤病院に親友・リュウAを見舞う。
今月15日に救急入院して心配されていた様態が少し落ち着いたとの知らせが
あって、Eh、Sx、Stさんと武蔵境駅で落ち合って病室を訪ねました。

体力は大分落ちているようだが、幸いに意識は鮮明で、会社のことなど気にか
けている様子。暮れのW忘年会写真を見せ、それぞれの話題が出ると顔が緩
んだ。皆と、突然どうこうなる状態ではないことを確かめ、ちょっと安堵した。
「もう一度、中野で歌おう」と、一声を残して短時間で病院をあとにした。

友人、親友、友に冠する字句の選択に迷うことがある。
そもそも親友というものは必要なのか、と云う人がいれば、重きをなさない人も
いるであろう。振り返えってみると、これまでの人生のなかで、どれだけ多くの人
間関係を紡いできたか。だがその大半は、知人以上、友人未満という人で占め
られていて、いわんや親友となると、、、。
学生時代、20代の「或る死」から人の死に接してきた。これまで、Ht、Hm、Tt、
Ss、Rm、DyそしてKhと号泣した友。ぼくにとっては、彼らが親友であり、ぼくの
心情も彼に伝わっていると思っています。
おおゥ、リュウ!お互い未だ先があるよ。


2014年1月24日金曜日

学生時代の半分は「そのに」で過した!

「字数足らず、<忠さん>のことなどやむなく割愛しました、、、」。と一筆添えられ
ています。野瀬Mさんの寄稿から──14


 私が」「そのに」のアルバイトのバーテンをしていたのは、大学2年生、昭和48
年の秋から二年間です。「マスター」こと松尾Tさんの高校の、しかもクラブの後輩
という縁で手伝い始めました。

 当時は、「マスター」と「忠さん」それにコックの「城さん」と私の四人、中華料理と
サントリーの「角」がメインというユニークなと取り合わせのスナックでした。
 「そのに」の看板メニューは、何といっても「マスター」の話でした。酒と煙草で鍛
え上げられたしわがれ声で、どんな人でも、話をすればすぐに引き付けられる話
術の持ち主です。その「マスター」が姿を現すと、店がパーッと明るくなります。カ
ウンターには、一人でやってくる常連さんがそれぞれの定位置を占めますが「マス
ター」を待ちわびるお客さんが随分といました。
 他愛ない話でも「マスター」にかかると面白い話に変わりますし、口の重い人に
も「調子はどう?」とか話しかけておいて、次第に自分のペースに引き込む術は鮮
やか。特に、友人待ちのお客や盛り上がりのないグループに息を吹き込むのは天
下一品で、いつの間にやら主人公におさまっていました。

 一方、お客さんには、フリーのライターやカメラマン、役者さん、若手の落語家、
バンドマスターらがいらして、まさにフリーランスというか自由人の宝庫でした。演
出家の蜷川Yさんも若手の役者さんと激論を交わしていました。そのような様々な
ジャンルのお客さんが店のムードを作っていたのが「そのに」でした。
 学生運動が沈静化して世の中が落ち着いたというか澱んでいた時に、「そのに」
には音楽や芸術の話が溢れて、次代の流れに負けぬ意地を見せていたように思
います。全くもって色気ははゼロ、酒の肴は「話」という大人の集まるお店だったと
思います。

 私は学生時代の半分を「そのに」で過しました。私の青春は「そのに」と重なりま
す。自由や文化そして、良くも悪くも大人ということなどを肌で体験できた、文字通
り社会勉強の場でした。随分皆さんのお酒を頂きました。所詮「学生アルバイト」と
いう扱いではなく、一人前の人間として接してくださった大人の常連さんに私は育
てられたのだと思っています。また、「マスター」の話術は、その後アナウンサーに
なった私には、大きな財産にもなりました。
 こうして振り返えれば、私の身体には、今も「そのに」が往き続けているのかもし
れません。
 当時の皆さんともう一度、あのでん八「そのに」で、話と酒を味わいたいと思いま
す。
                                野瀬M(アナウンサー) 
                                               

2014年1月23日木曜日

讀賣新聞新春懇親会へ

(2014・1・22影)

東京會舘で開かれた讀賣新聞の新春懇親会に出席する。
年に一度ぐらいしか会わない出版業界の関係者が多いが、新年の挨拶代わりにな
る格好の機会でもある。
3・11の被災地を訪ねた数社の出版人とも交流できました。

渡邊讀賣新聞社主筆の冒頭挨拶は、本屋大賞が読者層を広げている功績を称え、
消費税と財務省の関係に切り込む刺激的舌鋒に変らない独特の姿勢を見た。
今年は珍しく、読売ジャイアンツの話題が上らなかった。

後、水曜会の終わりごろに駆けつけて、ゴンパチさん、カンさんと二月初旬の寒味噌
仕込みツアーの打合せ。年々、仕込みの手順に慣れてきて、今年も美味しい味噌造
りが楽しみ。

2014年1月22日水曜日

キョウちゃんのことが、、、。

平田Sさんの寄稿から──13 



そうですか、「でん八」50年になりますか。
私が丁度、40年ぐらいの常連になるのかな。

アニキとアキさんの酒脱な話に魅せられてずい分と長いお付き合いをさせて頂き
ました。思いつくままにゆかりの人を列記してみます。落語家みたいなサトキさん、
一回は彼のシャンソンを聴きたかったチュウさん、札入れからお釣りを出すしぐさ
が忘れられないシローさん、浄土に行ってしまったキョウちゃん、シャイな中華板前
のノブちゃん、あとチビシゲさん、フナコシ君、ミヤちゃん。
 お客さんとして、いつも酩酊状態のイイダのシゲさん、饒舌なタケさん、不満顔と
笑い声が相半ばするミノルさん。

