『新宿 でん八物語』に若い世代、藤竹Sさんの寄稿から──39
僕が初めてでん八を訪れたのは、21歳の時、昭和58年のことである。
前年から「でん八」で働き出していた松尾弘史君は、僕の小学校、中学校の同級
生で、やはり同級生の清水K君に連れられて行ったのだった。清水君は、松尾君
とは幼稚園、小学校、中学校、高校が同じだったという松尾君のマブダチである。
その年の春、清水君と僕は二年間の浪人生活を経て、やっと大学に入学したの
だった。
僕たちは、「でん八」を自分たちの新しい基地として認識していた。なにせ新宿の
歌舞伎町にあるのである。東洋一の歓楽街にあるのである! その歌舞伎町の
路地に入り、怖そうなお兄さんや美しいお姉さんのお誘いを断り、怪しげなビルの
階段を一段飛ばしで軽快に駆け上って、二階の扉を堂々と開ける。これは、まさ
しく大人の世界に足を踏み入れる行為であった。僕たちは、二回目に訪れた時か
ら、常連客の気持ちでいた。「でん八」は松尾君がいるのだから、日本で一番安
心できる場所だったのである。
当時の僕たちが注文したのは、ビールは二本目まで行けば上出来で、料理だっ
て三品くらいだったろう。そんな状態でも僕たちは我が物顔で腰を落ち着け、互い
の大学の様子や熱中している本の内容等を語り合っていた。
松尾君の伯父にあたる社長さんは、そんな僕たちを、いつも快く迎えてくれた。
社長さんは、気っ風がよくて優しくて、そして、とても知的な方だった。僕は、こんな
感じの人になれたらいいな、と思ったものだ。
松尾君はというと、僕たちに気づくと、小学生の時と同じように一瞬はにかんで、
あれこれと歓待してくれた。今にして思えば、学生生活を満喫し出した僕たちに対
して、松尾君は、社会人として生活し出し、慣れないことばかりで大変だったはず
だ。僕たちを甘い存在として捉えていたところもあったのではないだろうか。
僕たちは、そんなことは一切考えずに、お気楽に通っていた。
「でん八」に行き出してから、そんなに回数が経っていない頃、閉店時間が過ぎた
後もふたりで残っていたことがある。社長さんも板前さんもお帰りになり、お店は、
僕たちと松尾君だけになった。秘密基地は本領を発揮し出した。禁断の夜会が開
かれたのである。松尾君は饒舌になり、果てには、「何か食うか」と言って、いくつ
か料理を出してくれるようになった。やってはいけないことを始めたという意識は、
三人とも抱いていた。そのせいだろうか、松尾君が出してくれた豚の角煮のおいし
かったこと! その時、僕は初めて白子を食べた。美味であった。あの夜以来、
数回、禁断の夜会は開催された。
あれから30年以上が経った。松尾君が南青山の「傳八」から歌舞伎町に戻ってく
ると、僕は再び、怪しげなビルの階段を上るようになった。松尾君は、若い時のよ
うに禁断の夜会を開いてはくれなくなったが、今も一瞬はにかんで、僕を迎え入れ
てくれる。
「ROCKJET」 藤竹S