2016年5月31日火曜日

情報伝達ツールは的確に       1392

(2016・5・30 影:Tab)
出版社は、書店に認知されるためにジャンル別に数本のラインを敷くのが賢明だ。
そしてそのラインを少しずつ太くしていく。

最近書店へ行って感じるのは、以前ならジャンル別(ゾーン)のキーマンか、規模
によっては店長でよかったが、本部とのつながり、コミュニケーションをとっておく
ことの重要さを感じる。

情報伝達のツールは多義にわたってあるのだろうが、或る店長から、こんな情報
をもらった。
本部で集約された各出版社の「案内」をスキャンして、ネットで各チェーン店へ送
られる。
それを、毎日、各ジャンル担当者が一堂に会して発注の有無を決める手法。
なるほどと思った、スピーディーな決済で、同一情報の職場内での共有にもなる。

書店訪問はいまどき、労力と時間の無駄使いとの説をよく聞くようになった。
だが、出版・取次・書店業界こぞって厳しい逆風のなか、やはりきめ細かな書店
へのコミュニケーションによる商品提案こそ、売上をつくる突破口になるだろう。


アキさん、83歳か!         1391

(2016・5・30 影:コージ)
紀伊國屋書店に寄って、数ヶ月ぶりに夜の恒例「でん八会」に出る。
アキさんのちょとファショナブルないでたちは知られているが、Siさんかの誕生
祝ハンチングを被った姿、まだまだカッコよかたな!

「新宿でん八50周年」のイベント後に二度も大きなけがをして病院でリハビリを
継続している様子だが、その甲斐あって歩調も回復し覇気が感じられる。
高校生のときに吐血し結核を発病して以来大病と背中合わせで生きているよう
に見えるアキさんだが、弱音を吐いたことがない。
むしろ、経験譚を聞くだけで勇気づけられる。

20代の若いとき結核を患った母も、唯我独尊的療養後生活で85歳まで長命で
あった。
その母の没した年齢に達したアキさんから、僕の母親について「今、同年だね」
の言葉をかけられたのには驚いた。戦後直後に若くして結核になる人は多く、
患者同士が共有すた悲哀を感じさせられた。

(←ブログ:



2016年5月29日日曜日

運動会の花形徒競走         1390

(2016・5・28 影:Can)
写真機を持って以来、事あるごとに家族の写真を撮ってきた。
なぜ家族の写真を撮るのか、と云うのは一つのテーマになる。

きょう体育日和のなかハルの小学校の運動会が催された。
彼とおなじ幼少時の自分の体験から、花の徒競走で上位に食い込みたいと勝負
を意識し始める時に当たるように思う。
今年は今までになく内に秘めた競争心を、何かにつけ感じさせられるので、ちゃん
と一枚の写真に落とし込んでやろうと身構えてスタートの一発を待った。

スキーの滑降写真でもそうだが、動きにスピードあるモノのフォーカスは難しい。
この意識が強く、安直にも連写撮りに切りかえて、走者が望遠のフレームに入る
ところでシャッターを中押ししても焦点距離が機能せず、1位で駆け抜けるのを見
届けるだけに終わった。

昨年の50m走は、テープを切る手前で僕のカメラに気づき笑って手を挙げたこと
で1位になれなかった結構ユーモラスな一枚が残っているが、今年は、比べようも
ない失敗をしてしまった。

(←ブログ:2013・5・3 「羽村の堰・ハル魚を捕る」)
(←ブログ:2014・5・5 「こどもの日 ハルと遊ぶ」630)
(←ブログ:2015・5・5 「こどもの日菖蒲の湯に」999)
(←ブログ:2016・5・1  「浅間岳に登る」1362)
(←ブログ:2016・5・23 「ハルのサポーター/スイミング篇」1384)

2016年5月28日土曜日

「はな子」が逝去されました。      1389



今夕、吉祥寺駅のニュース動画板に「井の頭自然文化園のはな子が逝去されまし
た」 と、テロップが流れていた。最高齢69歳だった。

朝、僕が洗顔しているとき、朝刊を読んでいたyuが酢頓狂な声で「ハナコが死んだ
!」と言い。続けて、小学校5年生の作文で入賞した思い出があると、哀悼してい
た。
井の頭公園そばの下連雀で育ったyuにとっては、小学生当時、身近で感じる巨大
な動物であり、それに戦中におこった上野動物園の悲劇と重なる物語性を持ちつ
づけたはずです。
実際に目前で触れた「はな子」は、小さい子供の目線に優しいと云うより荒れて盛
り上がった凸凹皮膚がなんとも強烈な印象として残ったと言います。

タイ生まれの「はな子」は、1949年戦後初めて来日したゾウです。


新宿から渋谷に           1388


昨日、紀伊國屋書店新宿南店に数年ぶりに寄る。

1階から順次上階にまわって見ておきたくなり、3階ではタリーズコーヒーで休み、
結局、7階のサザンシアターまで上がった。
紀伊國屋書店にして20周年を前に撤退とは、感慨深いものがある。

澁谷へハルを迎えに向かう。
渋谷駅前の「ハチ公」前広場は若者と外国旅行者であふれていた。
55年前のこの場所には木の植え込みはなく、忠犬ハチ公がぽつんと座していた
ように想う。
熱い真夏、原水禁「米・ソ核実験反対!」の署名・カンッパ活動をしていたことが
よみがえってきた