 そのなかでキョウちゃんとはラグビーを通してよく遊び回りました。ポン友として彼
への監視が足らず昇天させてしまったことが今でも残念でなりません。
 偶然、ゴールデン街の「久結」という店であったミノルさんとひょんな事で彼の奥さ
んの話題になり「ミノルさんにはもったいない奥さんだ」とほめちぎったら「ここの勘
定、俺がもつよ」と、片ホホ上げてニヤリ。ミノルさんはいい人です。
 あと編集委員に名前のある節ちゃん、もう30年以上あってないかな、元気である
ことがわかり、まさに慶賀の至りです。近々に会えることを楽しみにしています。

 これからも、コージ店長、ボチボチとのんびり店を続けてください。年に三回は顔
を出します。これからの「でん八」に、ばんざあい!
                                          平田H
 

2014年1月21日火曜日

「でん八」とスミダちゃんと私

A住田さんの寄稿には、久しぶりに原稿を書くことで「でん八」の楽しい思い出が
甦りました、と一筆添えられていました。──12



「でん八」50周年おめでとうございます。

 26歳の頃、親友のミエに連れて行かれ「でん八」デビューでした。よく行ってい
た「その一」、「そのに」の思い出を書きたいと思います。「その一」トントンと二階
へ。カウンターしかない店内はいつも混雑していた。長くて狭いカウンター!人が
出入りするたびにイスをずらしてもらわないと通れないほど狭かった。トイレに行
くとなると壁側を通してくれない人もいて、もみ合いへし合のおしくらまんじゅう状
態になり通り抜けるのが大変だった記憶がある。そんなカウンターで食べ
たおでんの味も忘れられない。「しろうちゃん、大根と厚揚げと、、、」と注文すると
菜箸でおでんの鍋を叩きながら手際よくお皿におでんを入れていくしろうちゃん!
カッコ良かったなァ。あの狭い空間で肩と肩を触れ合いながら呑んだあの熱気が
今は懐かしい。

 「そのに」最初は大人の仲間入りしたいのと渋いマスターアキちゃんにあこがれ
て行っていたと思う。主にカウンターに座り、お約束のように角の水割りと青椒肉
糸、中華風冷奴を注文。そして一杯飲んでジュークボックスへ。かける曲も決まっ
ていた。うつろな愛、愛がすべて、京都の恋など、、、。とにかく居心地が良かっ
たのと本格的中華が食べられることもあり友人のミエと週に一回は必ず行ってい
た。その内、常連中の常連の芸大卒の仲間たちと話すようになったのだが、、、。
まさかそのなかに人生のパートナーになる人がいたとは夢にも思わなかった。そ
のころ彼のことをスミダちゃんと呼んでいたのだが、ゆっくり話したり一緒に飲ん
だ記憶がない。なぜなら彼はいつも右手をちょっと上げ「お先に」と一人先にお店
を後にしていたからだ。そんな彼と十数年たっておでんの「しろう」で運命の再会!
そして一年後にゴールインした。改めて出会いの場所である「でん八」に感謝した
い。

 たくさんの楽しい「でん八」での思い出!スミダちゃんと一緒に語り合う事が出来
ないのが残念です。大好きだった「でん八」。彼はどんなことを書いただろうか?
??だ。ただ「でん八」で生涯の友と知り合ったのは間違いない。野球に空手、海
に山にと楽しそうに友達と過していたのを覚えている。「でん八」のお陰で彼も私も
たくさんの青春の思い出と素敵な友人をつくることができました。ありがとうござい
ます。そして50年という長い歴史のなかで「でん八」で過した人たちの絆が今も繋
がっている事が本当に素晴らしいです。「でん八」万歳!
 「でん八」の皆さん!これからもよろしくお願いします。
                                          A住田

2014年1月20日月曜日

ビター・アンド・スィートメモリーズ

編集委員・根本Yさんの寄稿──11



 振り返ると、様々な人に助けられて今までなんとか生きてこられたものだと思
う。その一つが「でん八」での人との出会いであった。見かけによらず小心者で、
人と話す事を苦手にしていたけれど、「でん八」の狭いカウンターでの触れ合い
によってそれを少しずつ克服できるようになった。これは仕事をする上でもとて
も役に立った。
 松尾兄弟にもいろいろ教えてもらった。特に学生との付き合い方は二人の客
に対する接し方を見ていて多分覚えたのだろう。あの狭い空間は濃密な学校だ
ったのですね。
 
 いつの頃だったか、銀座の資生堂パーラーで行われたある音楽学者の出版
記念会で長身の男性が挨拶をした。「今日はこの会を彼の童貞を守る会にしま
しょう」。会場は爆笑の渦に包まれた。それまで全員がテーブルに向かって座っ
ていて何となく気詰まりだった空間が和んだ瞬間だった。この長身でがっしりし
た体型の方が民族音楽学者で優れた編集者の秋山Ryさんであることを知った。
二次会で一緒になり、それ以降は親しくつき合わせていただく事になった。ご自
宅にも何度か伺った。そこは早稲田のお寺で宝泉寺という古刹だった。ここが、
松尾家の菩提寺であることを知るのは後のこと。
  
 中央通り、名前を忘れた安い天丼や、ランブル、風月堂、ウィーン、でん八、キ
ーヨ、渚、ライオン、オスカー、コルトレーン、グリーンス・リーヴスと思いを巡らす。
「なつかしい痛みだわ、、、」と松田聖子状態になる。
 鬼籍に入った思い出深い人たちがいる。松尾の兄貴はあの精悍な顔で皆を安
心させた。存在だけで何だかほっとさせてくれた。日本テレビの百済淑夫は優し
かった。その上、彼は真言宗豊山派の僧侶一千人が唱和する『千僧音曼茶羅』
を武道館で成功させた優れたデレクターだった。画家住田茂のモデルをやった
のも懐かしい。そしてよく「でん八」で一緒に呑んだフタミS氏を介して、「人間座」
の主宰者で演出家の江田和夫さんと知り合った。彼の演出した『詩人トロツキー』
で友人中沢忠が吟遊詩人を演じた。忠さんと物好きにも大晦日に、飲み屋を探
して吉祥寺の街を彷徨ったことが懐かしい。江田さんは「縛られ地蔵」で有名な
林泉寺の住職でもあった。学校の同僚であり新宿を飲み歩いた内藤Kさんを何
度か「でん八」に連れて行ったことがある。その内藤さんの墓が林泉寺にあるの
は不思議な因縁だと思う。

 「でん八」には沢山の友人、同僚、学会関係者、学生そして両親、兄弟、子供
までも連れて行った。というわけで親子三代に渡り「でん八」に出入りしたという
事になる。ある時、歌舞伎町の「そのさん」に顔を出すと、教員になるきっかけを
作って下さった山田S先生が珍しく一人で飲んで居られた。にこにこ笑いながら
「や~」と手を上げた姿が目に浮かぶ。
 もしかしたら全て幻だったかもしれないのだが。
                                                               根本Y(フランス語・文学教授)

2014年1月19日日曜日

とても、さよなら!なんて言えない。


門倉君の通夜に行ってきました。
桑原S、荒川T、山下T、大江A、依田Aらと同席。

いつかはこんな日がくるのだろうと、12月に「、、、四年もたつのに再発とかいわ
れ、でも強い治療はできないので様子見。のんきにしている。」と電話で話しを聞
きながら、気にかかっていました。

そして、新年早々の訃報には、エッ、早いというおもいで茫然としたが、到底亡く
なったとは思えないままでいます。
先ほど、ヤマモト君と電話で話したが、昨年暮れに、神田の古本祭りで偶然会っ
たと。「来年いっぱいは大丈夫と思うが、、、お互い元気で」、と言って別れたよう
だ。神田まで出かけ本を探索しているぐらいなのだから、読書欲旺盛だなと思い
さほど心配していなかったらしい。

門倉君と急接近したのは、「群遊」のタナカ、ツジノ君を交えて『藝術・国家論集』
の第2号を創る会合からでした。
この時は既に東大出版会の編集者になっており、同業の出版社仲間と云うこと
で一緒に飲む機会も多くなっていました。
ところが、彼の論理癖は飲む場所でも一貫していました。50年このかた変わるこ
とはなかった。読書批評にしても、論争するではなく、実に丁寧な話しぶりに引き
込まれ、大いに刺戟されると云う具合でした。
煙草も「コスモ」一筋吸い続けていました。

編集者としても、晩年に丸山真男講義録(全6冊)を年月をかけて仕事するなど、
人文系の多くの著者と接触があった。
ぼくも吉祥寺の埴谷雄高さんの家に出入りしていたので知っているが、線路を挟
んで在る丸山邸に、門倉君は通いつめて大仕事をした時期がある。
突出した校閲・校正者だった出口君が去り、今日また同時代を共有してきた「同
士」だと思っている門倉君に去られることが悲しい。


2014年1月18日土曜日

恋と革命と「でん八」と


編集委員・平井Yさんの寄稿──10

先ごろテレビで瀬戸内寂聴さんのインタビュー番組を視ていたら、九十歳の寂
聴尼がいちだんと声に力をこめて、「青春は恋と革命ですよ!」と喝破しました。
私は膝をたたいて「そうだ!」と叫びました。
 十五歳ごろから二十五歳ごろまで、私の人生は恋と革命一色でした。まあ面
白い人生ではありましたが、あまり楽しいと感じたことはなかったような気がしま
す。よく言われるように、青春ってものは苦しきことのみ多かりきで、いわば人生
最初の修羅場です。それが一段落したとき、私は不機嫌のかたまりになってい
ました。

 そのころ「でん八」と出会いました。第二の青春のはじまりです。この青春は楽
しかったなあ。そのあたりは座談会でたっぷり語られていると思いますが、なん
といっても「でん八」の目玉は店主の松尾兄弟、アニキとアキチャンの存在です
よ。あの、客との硬軟とりまぜた絶妙のヤリトリは、作為やマニュアルでできるも
のでなく、お二人の人柄が自然にかもしだす至芸でしょう。おかげで不機嫌時代
の私はどんなに癒されたことか。
 そんなオアシスみたいな「でん八」にも恋と革命はありまして、真正右翼のアニ
キに庇護された左翼青年たちの出撃と遁走の基地にもなれば、ややこしい色恋
沙汰のスリリングな演舞場にもなりました。そんなものは卒業したつもりでいる私
は、他人の修羅場を面白おかしく見物していましたが、あにはからんや私自身も
疲れる恋をしてしまい、お恥ずかしい修羅場を演じたあげく、日本から逃げだす
はめになりしました。三十三歳のときです。