2016年5月26日木曜日

サイパンの陥落と父の引揚げ     1387

ラスト・コマンド・クリフ(影:Pen)
太平洋戦争関係の本を読んでいて、またまた父親のサイパンからの引揚げの時期
と思考回路にこだわって、「歴史」の深みにハマってしまった。

太平洋戦争は、昭和6年(1931)の満州事変の勃発から、昭和20年(1945)の
ポツダム宣言受諾までに刻まれたエポックになる「戦争の痕跡」をたどれば、大概
を知ることができる。
僕が知りたいのは太平洋戦争15年のことよりも、父親が昭和12年に教師として社
会人の一歩を踏み出して間もない16年には、サイパンの小学校へ赴任した事実で
す。
引き上げて郷里に帰ってきてからの父は、母や祖母、そして幼少の僕にサイパンに
ついてほとんど喋らなかった。

昭和18年(1943)9月30日、南太平洋で敗勢濃いいなかで「絶対国防衛圏」とし
てマリアナ南洋群島を設定。
11月24日、ギルバアート諸島の守備隊玉砕。
昭和19年(1944)19年2月23日、マリアナ諸島が初の大空襲。
3月30日、連合艦隊の本拠地パラオも空襲。
当時サイパンは、陸軍兵力2万5500名、海軍兵力6200名余りが守備していた。

このとき、一般人として教育者たちは引揚げ船で本土に帰えらされた。
父親の乗船した船が最後の帰国となった。

6月11日から12日、アメリカ機動部隊1100機をもってサイパン空爆開始。
13日から14日には、艦砲射撃も加わり18万発の砲弾が撃ち込まれた。
15日、西海岸南部に上陸。計6万2000名が上陸。
18日には、飛行場が占拠され、日本軍はタポチョ山から残存兵力で抵抗線を敷い
た。
死者軍人3万人、民間人1万人とされる。

(←ブログ2014・6・18 「6・15とサイパン」675)
(←    2015・6・14 「サイパンの光と影」1039)
(←    2015・6・20 「父とサイパン小学校」1045)
(←    2015・6・22 「委任統治と植民地は、、、」1047)
(←    2015・7・17 「サイパンのチャモロ人」1072)
(←    2015・7・26 「生きて帰ってきた父」1081)
(←    2015・8・26 「教師の家」1111)

2016年5月25日水曜日

紀伊國屋書店南店閉店        1386

紀伊國屋書店新宿南店書(影:Tab)
紀伊國屋書店南店(1245坪)が閉店するという。
6階の洋書売り場は残すようだが、、。

撤退の理由は、いろいろあるのだろう。
本屋さんの老舗としての紀伊國屋書店であるなかで、新宿南店に限って2012
年に改装して、タリーズコーヒーを入れたりイベントスペースを設けるなどの新機
軸で購読者との交流の場として活性化されて順調だったはずが、どこで狂いが
生じたのだろうか。

4年前に、ジュンク堂書店新宿店が三越側の事情もあって撤退したことで、専門
書籍の売れ行きが伸びたが、新宿南店の店舗経営を黒字化するにはいたらな
かったようです。
本好きの新宿紀伊國屋本店ファンは根強く、わざわざ南店へ行かずとも紀伊國
屋ビルになびく人が圧倒的に多いと思う。

高島屋の家賃が高騰して契約更新が厳しくなったのが正直なところかも知れな
い。
ここ12年ずっと、書籍と雑誌の売上は落ちているわけで、紀伊國屋書店と云えど
も厳しいはずです。

2016年5月24日火曜日

ユズと柿の枝切り          1385

柚子の剪定(2016・5・24 影:Can)
庭のユズと柿の木の花芽を選別しながら剪定した。

枝を刈り込みしないと、高木になり過ぎて隣家に侵入して迷惑になる。
田舎だと生育にまかせていらぬ心配をせずともよかったものを、結構気をつかい
ながら、結実を楽しんでいる。

ユズはすでに花芽がつくられ新梢が伸びて、白い花が開き小豆ほどの実が見え
だしている。と云ううことは、一ヶ月以上遅れたようで実の生育が心配。
6月梅雨時に黒点病が発生する場合の枯れ枝取り除きを忘れるな!

柿も剪定遅れが心配になってきた。
不要枝の選別と付け根から間引くのが難しい。
実を食べるヘタムシに駆除乳剤を散布することを忘れるな!

(←ブログ2014・11・1 「木枯らし、照柿に」812)
(←    2014・11・16 「秋の収穫!」827)
(←    2015・1・27 「柚子と自然薯」898)
(←    2015・11・5 「時雨れて、、」1184)



2016年5月23日月曜日

ハルのサポーター/スイミング篇    1384

(2016・5・21 影:tab)
ハルが水泳を始めて4年になる。
きっかけは、0歳児のときから公園の噴水に頭から水をかかぶったり、川や海で
ジャブジャブ水遊びするのを見るにつけ健康にも良いし、スイミングの基本を身
につけさせることになったように思う。

予想された通り、プールのなかで飛んだり跳ねたり楽しんでいるし、泳法の習得
も順調に進級している。
今のレベルは、100m個人メドレーを2分20秒以内~自分の得意種目50m1種
目を制限タイムで泳ぎ切ることに挑戦中。
僕も水泳は好きな部類に入るが、我流のためスピード感がない。特にバタフライ
は不得意で2、3m進むのがやっとで沈んでしまう。
ハルの泳ぎを見ていて羨ましいかぎりです。

25mレーン往復を、クロールにはじまって、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎを繰り返し
繰り返しターンの指導も受けながら淡々と泳いでいるのを見ると、自分の泳ぎは
何だったのだろうと、情けなくなる始末。
ダイビングで一緒に潜るのが夢だが、、。