 五年あまりウイーンで過ごしました。日本では断片的にしか知られないオース
トリア・マルクス主義とユーゴ・パルチザン(革命ですぞ!)の現地調査と文献あ
さりに熱中して、それほど日本が恋しいと思ったことはありません。でも、ときど
き「でん八」一号店のおでんのカウンターが思い浮かぶと、懐かしくてたまらなく
なりました。貧乏暮らしで縁のなかった日本レストランに初めて入って熱燗をひと
くち含んだとたん、どっと涙が噴き出したのも、刷り込まれた「でん八」体験の反
射作用でしょう。
 あちらでできた子供を連れて帰国したときは、もう四十歳に近くなっていました。
それからの「でん八」通いは歳相応に穏やかになり、細く長く付き合っているうち
に、いつのまにやら後期高齢者になってしまいました。その間にアニキが亡くな
り、フタミ君をはじめ昔なじみの常連もぽつりぽつりと鬼籍に入っています。私も
古稀を迎えた年に生死の境をさまよい、消化器を半分近く失いましたが、さいわ
い酒量は元のままなので、あの階段を昇れるうちは「でん八」に通い、遙かなる
恋と革命の余韻にひたらせてもらいます。
                        平井Y(著述業/福島原発行動隊)

2014年1月17日金曜日

袖すり会った芸能人

「でん八 50周年記念」冊子(準備中)への寄稿から──9
編集委員の森本Kさん。


 「でん八」開店初期の時代、いつ行っても誰かグループサウンズ関係の歌手や演
奏者が来ていた。当時、店のすぐ近くにジャズ喫茶「ACBアシベ」があり、人気GSバ
ンドが日替わりでステージを賑わせていた。そんな連中が、休憩時間や終演後に食
事や飲みに来るようになり、たまにファンの女のコまで混じっていた。

 L字型カウンター十人ほどの狭い店内で、そんな芸人たちと身体を寄せ合い、会話
も交わしながら飲み会いできるのが「でん八」で過すたのしみでもあった。
 新人だった頃の布施明もステージの合間にお茶漬けを食べに来ていたのを何度
も見かけたし、連日のように顔を出していたブルーコメッツのジャッキー吉川は歌手
の田川譲二や新人・尾藤イサオなんかも連れてきていた。
 ブルーコメッツのリードボーカル”大ちゃん“こと故・井上忠夫も後に奥さんになる女
性同伴でやってきたこともあった。それにいまや「NHK紅白歌合戦」「NHK歌謡コン
サート」などのステージで指揮をしている三原綱木はまだ十代後半の若者だった。

 綱木氏とたまたま末席が隣同士になった時、彼がカウンター内のアキさんに「初め
て自分でレコードを買いましたよ」と話しかけ、見せてくれたのが、なんと都はるみの、
「アンコ椿は恋の花」だった。あまりのアンバランスさにびっくりした記憶がある。
 当時の若者たちに超人気だった<日劇ウエスタンカーニバル>。出演できればス
ターの仲間入り。「でん八」の常連芸能人もほとんどが出演者だった。アキさんが公
演中の日劇の楽屋に陣中見舞いに行ってきたと聞いたときは、とても羨ましかった。

 そんな日劇常連出演者のなかに、歌って踊れる異色混血グループとして売り出した
シャープ・ホークス。なかでもリーダーの愛称トミーこと野沢祐二にはよく店であった。
メンバーのリキヤンこと安岡力也やサミーこと鈴木忠男もお馴染みさん。
 トミーとは現在でも交流があり、つい先日12月7日(2013年)に横浜YCCで開催
された<トミー野沢のクリスマスパーティー>に、アキさんと当編集委員のセッチャン
の三人で参加し、その場でサミーにも再会、懐かしいGS時代の曲を堪能でき楽しか
った。
 シャープ・ホークスの代表曲でもある「遠い渚」は、トミーのアレンジもの、いまでも色
褪せない名曲である。余談だが、故人になった安岡力也がファンの女性から逃げるた
めか、「でん八」の二階の窓から下に飛び降りたというエピソードもあり、勿論、目撃も
した。
 黛ジュンと結婚して話題になった江藤勲も常連だった。<ウエスタンカーニバル>で
は、津久美洋とオール・スター・ワゴンでベースを担当。現在では筒美京平、鈴木邦彦
など大ヒット作曲家がこぞって彼を指名するという日本一と評判のベーシストである。
 店ではいつも紳士的で静かなリードで飲んでいたのが、ドイツ出身の歌手フランツ・
フリーデル。ロカビリーグループのなかでもその歌唱力と端正なマスクで人気を博し、
カバー曲「電話でキッス」が大ヒット。彼に頂いたサイン入りレコードは今でも大切に保
存している。彼は平成18年に亡くなった。

 ほかには、ワイルドワンズの加瀬邦彦、全員集合が始まる前のいかりや長介、フォ
ーメイツの渚一郎、ブルージンズのドラマー工藤ちゃん、その奥さんになった上野の小
料理屋の娘サワちゃん、二人はその後、有楽町ガード下で「やきとり屋」を始めた。
 小松政夫、ヨーデル歌手大野義夫、それに内田裕也の顔も。いまやメジャーになって
活躍している人、引退した人、人生さまざまだが、青春時代に「でん八」で過した懐かし
い記憶は私も含めて忘れることはないだろう。敬称は略させて頂きました。
                                       森本K(ライター)


2014年1月16日木曜日

洋泉社に行く。



早朝、東京医科歯科病院でMRIの検査を受けた後、移転した洋泉社に行く。

五度目の移転先は、御茶ノ水駅前の高層ビルの一角。事務所のスペースは、
一段と広くなり、素晴らしい空間になっていた。早速、タカノがニューオフィスを案
内してくれる。

新年とともに、社員皆がいきいきと仕事に取組んでおり、気軽に声をかけてくれ
るのがうれしい。編集者の企画力も制作能力も着実にアップしているようだ。
映画秘宝グループの単行本およびムック本もおしなべて好調のようでだし、さら
に歴史ムックや実用書でもベストセラーが生まれて好調を維持している。

営業にも、新人が加わり積極的に販売促進ができる体制になって、編集との両
輪がかみ合っているようい見えた。
この厳しい出版業界にあって、年々業績アップは至難なれど、実現しているのだ
から称賛ものです。



2014年1月15日水曜日

門倉H君を悼む。

今日、午後、門倉君が亡くなった報に接し、驚きました。

暮れの会には、ちょっと歩くと息が切れてしまう様な体調で欠席だった。賀状に
は、「忘年会に」皆、集まりましたか。」とか「暖かくなったら会いましょう。」とあり、
電話では、友人Yの病状を気遣うほどで、少し安堵していました。
今となれば、厳しい病状だったであろうことを察せられるが、彼何時もの飄々と
した風体と言葉にさし迫った危機を感じとれなかった。


『藝術・国家論集』(群遊同人)を創った半世紀前、お互いが高揚していた時を
思い出します。
(「『藝術・国家論集』をはじめた頃」──田中基『縄文のメドゥーサ』に寄す 
と云う門倉君の衝撃の評論がある。)
既に、辻Tも龍Eもいなくなって、残るは田Mだけになってしまった。

70歳過ぎたぼくは、もう幕引きなのかどうか判断できないで迷走している感あり
ですが、親しい人、特に「戦友」に先立たれるのは堪えます。
出口君の一周忌の墓参りを昨年したばかりで、、、。

2014年1月14日火曜日

「森の図書館」、鼻曲がり鮭

森の図書館

「風の電話」と「森の図書館」を主宰する大槌町のササキさんから、春を迎える便り
が届いた。

あい変らず忙しく本の整理や、訪れる被災地の子どもたちの対応に追われる毎日
のようです。
そのようななかで、「今年もまた、誰か人のためをモットーに、心のケアー、感性の
育み、障害者の自立支援を目指す。」と、精力的に活動の幅をひろげている決意
の現われと受け止めました。

大槌町広報の「ひょこりひょうたん島日記」に、大槌川河川敷で震災後初めて「サ
ケのつかみどり」のイヴェントがあって、子どもたちの興奮する歓声がこだました
と伝えていた。こんなニュースを知ると、復旧が進んで秋鮭漁の水揚げの戻って
きた活気を感じさせてくれる。
津波襲来で、娘の家は土台だけ残して影も形もなくなりましたが、その側の堤防
の向こうに清流大槌川があります。震災前、家があり生活があった頃、その娘の
家から捕り立ての「大槌(南部)鼻曲がり鮭」が送られてきていました。



星野温泉「トンボの湯」 スキー2



(2014・1・13 Gyo影)
スキーを滑り終えた最終日に、昨年も行った星野温泉の露天風呂に浸かった。
昨年は吹雪で、露天を囲む樹木に積もった雪と氷結がキラキラ輝き、凍てつく
寒さを忘れさせられるほどでしたが、今年はうって変わって積雪はほとんどなく、
丸裸の雑木林が風情なく佇んでいた。
露天風呂もそうだが、スキーゲレンデも半日ぐらいは、雪が舞って欲しくなる。
ゴーグルに付く雪を払いのけながら、新雪にシュプールを描きたくなる。
これまで、数日間スキー場にいて日中は勿論のこと、朝晩に雪が降らなかった
こととなど経験がない。

往復の碓氷峠越えも、チエーンなしでアイスバーンに注意を払えばクリアーでき
たほどです。わが家から一時間20分!

                                                         

2014年1月13日月曜日

スキー


スキー場頂上から/浅間山(2014・1・13影)
途中、空白があるが頻度の差こそあれ、シーズンスキーを毎年、楽しんでいる。
40年前に息子にせがまれてスキーを楽しんできた様に、今年は、ハルに「頂上
から滑り降りるんだ!」のやんやの催促にのせられて信州のスキー場へ。

三日とも晴天続きで、冷え込みも和らぎ、視界もよくて子どもにとっては滑りやす
い、最高のコンディションだった。
インストラクターの資格をもつGyuの昨年からの特訓が功を奏して、ハルの上達
は目覚しい。頂上から、ハルの気合一発でスタートするスラロームについて行く
が、完敗してしまった。

ぼくの滑りを見てYuは、老人ぽくなったと言う。息子は70歳過ぎのスキーヤーと
しては上手いもんだよと、煽ててくれる。その気になって調子に乗って滑降するが
何度も転倒してはサポートされる始末だった。
毎年、この時期に恒例化している初すべり。いつの日まで続くか、期待もされてい
ます。
                        



2014年1月11日土曜日

私の「でん八」物語は小さなジャズ屋から始まった!

通称、節ちゃんの寄稿から──。(その8) 


 今回「でん八」50年周年記念に何か一筆を、と言われ、「うウウゥ~ン」と。
何せ一杯呑みながらのおしゃべりと違って、文章でとなると何から書いていいの
やら、、、余りにも数々の思い出が、、、オマケに文章が苦手ときた。まあ思い出
すままに、断片的に綴ってみます。

 先ずは、「でん八」を知ることになった話から~。私は二十代に上京して直ぐに
もともと興味深かった音楽(特にジャズ)を聴きたくて、当時一番ジャズ屋の多か
った新宿を徘徊するようになっていた。その中で私がお気に入りのお店が新宿
駅東口正面のビルの地下二階にある「CAT」であった。そのお店のマスターの
オオタちゃんが仕事を終えると、夜な夜ななじみの客たちを引き連れて行くお店
が三越裏通り路地にあった「おでんのでん八」だったのである。

 その「でん八」のオーナー松尾兄弟が九州佐賀の出と云うことで、私も鹿児島
出身でつい話し込んで長居することが多く、元々人見知りしない性格ゆえに、つ
い回りの客たちにも声かけしていたら、やはり九州熊本出身の「えみちゃん」と云
う同世代の女性と意気投合、「CAT]の仲間に関係なく通うようになったのである。
そのえみちゃんとは、その後開店した「そのに」「そのさん」「銀座店」「青山店」と
なんと三十年間も飲み歩いた仲間であった。が、、、。