2016年5月22日日曜日

「海街 diary」を観る          1383



監督・脚本は是枝裕和監督。
この監督の映画、「そして父になる」など、結構観ている。

海抜640メートルの山間で、父親が亡くなるまで一緒に暮らしていた異母姉妹の
四女が、鎌倉海街で暮らす姉たちの家へ。
姉妹が父の死によって共同生活をおくることになって、その日常の出来事の仔細
を撮りながら、家族の結びつきとか社会との関係性をリアリに紡ぎ出す。
四姉妹の長女役が綾瀬はるかで、末っ子に新人の広瀬すずが起用され、新人ら
しからぬ演技が魅力的。御祖母ちゃん役の樹木希林の存在感もイイね。

随所に長女のデリケートな思いがあらわれて、困ったことあったらなんでもいって
ね、末妹、ありがとうございます、のやりとり、、。
別れ別れになった父が、好みのサンドイッチで食堂に来てたのでは、、。
四女が桜のトンネルを男ともだちと自転車相乗りして走るシーン、、。
法事の集まりでの、二人のお母さんをめぐるたちばの違い。母親、大竹しのぶの
やつれた姿の演技。
母親の梅酒作りを長女が引き継ぎするときの深長な会話。
鎌倉のアジサイ、蝉の鳴き声、釣りが好きだったとか、浴衣の思い出、、。
御祖母ちゃんの死、桜舞うきれいなモノを綺麗に思えるのが一番イイ。

そして、姉妹が江ノ島海岸の海辺をなかよく無言で歩くと、はるか、長澤まさみ、
、、すずの姿が風景にとけこんで、全部出し切ったかのような映像。
子どものころ、いま、50歳にもなれば皆同じなんだから、と、、。

「そして家族になる」と云うところか。

(←ブログ:2016・5・8 「「あん」を観る/樹木希林と市原悦子」1369)

2016年5月21日土曜日

リスボン行の急行列車        1382


昨日の朝まで食事がいっしょだった人が、今日はポルトガルのリスボンだったり
地球の裏側に位置するアルゼンチンのブエノスアイレスで仕事を熟していると
思うと不思議な気がする。

ぼくはこの年で、オーストラリアやハワイ、香港ぐらいしか海外へ出かけていな
いせいか、ヨーロッパや東欧の地理感覚が極端に鈍い。
ポルトガルのリスボンについては、昨年秋に公演された「ホテルリスボン」浜田
晃主演)を観ることで、場所と国柄に関心をもち知識を少し吸収したいきさつが
ある。
この芝居はリスボン三部作の完結篇で、前に「パラソル」、「デンティスト」があり、
その作・演出の桃井章は、よほどリスボンに魅入られているのだろう。

ほかに映画でも思い出す。
ジャン・ピエール・メルヴィル監督の1970年代の「リスボん特急」。
俳優は、ドロンとドヌーヴだった。

首都リスボンは、大航海時代を偲ぶ大陸発見のモニュメントやジェロニモス修
道院、ヴァスコ・ダ・ガマの偉業をたたえるベレンの塔などを有する歴史の古い
街。

(←ブログ:2015・10・31 「「ホテルリスボン」を観劇!」1179)




2016年5月20日金曜日

「うりぼう」ことイサキが旬        1381

大島/釣り&ダイビング(影:Can)
 きょう行きつけの魚屋さんで、イサキの幼魚から成魚になる手前の20㌢余りの、
焼き魚で食するにベストの物が並べられていたので買いました。

この時期にイサキを見ては思い出す。
「大島モリツアー」と称して、三省堂書店のモリさん囲みで出版社の釣り好き仲間
が年一回のイサキ釣りに出かけていた。
皆が昼前から夕方まで船釣りを競っているとき、僕だけダイビングの御許しをもら
って海底から産卵時期のアオリイカや「うりぼう」の群れを観ているという関係。
幼魚のときの魚体は、縦じま模様のイノシシの子ども(うりぼう)に似ていて、海底
でも群れをなして一方に突進しているように見える。

いまは少し赤身のある白身は脂がのって、刺身では本サワラに似にて美味。
ぼくは、塩焼きに柚子酢をたらしたものが最高なのだが、40㌢にもなる成魚は煮
つけやムニエルでもうまい。
大島観光ホテルでの夜会は、大漁の人、坊主の人、海中での生態の話で盛り上
がり尽きることがなかった。

2016年5月19日木曜日

日米地位協定            1380




また、米軍沖縄基地周辺で「軍属」の男による日本人女性の殺人が発覚した。
戦後からこれまで、どれだけのアメリカ軍基地にかかわる犯罪があったという
のか、、、。

沖縄でのアメリカ軍兵士(軍属)による犯罪が起こると、必ず「日米地位協定」
が問題になる。
1995年に、「沖縄米兵小学生女子暴行事件」があった。3人の米兵が少女誘
拐、強姦した事件だったが、身柄は日本に引き渡されたが、、。
この経緯も、「地位協定」にのっとり紆余曲折あった。
いったいどんな協定なのか、なにが今問題なのか。
軍属に関しては11年、米側が刑事訴追しない場合、日本側で裁判できるよう
に協定運用を見直している。

先の事件から21年たっているが、その間にも数え切れないほど大小の米兵の
犯罪が後絶たず、今回の殺人にいたっては最悪の悲劇ではないか。
はやくも、犯罪と外交は切り離して考えなければいけない、などとことの本質を
ずらそうとする発言が出てきている。
だが、沖縄の重すぎる米軍基地負担と辺野古への基地移転と云う基地強化に
一般県民の激しい反基地感情の怒りが増幅していく様に思える。


2016年5月18日水曜日

飯田橋駅前は江戸城外牛込御門    1379

牛込御門(2016・5・18 影:Tab)
江戸城外跡の牛込見附(牛込御門)が、飯田橋駅西口の対面にほとんどそのまま
石垣が遺っている。

先にこの地区が富士見町と呼ばれる由を記したが、その同じ場所に牛込御門が現
前と残っている。
飯田場合駅前は、学生時代に法政大学で集会をする際の行き帰りとか、度々通っ
ているにもかかわらず気にも留めなかった。

この牛込見附は江戸城の外濠が完成した寛永13年(1636年)に阿波徳島藩主
の蜂須賀忠秀によって建造された。
田安門を起点とする交通の拠点であったようだ。
この見附は、江戸城外堀の見附の跡でもっとも当時の面影を残していると言われ
ている。

(←ブログ:2016・5・11 「見る側の視線によって、、」1372)

出合いの多い人はよく働く人か、、    1378

メトロ後楽園駅(2016・5・18 影:Tab
地下鉄後楽園駅を出たところで、Yaくんとバッタリ遭遇した。

昨年の9月に職場を変えて、学参と一般書に参入したばかりの出版社で、精力的
に営業活動している。
聞くところによれば、社歴は15年の新興出版社で、昨年4月に一般書とりわけビジ
ネス書や自己啓発関連の出版に乗り出して、昨対比で売上倍増している。
彼自身も、この5年間で経験したCVS対策や取次交渉が活かされ気持ちよく仕事
ができているようだ。
書店に出張も積極に展開して、有隣堂やMARUZENジュンク堂書店などナショ
ナル書店(チェーン店)対策が功を奏して販売実績を引き上げている。
そして返品率を抑えている。
もちろん今の厳しい出版業界のなかで、好調をキープするには独自の背景がある
はずで、コンテンツ力・営業力・宣伝力・装丁力を細かくち密に練り上げていること
がうかがえる。

ちなみに、この一年間に刊行した書籍は21点で、そのうち、17点増刷していると
いうから驚異です。

2016年5月17日火曜日

人事の記事で思うこと         1377


新聞に掲載される「人事」告知の記事を見て、数十年ぶりに出合うと会った当時
に引き戻され、その人はもちろんのこと周辺の出来事までよみがえる。

1993年に『ニッポンの現場検証』を洋泉社から出版しているが、著者は共同通
信記者の細田正和さん。その細田さんが5月の役員人事で現デジタル推進局
長・新常任理事に内定したことを報じている。

細田さんは本を出した時は確か文化部で書評などの担当をしていたが、翌春に
は大阪支社に転勤したことがあった。
(ぼくは、この年以来著者に会っていない。)
大阪支社在勤は短年で、帰ってきてからは文化部部長まで登りつめ常任理事就
任と云ううことなので、おめでたいことです。

この年93年は、『クラシック辛口ノート』(渡辺和彦著)を発行し、出版記念パー
ティーがあり、その会場で大学からずっと会ってなかった遠藤孝(神奈川新聞)や
水野忠夫さんに遭遇したことを想いだす。

(←ブログ:2016・1・30 「祝!「とらのしっぽ」の改発さん、社長に」1270)


2016年5月15日日曜日

3・11から浪板海岸再生        1376

浪板海岸(2016・5 「広報・おおつち」)
エメラルドグリーンの海と松林の景観を誇る大槌町浪板海岸。

3・11の震災で美しい砂浜が失われ、防波堤内側の砂防松林まで波が打ち寄せ
る壊滅状態だったが、ボランティア活動や町の取り組みで再生がすすみにぎわい
を取り戻す一歩を踏み出したようだ。
震災から5年でこのような三角屋根のおしゃれな佇まいが、国道45号線を越える
大津波で目を覆っう惨状だったところに出現した、その景観にビックリしました。

50年前に陸中海岸線北上の旅をしたとき、吉里吉里とか浪板海岸の名称に誘わ
れ、途中下車して海水浴したのが、この地に魅入られたキッカケです。
それから、震災前に三旅、3・11後は数度訪ねているので、あえて、「観光地」と
云うことにして、ダントツに印象度の強い想いのある場所です。

そしてまた、この波板海岸の海はとわに忘れてならない鎮魂の湾でもあります。

(←ブログ:2011・12・30 「大槌町浪板海岸の佐々木格さんから電話」5)
(←    :2012・1・22   「波板観光ホテル」19))
(←    :2012・4・28   「大槌町波板の「本の森」オープニングに祝電」82)
(←    :2012・6・13    「浪板海岸の民宿サトウ」99)
(←    :2012・8・26    「浪板海岸駅前の<もりかまど>」)
(←    :2013・1・28    「311大津波被災を写真で見るⅢ/浪板海岸松林)

2016年5月14日土曜日

散髪屋の路地経済学         1375

北の浜(2016・5・13 影:Tab)
午前中に取次で一仕事すませて、午後は古い友人ノボちゃんと東京駅の黒塀横
丁で一席。

友人は先月末に神戸で催された同期会に出席してしかるべき仲間でありながら、
不都合あって出られなかったので、主宴から二次会の様子を伝えた。

彼から今、陳舜臣の「阿片戦争」(上中下)を読んでいる話にはじまって、1935年
前後の中国への日本の進出と満州国建設について語りあう。

彼の家は理髪店でした。
当時、「床屋さん」といっていたが、いまになって考えてみると歴史的には髪結い
の店を「髪結床」と呼んで、その呼び名が「床屋」と変化したものなのだろう。
床屋は大人のたまり場で待っている間、将棋を指していた。そこに、彼は子どもな
がらに見よう見まねで参加しているうちにレベルもぐんぐん上がったようだ。