 その後、自分の職場の仲間たちと各々の店で、やれ「忘年会」「歓送別会」「祝
還暦会」「結婚式二次会」と、松尾兄弟の素晴らしい歓待に気をよくして利用させ
ていただいた。
 今ではもう職場もリタイアして70代になってしまったけれど、私の「でん八」通い
は生きている証にもなっている。もちろん「CAT」通いもまだ続いているのである。
そして「でん八」とは、そこで働いていた人たち、出入りしていたお客たちの様ざま
な人間模様が松尾兄弟を中心にした大きな家族の歴史のような気がしてならない。
残念ながら、役者みたいな声と、素敵な笑顔で迎え入れてくれてたお兄ちゃんは
今は居ないけれど、弟の会長アキさんと長男のコウジ店長の笑顔が変わりなく迎
えてくれるのがうれしいのである。

 最後に「でん八」にはこんな唄が似合いそうで、抜粋してみました。
        「時代」 中島みゆき
     、、、そんな時代もあったねと
     いつか話せる日が来るわ
       あんな時代もあったねと
     きっと笑って話せるわ
       だからくよくよしないで
     今日の風に吹かれましょう
       まわるまわるよ時代は回る
     喜び悲しみくり返し
       今日は別れた恋人たちも
     生まれ変わってめぐり逢うよ
       めぐるめぐるよ時代は巡る
     別れと出逢いをくり返し
       今日は倒れた旅人たちも
     生まれ変わって歩き出すよ、、、

追伸 どうしても逢いたくて、、、。
 前出の「えみちゃん」とは二十年以上、音信不通。
 いま、何処で、、、。
                                 Si(通称:節ちゃん)

2014年1月10日金曜日

どんど焼き

羽村の堰:どんど焼き(2014・1・10影)

今日、多摩川「羽村の堰」に準備されたどんど焼きの三角櫓に正月飾りとハルの書初
めを納めてきた。
燃やすのは、13日(成人の日)のイヴェントだが、当日に参加できないので繰り上げ
た。

この行事は、出雲地方の風習が発祥であろうと考えられているが、中国山地を隔て
て隣県がぼくの田舎で、15日の小正月に子どもたちが笹で囃したてながら盛んに行
われた恒例のもようしだった。
火をつけると一気に燃え上がり、青竹の爆音にビックリしたり、書初めが燃えながら
空に舞い上がる浮遊を楽しんだりしたことが懐かしい。
割った竹に挟んだお餅を残り火で焼いてぜんざいにして食べたりもした。食すれば、
一年を健康で無事過すことができるという。

2014年1月9日木曜日

「でん八」と私

土Cさんの寄稿から──。(その7)

 でん八50周年おめでとうございます。
 思い出は数多くありますが、本になることなのでここは当たり障りのない話だ
けとします。
 そもそも、「でん八」に行ったのは大学1年18歳の時、昭和41年でした。大
学時代の友人のN氏がプロのバンドを、今は亡きAちゃんと一緒にやっていた
ことで、酒とエレキに興味を持っていたこともあり、N氏に連れられて行ったの
がきっかけでした。


 当時はあきちゃんがマスタ―で、彼中心にそこにいる皆が話題を一つにして
楽しく話しているのが印象的で、直ぐに虜に成り、足しげく通うようになりました。
当時を振り返ると、「その一」のマスターは最初はあきちゃん、次に兄貴へそし
てしろうちゃんと変わったわけですが、客層の変遷もありました。最初はバンド
関係の人の時代、サラリーマンが主流の時、芸大の人達が大勢を占めた時期
等々で、お陰で色んな人と出会うことができ人生勉強をさせて頂きました。又今
では女性が飲み屋に行くのは珍しくないが、当時は他ではありえないほど女性
客も多く、中でも魚を綺麗に食べるみどり姉さんを始め、M由紀ちゃん、ザワと
呼ばれていたAさん、今回の委員のSさん、そしてじゅんこさん等酒豪ぞろいで
したね。客の中で一番私の人生に影響を与えたのは数年前他界した重さんで
した。酒の飲み方の基本や女性のいろは、ちょい悪のことも含め、我が人生の
師の一人として色々ご教示いただきました。

 「でん八」は飲むだけではなく、何かにつけコア(中心)であったのではないか。
「でん八」から客同士が他の店へ飲みに行ったり、「でん八チーム」の草野球も
したり麻雀したりもしましたし、そう客同士で結婚した人もいましたね。
 麻雀と言えばいつだったか酒の後、或る人のマンションで徹夜マージャンし、
この度の委員のOさん(当時ちび長さんと呼ばれていました)が確か7連続トッ
プだったと記憶しているが、強い人だった、二度とこの人とはやりたくないと思
ったものでした。

 最後に、社会人になってからの事を一つ、同期の連中と「でん八」でよく飲ん
だが、新入社員当時のある日、「そのに」でザーサイ一皿だけで朝まで飲んだ
ことがある。当時は給料も安く、我々にとってはウィスキーボトルが高く、つまみ
を注文できる余裕がなかったからで40数年以上経った今でもその連中と飲む
たびにそのことが良き思い出として必ず話題にのぼる。「でん八」は我々同期
の友達づくりの場所でも有りました。
 「でん八」は私の人生の礎の少なくない部分になったのは間違いない。
 松尾兄貴も他界して寂しい限りですが、これからも「でん八」グループのご発
展を祈念して末筆とさせていただきます。
(最近ボケが始まっており、名前や内容に間違いがありましたら平にご容赦を)
                                          Dc