この話を聞きながら、門下生になり修行する選択があったのではないかと、問うて
みたところ、貧乏人は無理だよ、と。戦後は皆貧しかったが、その上をいく極貧で
普通の家庭とは違った、と言うが、、。
年末に散髪して正月を迎えるのは、贅沢な少数な人とされていた。
客が来るか来ないかの不安定要素が強い待ちの状態の商いだからとディテール
を喋ってくれる。

大山康晴名人もこの町の出身です。

(←ブログ:2016・4・24 「神戸元町「南京町」で」1355)

2016年5月13日金曜日

蜷川幸雄逝く。            1374

書影
演出家の蜷川幸雄さんが12日に亡くなった。80歳(1935年生まれ)。

稽古を終えて俳優と飲みに行く演出家がいるが、蜷川さんは自ら言っているよ
うに人見知りするたちで、そういうことを極力しなかった。つきあうのは打ち上げ
だけで、偶然そんな日に「でん八・そのに」で会ったことがある。
そのときは、青俳所属で清水邦夫担当だったこともあって、戯曲『署名人』につ
いて語ってもらったようにおもう。ぼくも大学1年秋の演劇専修の公演で、この
演目を取り上げた一員であった経緯によります。

アートシアター新宿文化の前衛映画上映のハネタ後、夜の9時半からは演劇を
上演するアングラ文化のるつぼといった様相だった。
そこで、清水邦夫の『真情あふるる軽薄さ』を蜷川幸雄が初演出する。69年9月
10日初日。演出に斬新なアイデアを配し、劇場全体が異様な熱気に包まれた
ものです。その空気の延長線上に、「そのに」もあった。

もっとも最近の縁では、蜷川さんが率いる高齢者劇団「さいたまゴールド・シアタ
ー」に、大学時代の友人の寺村陽子(舞台名燿子)さんが活躍していることがあ
って、『船上のピクニック』や『アンドゥ家の一夜』の車いす姿で演出する舞台を観
ている。その彼女が、蜷川さんの厳しい演技指導と役者(人)への愛情の深さ、
鋭い人間観察眼をしんみり語ってくれたことがある。

病気と戦いながら舞台への執念を燃やし続けた人生でした。 合掌

2016年5月12日木曜日

吉祥寺には弘栄堂書店があった     1373


埴谷雄高は吉祥寺の井の頭公園を散策した後、よく駅ナカの「弘栄堂書店」に
寄っていた。そして、書店員とも気さくに交流していた。

今はなく、場所を少し移動して「ブックファースト」が再オープンして随分経つが、
その話を、ブックファースト・アトレ店長にしたところ、訪ねてくる出版社の人から
伝説化した弘栄堂について話題にされ、時の流れを感じるそうです。
吉祥寺の書店地図は大きく変わってきている。

今のサンロードを少し入った左にあった光陽館書店が一番店で、60年代には
駅改札口を出たところに出店した弘栄堂書店の商品構成が斬新で突出した人
気店になった時代が懐かしい。
いまでは、丸善ジュンク堂、パルコブックセンター、紀伊國屋書店、啓文堂書
店、ブックスルーエ、そしてブックファーストがしのぎを削っているのが現状だ。

そのなかで、ブック1st.アカツカ店長は柔和でテキパキと対応してくれた。
これまでも、井の頭線から中央線へ乗り継ぎ駅なので、時々一介の読者として
店頭の本あさりをしてきたが、雑誌、売れ行き良好書中心に変貌しているのを
見て、人文書系は厳しいと推測し最後の面対になってしまった。
【ぶら書店/11】

(←ブログ:2015・10・8 「八重洲ブックセンターへ」1156) 別)
(←    :2016・2・18 「仕事としての本屋さん」1288) 1)
(←    :2016・2・21 「25年ぶりの面談」1292) 2)
(←    :2016・3・2   「横浜へ」1302) 3)
(←    :2016・3・4   「あるナショナル書店の場合」1304) 4)
(←     :2016・3・16    「書店・カフェ~どうなる書店格差」1316) 5)
(←     :2016・3・22   「変わらない有隣堂伊勢佐木町本店」1322) 6)
(←   :2016・4・4 「LIBROの人と面談は十数年ぶり」1335 7)
(←    :2016・4・7  「書店訪問をたのしむ」1338) 8)
(←    :2016・4・18 「本屋大賞実行委員の書店人と」1349 9)
(←    :2016・4・29 「或る書店の現場」1360 10)

2016年5月11日水曜日

見る側の視線によって、、       1372

江戸の面影/九段坂&神田町中坂(『図解・大江戸八百八町』)
最近、中央線で飯田橋に降りりことが多い。
きょうも、富士見町の出版社で午前中に打合せを終えて飯田橋駅に向かっていた
ところ、普通なら通り過ぎていただろうに、傘をたたんだ目の前が外濠の石積みで、
町の由を書いた看板が立っていた。

富士見が付く町名は実に多く、身近でもGyoの通った小学校が富士見小学校(羽
村)やYuの赴任した富士見丘中学校(杉並)、さいたまの富士見市など、、富士山
または各地の郷土富士が見える場所と云うことになるのだろう。

さて、飯田橋の富士見2丁目の由来は、、。
飯田橋駅を出たところが富士見2丁目。江戸城の名残の石積みされた外濠に面し
たこの界わいは武家の屋敷が立ち並ぶ地域だった。
当時は町名がなく、富士見という町名が生まれたのは明治4年(1872年)のこと
で、九段坂を上がったあたりで眺める富士山がすばらしいことから付けられた名称
だそうです。
昭和41年(1966)に飯田町の一部と富士見町の一部が合併して今の町名にな
ったと記されている。

2016年5月10日火曜日

深夜0時10分中央線車中と云うのに   1371

(2016・5・6 影:Tab)
きょうは横浜に行き、百合丘の人に会い、さらに新宿で一献を交えて、中央線
最終便で帰宅。

新宿で途中下車して、久々に「でん八」によると、セッちゃんと実さんが焼酎とビ
ールで杯を重ねている。
弘史店長のGWに伊豆大島波浮でクルージングや釣りや美食三昧のうらやまし
い話を聞く。そういえば、大島でこの5年ダイビングしてないことが悔やまれる。

昔、新宿発最終便55分発の「山家さん列車」を利用して帰ったものです。
今夜はそれに同じように対応する立川駅で青梅線乗り換えの電車に駆込んだ。
この時間帯のいつもと変わらない満員電車で、吉祥寺を過ぎたあたりで少しず
つ空きはじめ、それとなく前の座席を見ると、なんと7人掛けの座席は全員女性
で占められていた。偶然と言え驚いてしまった。

就活の流れは大きく変わり始めている。これまで、男女別にみて2割にも満たな
かった女性総合職が、ここ数年で急激に上がりだし30%を越えるようになったと
の報告がある。
この背景には女性の社会進出で積み上げてきた成長の実績が具現化されてき
ているからだろう。これまでの女性に対する偏見や差別が払しょくされて、女たち
は性差なく企業内の実績を向上させてきているのだと思う。

そうした一現象が深夜の帰宅電車のなかにも見えるというのは、いかがでしょう。

或る広告マンの生涯         1370


90歳でまだ存命だが、生涯といってもいいだろう現在を語ってもらう。
話のきっかけは昨秋の「出版OB会」でマスミさんに対面したとき、出版広告に携
わってきた50年余りの仕事を整理しているので、見てほしいということだった。

小田急線の百合ヶ丘駅改札を出ると、マスミさんが雨のなか迎えてくれる。
前々から話では聞いていた、自宅までのアップダウンの道を小走りで家路につく
様子と風景がこれだったことに納得した。
小田急線の登戸から先になるにしたがって、電車の左右は里山を切り拓いたし斜
面に住宅が密集する風景を見かける。

マスミさんは、現在の土地を高度経済成長期に入る前に購入し、住み家にした経
緯を話す。当時まだ一面は雑木林と野原で、整地するにも機材が貧弱で平らな台
地にすることがかなわず斜面に家が建ちならんでいったらしい。
新居ができた頃の欅が大木になってそびえていたのが時間の流れを感じさせる。

隣りの新百合ヶ丘もまた駅周辺は広いが民家は坂道にそって建っており、義姉の
祖師ヶ谷大蔵から転居して新築した家がある。

生い立ち、「昭和通信」(昭通)時代、地域活動の現在、が相当詳しくワードで整理
されている。思った以上に、いれこみの熱気が伝わてくる。
とりあえずレジュメをあずかり、どのような処理に持っていけるか検討することを約
す。

2016年5月8日日曜日

「あん」を観る/樹木希林と市原悦子  1369


岡山の「長島愛生園看護婦養成学校」で研修し、その後看護婦になった小学校の
ときの友だちがいる。
このおんな友だちとは中学の後半が一緒でなかったので、看護学校に行ったこと
はのちに知った。
それも、国立療養所長島愛生園の附属看護学校と聞いて、大変な選択をしたもの
だと驚きもし感銘した記憶があります。
当時まだハンセン病はらい病といい、偏見と排除の考えが残滓していたように思う。

さて、その元ハンセン病を患った老女を樹木希林が円熟の演技で魅せる。
監督は、「萌の朱雀」で一躍注目された川瀬直美監督。
原作であるドリアン助川の小説を映画化。

物語は、下町の「どら焼き屋」に店長(長瀬正敏)を訪ね、あん作りの賄いとして使
用を懇願する意味ありげな70半ばの徳江(樹木希林)の登場がプロローグ。
何回目か、訪ねてくる彼女手作りの「あん」を口に入れて驚き、雇うことになる。
徳江が仕上げたあんに、「こんなのはじめてです!」と、店長千太郎とのやりとり。
「味も香りも全然違うんだよ、どら焼きはあんこが命でしょう」、とさとす。

どら焼きやに来る中学生若葉(内田伽羅)が「指どうされたの?」、とたずね、徳江
の「右の指がちょっと不自由なの」と、にこっと微笑む顔が微妙に良い。
また、あん作りにいそしむ老婆が腰を伸ばして窓ガラス越しに、桜並木の青葉の
下を小走りする若葉をうっとり眺めるエプロン姿のコントラストが「生」を感じさせる。
徳江は八歳のときハンセン病で入療している。
元ハンセン病患者の老女が生きる尊厳を失うことなく生きてきた姿を、自然にしみ
入るように映像化している。