2014年1月8日水曜日

青い春

昨年につづき、『でん八50周年記念』冊子の寄稿原稿を、著者の了解を得て掲載
します。マスダMさんの寄稿から──。



 青い春という人生の季節が青年期にあるとすれば、わたしのその期もまた
青いものであったと、枯葉色の歳を迎えた昨今、いくらかの含羞のまなざし
をともなって振り返っている。
 その季節の少なからぬ時間を、わたしは「でん八」のカウンターで過ごし
た。
 駆け出しの編集者として、われながら勤労者と思えぬ自由な時間があった
こともあるが、夕闇が訪れると、新宿東口中央通りの路地を入った店の狭い
階段の上に足が向いた。 
 気の置けない先輩や友人そして著者といっしょのときもあったが、ひとり
の日日も多かった。階下にアニキが、カウンターの向こうのおでん鍋の傍に
アキちゃんがいれば十分だったのである。
 アニキは、ときたま二階から降ってくる注文に応じて料理をつくっていた
が、小さなテレビの前でナイターのヤクルト戦を観ていることもあった。ア
ニキがそこにいて、気合の入ったがらっぱち風の声が二階に立ちのぼってく
るだけで、店全体にどっしりとした重みと安心感を与えているように、わた
しには思えた。
 アキちゃんは、おそらく生きることに屈託をかかえているであろう酔客の
心を、大きな寛容さと深い交情で包み込み、温めた。

 編集者は、著者と本の打ち合わせや進行の確認そして雑談のために酒処を
使った。しかし、わたしには、そうした仕事を「でん八」でしたという記憶
がまったくない。著者との打ち合わせを終えて河岸を変えるとなると、ゴー
ルデン街その他の飲み処に移っていった。
「でん八」は、わたしにとって仕事の場ではなかった。友人や、ときには
ひとりで、アニキとアキちゃんの醸す空気に浸りながら安らぐことを自分
に許した、たったひとつの特別な場所だったのである。
 しかし、春の実が熟れて、やがて地に落ちるように、青い季節が移り過ぎ
ていくと、わたしの足も次第に間遠になっていった。
 この時期に手にしたかけがえのない果実は、ほかのどこにもなかったと思
う。その濃厚で、しかも大気のようにとりとめのない内実を捉えて表現する
ことはむつかしいが、わたしの青い春の時が「でん八」とともにあったのは、
まぎれもないことであった。
                             
                            Mm(編集者)
 
 

 


2014年1月7日火曜日

一月七日には七草粥を食べてきた!

(2014・1・7影)

この日は、七草粥を田舎でも東京でも欠かさず食べてきました。
今では、七草を食品売り場などにセットで売り出されているが、昔は小川などの水
べに茂るセリを採りに行かされたものです。
野草の「春の七草」をお粥にして食べるわけだが、正確に七種類でなかったり、入
れる物が違っていたりもした。さらに、わが家では必ずお餅を入れる慣わしがあり
ます。
七草粥を食べると、正月気分から現実の生活に引き戻される感覚をいつも同じよ
うに抱く。

午前中から明大前~出版健保~取次に、活動初め。
雑誌課を訪ねて、Nkに暮(29日)れから新年(3日)の書店の動向(POS店)を聞
く。前年の実績対比総計で5%程度(6.5%とも)、落ち込んでいるとのこと。
前年は、コミックに強力商品があったことと、長期の休日も影響していると見てい
るが、、、。
前年の販売実績は久々の復活だったが、未だ、凋落傾向に変わりない様相を表し
ている。

2014年1月6日月曜日

初、富士山眺望!

富士山~二階から(2014・1・6影)
新年五日目にして初めて、わが家から富士山を見ることができた。

昨日までは、晴れてはいても150キロばかり遠方にある富士山は雲にさえぎら
れて眺望できなかった。当然ながら富士山はやはり晴れていていたほうがいい。

春には富士スバルラインで5合目まで行き、Gyoと馬に乗って散歩したこともあっ
たし、、、。御殿場から山中湖、富士吉田経由で中央道へ。河口湖経由で富士・
富士宮へ出て東名を走るコース、、、。
富士山の周辺を360度走行するにしろ、太平洋側に向かって旅するときにして
も、わが家からは使い勝手がいい道路が錯綜している。
だから、実際に富士山の麓にいずして、遠くからの眺望だけで四季折々の旅を
思い出すことができる。
電線が邪魔して風景を阻害するな~!


2014年1月5日日曜日

書店へ

(2014・1・5影)
毎週、立ち寄っている未来屋書店で本の初買い。
『東京放浪記』(別役実著)と松本清張の『黒い福音』を購入。
泳ぎ海好きのハルはベルヌの『海底旅行』(ポプラ社・刊)を選ぶ。

清張の『黒い福音』は中央公論社版で読んでいると思うが、新しく買ったのは新潮
文庫:版で700頁の、著者一流の推理小説である。
清張モノは、何十年おきに何回読んでも面白い。
書店に隣接する珈琲店で早速、頁をめくる。

清張の推理小説は、最初の3、4ページでストーリーの中心となる風景から場所が
イメージできる設定になっており、主人公の風體まで浮上する。
、、、「二つの線は、或る距離をおいて、ほぼ並行して、武蔵野を走っている。」の
導入部があって、実際に起こったスチュワーデス殺人事件を推理し解決に向けて
ストーリー化する。
作品の系統では、<日本の黒い霧>の現実にあった事件の暗部を抉り出すノン・
フィクションに近い作品。
昨年は、結構途中で投げ出した本があるので、完読をこころがけよう。

2014年1月4日土曜日

「年神様」を迎える行事だが、、、。



ゆっくり正月三が日を過ごした。
年を重ねるとともに、年始のお客は少なくなってくるが、息子たち、孫があつま
ってくれて、お屠蘇を飲み、Yuの作ったおせち料理を食べて平穏に過ごした。

義娘は東日本大震災に未だ触れたがらないが、戦争を知らない世代は3・11
を戦争に匹敵する歴史的転換点と思っているに違いない。いまだ忘れられな
い光景がトラウマになっているのか。

1031日前の大震災直後に、たわむ東北自動車道を気ぜわしく走行して、遠
野・仙人峠を経て釜石から道なき道を掻き分けて、破壊つくされた大槌町に到
着しました。
緑の山脈、青い海。ぼくの田舎と変わらない自然の美しさ、、、。
そう見えたのは一瞬で、城山から眼下に広がる瓦礫で被われ、わずかな痕跡
を残す街と化した風景を見て、われにかえった。
この衝撃的な現実こそは、自分の足で被災跡地に立ち、しっかと見開いた眼
で見なければ感じられないコトなのだとおもう。

とにかく、足げに被災地へ行くことは継続しようと思っています。
年賀状でも、今春には盛岡の親戚に寄って被災地へ行く予定を言う友人など、
何人かいるようです。
2020年の五輪開催準備で東京は沸いているが、被災地のみなは到底そんな
気持ちになれるはずもない。

2014年1月3日金曜日

賀状のこと、つづき。


昨日、17人の一筆添え賀状を並べることで心情とか日常のリアルを知ること
ができました。手前勝手ながらも少し補足しておきたい。

*「電子書籍」が喧伝されていますが、活字本の良さを疑うことはできません。
*鬼門ナゴヤでトラ応援はつらいです、、、。
*また、津山に行ってきます。物凄い発見がありそうです。
*柳井原(中学時代に在)の野菜食べてネ!畑仕事で毎日、がんばっています。

*震災跡地を訪ねました。人の気配がありませんでした。早い復興を祈ります。
*石巻、女川、気仙沼、釜石、陸前高田行きました。今年も行くつもりです。
*昨年は思わぬことから御縁ができて本当にうれしく思っております。(2013年)
*良い出会いが、活動につながりました。多謝。
*「大槌の風」どうぞ吹きまくってください。健康祈ります。

*早大に、オペラ研究会に通っています。Skiも楽しんでいます。
*あちこちが、ガタがきていますが何とか元気にやっています。
*左手首骨折。ごあいさつ遅れました。
*東京時代から四十年以上、過ぎました。地方の過疎化、まだまだ続きましょう。
*小生は仕事は中断中ですが、丸山さんと大江さんを読んでいます。

一枚の年賀状のやり取りでアナグロでしか味わえない、情感を感受することが
できる。

2014年1月2日木曜日

年賀状


拝島大師(2014・1・2影)

北海道、岩手、東京周辺は勿論のこと、京都、岡山、四国、九州、沖縄エリアに
わたって、友人、知人、仕事柄、親戚縁者からの一筆添えの賀状が多かった。

*なんとも中途半端な隠梄者になりつつあります。
*お元気のご様子、ある方のフェイスブック投稿のお写真で拝見しました!
*大槌のきっかけは何ですか?
*静かな田舎暮らしを楽しみ、孫のパワーをもらっている爺さんになりました。
*どうしょうない時代ですね。
*TVで憲法9条反自衛隊特定秘密保護法案について発言したが大幅にカット!!
*昨年はドイツに四ヶ月ほど滞在していました。
*いよいよ、あと三ヶ月で<緞帳>となります。
*洋泉社が引っ越す前に一度社屋を見に行きました。懐かしかったです。
*親しい人の不幸や、母のことなどで、人と会うことを好まなくなったようです。
*ちょっと歩くと息が切れてしまいます。暖かくなったら会いましょう。
*「いけそうだ。」といえるまでもっていくには、少なくともあと一年はみなければ。
*昨年と今年は富士山の周りを歩いています。
*編集者として最後にやってみたいのは、やはり伝記ですね。
*とうとう古希になりました。あいかわらず外校とエアロビを続けています。
*森の図書館に行くことができました。感激しました。
*「大槌の風」ご活躍をお祈りいたします。

箱根大学駅伝の往路を見終えて、ハルをつれて拝島大師に初詣。老若男女で
ごった返していた。
Gyoは、18キロのジョギングに出る!

2014年1月1日水曜日

明けましておめでとうございます。

元旦(2014・1・1影)

元旦の朝、近景は晴れだったがベランダから眺望できる富士山は霞んで見えなか
った。

東日本大震災から、もう直ぐ四年目にはいる。
震災の翌年に迎えた新年は、どうしても「明けましておめでとう」と賀状で祝詞する
のを躊躇しました。被災者は仮設住宅すまいで、復興のめどすら立たない環境を
思うにつけ、年が改まっても、改まるものがなかったのであろうと思う。

元旦の新聞の紙面は、スマホ、SNS、IT、タブレット、LINE、などの最先端の通信
コミュニケーション用語が飛び交う。こうしたツールを普通に使いこなす世代が、今、
企業や社会の主だった位置を占めてきている。
ぼくの世代は、現職から引退してすでに10年経過している人がいれば、いよいよ
最後のお勤めも終わる長勤続の人もいます。
こうした時代の進化に棹をささず、焦らずマイペースで生きるしかない。

賀状をいただいた中に、ブログを見ている、読んでいてと云ってくれた人も十数に
いました。さらに、大槌町を訪ね「森の図書館」に昨夏、行くことができたこと、お役
に立つことがあればと、したためられたうれしい年賀状を新年早々頂き感激です。
今年も、無理せず少しずつ、、、です。