らいじゃないかって、今じゃハンセン病と言うだって、、の女オーナーの排除の勧
めに苦悩する店主、、。
店長千太郎は消毒液を床に叩きつける。
徳江に接客も自由にしてください、と千太郎は決断する。
若葉は、図書館で写真を見て考える。
三者三様に思いが交差する。
ある日、徳江は桜の木を見上げ手を振りながら店を去って行く。数日後に手紙が
届く。
若菜が店にたずねて来る。辞めたよ、と告げる。
世間よりひどいのは俺だ、守れなかったのだから、、。
二人で会いに行くことになる。
若葉ちゃんぐらいのときから、ここにずっといるのよ、と同僚の佳子(市原悦子)は
語る。
二度目の訪問のときには、亡くなっている。
徳江と彫った捏ね棒とあん作り道具一式に、メッセージを添えたテープが遺されて
いた。
自然、木々、満月と対話、、。庭に植樹されたソメイヨシノが徳ちゃんの木よ、、と。
満開の桜並木のしたで千太郎の、どら焼きいかがですか!の声。

(←ブログ:2016・1・29 「『駆け込み女と駆出し男』を観る」1269)
(←    :2016・2(・7  「『バンクーバーの朝日』を観る」1278)
(←    :2016・2・18 「『チャイルド44/森に消えた子供たち』1289)
(←    :2016・3・12 「『ブレイキング・バッド』を観ている」1312)

2016年5月7日土曜日

立夏・青梅・柏餅          1368

庭のシャクヤク(2016・5・7 影:Can)
旧暦を基にした節気は、自然の移ろいう季節感をよくあらわしている。

春分と夏至の中間となる日が立夏で一昨日でした。気候も風景も夏らしくなって
いる「気立つ」ように思えます。
住まいの近くは、狭山丘陵の茶畑が広がり一面緑です。
さわやかな風をうけながらクルマで農道を走ると、茶葉の甘い匂いと、畦道に咲
く野花が見られ頃。
一か月前に観た青梅梅岩寺の枝垂れ桜は、すでに緑葉でおおわれ、街の軒先
には青梅(あおうめ)も並び始めていた。

青梅は古い街で、生糸で栄えた戦前からの趣が漂っていて、僕の田舎津山城下
町を彷彿させられる。そんな町中に、四季折々の季節感を封じ込めた和菓子を
売っている、贔屓のお店がある。
もぎたての柏の葉っぱにもち米と甘みを抑えたあずきを包んだ柏餅を買った。

田舎では、柏葉はもちろん使うが、ミョウガの葉っぱや笹に包んで蒸した「柏餅」
も祖母がつくっていた。
今から思うと、野山や庭先の植物の葉や皮で包んで餅にして食べる「ハレ」食は
自然の植物に生命力を感じ体に取り入れて同化させる思いが込められているよ
うだ。

(←ブログ:2016・4・20 「「のらぼう」をめぐって」1351)

2016年5月6日金曜日

肩関節周囲炎           1367


久しぶりに掛りつけの名倉先生に総合検診してもらう。

まず、血液検査のための採血から、X線写真撮影した。
この一か月余り良くなる兆しがない肩痛について、レントゲンを撮ったうえで、原因
から治療法や治るメドを必こく聞く。

骨に異常はなく、大丈夫らしい。
じゃあどこが悪いかと云えば、血液関節の周りを包んでいる袋があり血液循環不
全におちいり機能障害がおきて鈍痛になることが多い。
関節そのものより、関節の周囲組織が変化して炎症が生じる痛み。
病状は、耐えられない痛みではない気持ち悪い鈍痛が一日中つづき、夜も眠れな
かったりかなり辛いものです。
血行障害はなかなか直り難く平均2年かかるという。えっ、と言ってしまった。

(←ブログ:2015・4・4 「会席と難聴と滑舌」968)
(←    :2015・5・31 「聴力に黄信号!」1025)
(←    :2016・4・12 「障害感覚を抱くようになって、、」1343)
(←    :2016・4・22 「歯痛で駆込む」1353)



2016年5月5日木曜日

同窓会 二つの交流         1366

御岳に遊ぶ(影:Pen)
僕は中学校2年の夏から倉敷(船穂町)に転居して、卒業までのわずか一年半を
同窓で過ごした友人がいる。

津山の山奥から都会に出てきてカルチャーショックがあったものの、幸いに同期の
友人に恵まれ、早いうちに慣れ親しみ過ごすことができたと思ってきた。
高校や大学はそれぞれに散ったわけだが、就職で地元や、関西から、東京へ、と
生活拠点を移すことになった。
そんなわけで、わずかな交流しかなかったにもかかわらず、神戸・大阪地区と東京
に二つの同窓会があって、わりと頻繁にあつまっているから不思議に思える。

東京組の友人の一人が、一流商社マンだったノボちゃんだ。
転校してクラスが違うのに、休み時間になると校庭にサークルを白墨で書いた土俵
で、東西に分かれて星取戦をしたものです。その「理事長」が彼で、僕が手作りの
行司軍配を持参したところ、甚く喜んで気も合うようになった。
商社マンになってからは、岡山から東京に転勤したり移動していたが、東京本社勤
務の時代は新橋や新宿で夜を徹してよく呑み親交を深め現在にいたっている。
さらに、東京の会を立ち上げた「岡山県貨物」の東京出張所勤めだった、巌ちゃん
のことも忘れられない。いまは甲賀の方に住んでいる。

もう一人は、先日催された神戸での会を三人で仕切ったうちの一人、税理士キミヤ
君です。
偶然の縁で、彼が東京に出てきたとき東京組の同期忘年会に参加してくれ、中学
卒業以来数十年ぶりに新宿西口の郷土小料理屋で再会した。
当時はまだバリバリの国家公務員で、学校時代のやさしさは消え鋭さが目立つ印
象だったが、、。
勉強ばかりであまり遊ぶことはなかった彼だが、映画好きであることが共通して、た
またま試験休みに誘い合って玉島市(旧)の洋画劇場に観に行ったこともある仲。

ノボちゃんとは「東京組」、キミヤ君とは「関西組」で、いまは新幹線で3時間で行け
る集まり。まさに交流会と云ったところ。それぞれ働いてきた職種もエリアも違うの
で利害を超えてざっくばらんに語り合えるのがイイ。

(←ブログ:2016・4・24 「神戸元町「南京町」で」1355)

2016年5月4日水曜日

南洋の国民学校           1365

チャラン・カノアの教師の家(影:Pen)
2041年(昭和16年)は尋常小学校が、修業年限制の「国民学校」に改称された年
に当たる。
前に、中島敦が同年に南洋庁国語教科書編集書記として、サイパン島を経由して
パラオ島に赴任したことを書いたが、父もまたこの年にサイパンに単身赴任してい
るのである。
日本人子弟教育をさらに勧めるための国策だったのは間違いないだろう。

国際情勢は緊迫度を加え抜き差しならぬ太平洋戦争下に、親父はあえて、どんな
精神状態で南洋の島にわたったのだろうか、、疑念を抱えたままです。
沖縄県人をはじめ多くの南洋への渡航理由は、移民や出稼ぎ先でかの地は儲か
るとの情報を聞いての場合が多かったようです。
産業は1921年に松江春次により設立した「南洋興発」の製糖業を中心に成長し
てきた。
「北の満鉄」、「南の南興」と言われたように、興発は日本の南進の拠点になってし
まったのです。
1944年6月には、戦争の島になってしまう。そのとき僕はまだ一歳でした。

(←ブログ:2014・6・18 「6・15とサイパン」675)
(←    :2015・2・17 「『玉砕の島々』(平塚柾緒著)を読む」920)
(←    :2015・2・18 「父帰る! サイパンの記録3」921) 
(←    :2015・6・14 「サイパンの光と影」1039)
(←    :2015・6・20 「父とサイパン小学校」1045)
(←    :2015・6・22 「委任統治と植民地」1047)
(←    :2015・7・17 「サイパンのチャモロ人」1072)
(←    :2015・7・26 「生きて帰ってきた父」1081)
(←    :2015・8・26 「教師の家」1111)
(←    :2015・8・31 「サイパンの昔の小学校」1117)
(←    :2015・9・4   「『忘れられた島々─「南洋群島」の現代史』を読む」1122)
(←    :2015・9・6  「サイパン国民小学校のこと」1124)
(←    :2016・1・17  「中島敦『南洋通信』から」1257)
(←    :2016・5・3  「サイパンとテニアン」1364)

2016年5月3日火曜日

サイパンとテニアン          1364

カーヒー国民学校入学/未だ父見つからず(1941・4)
1960年の「憲法公聴会」の資料を探していたら、「旧南洋諸島と沖縄県人」と
云う冊子が出てきた。

この沖縄の南洋諸島とのかかわりを記録した一冊は、僕にとって大変貴重な
ものです。
いまは亡き親友・門倉弘がサイパンに行き、帰ってきて、テニアンの記録を持
っていたので手紙と一緒に送ってくれたものです。
さらにその前段があって、「鈴木から、お父さんがサイパンで先生をしていたと
ききました。」としたためてあった。
いまではその二人とも居ないが、この82頁のビジュアル版を通じて深いつなが
りを感じています。

本誌は、サイパンの南に位置するサイパン支庁・テニアン島に沖縄からサトウ
キビ栽培のために渡航して、徐々に店舗、住宅が建設され市街地が形成され
る背景を記録しています。
そのなかで、なによりも僕にとって関心を引きつけられたのは「南洋の学び舎」
の項目で、尋常小学校の設置から1941年(昭和16年)に国民学校(初等科、
高等科)に改称される過程の児童数や教職員の写真でした。
1941年は、父が渡航して赴任した年です。
このことで、まだ見たことのないサイパン島支庁にももっと詳しい文献や記録写
真が残っていると確信ができたことです。
→続編へ。

2016年5月1日日曜日

浅間岳に登る            1362

堰の向こうに浅間岳(2016・5・1 影:ケイ)
こどもの日の先取りで、Gyoはハルを連れて羽村堰の対岸に見える「浅間岳」
にジョギングで登った。

この山を地の人は「むこう山」とも言い、折々の野草や新緑が楽しめるので気軽
に挑戦する人が多い。
また、中腹には羽村神社が鎮座し、そこから蛇行する清流多摩川と羽村の町並
みが一望できる。

僕も一緒に登山したかったが、腰の調子がよくなくて彼らの勢いについていく自
信なく断念して、郷土博物館脇の登山口に二人がジョギングで向かう姿を見送
った。
Gyoがハルの年頃のとき、こどもの日などには奥多摩の三頭山や棒ノ折山と高
清水三山に日帰りで行ったものです。
40年も前の連休を過ごした日々が想いだされます。

そして5月1日はメーデーの日でもありました。
頂上の藤棚(影:Gyo)
(←ブログ:2013・5・3 「羽村の堰・ハル魚を捕る」)
(←ブログ:2014・5・5 「こどもの日 ハルと遊ぶ」630)
(←ブログ:2015・5・5 「こどもの日菖蒲の湯に」999)