2014年2月28日金曜日

震災から丸三年を迎えるが、復興の槌音が聞こえるか!565

大槌町2014・1・20(「広報おおつち」から)

数日前の「日経新聞」に<復興の槌音>の見出しで、大槌町漁港の活気が伝わる
写真を見た。

震災で壊滅した漁業の再興に向けて担い手を増やそうと、体験「漁業学校」を開校
したことを町の広報で見ていた。
その受講生たちが真新しいツナギカッパを着込んで、漁船に乗り込み、見よう見真
似で定置網漁の網の引き上げに取組んでいた。
大津波にさらわれて漁師が三分の一に激減した大槌町が、新しい担い手を受け入
れる手立てとして、町長自ら発案して活性化に努めている。未だ研修参加者は少な
いようだが、今後、水産関連の仕事に魅力を感じ被災地の力になればイイ。
そして、町は長期研修制度も計画中とか。

海が好き、ダイビングに魅入られている僕にして、五十歳ぐらいまでであったなら、
「大槌の風」の活動の一環のなかに取り込んだと思う。



2014年2月27日木曜日

無聊、ぼそぼそ、そして石見         564

大谷Yさんの『新宿・でん八物語』(仮)への寄稿から──32




 1964年開業、そして50年、というのはすごい。わが青春のすべてより長い。
その青春のちょこっと、いやいやいっときの相当部分が「でん八」と重なる。

 ちゅうさんの時代、早い時間に店に行く。ちゅうさんがいる。まだ客を待ってい
る風ではない。カウンターに座る。ちゅうさんが話始める。泉南(?)の子ども時
代のことが多かった。「そうだったの!」とぼくが話始める。同じく子どものころの
こと、「田舎はね、島根の岩見地方……」と。

  「島根は東半分が出雲、西半分が石見。わが田舎は石見の東端、出雲に接
する大田市。当時は佐比売(さひめ)村。佐比売山という、出雲国風土記で国引
き神話にその名のみえる山があって、今の名前は三瓶山(さんべさん)。広い裾
野があり、戦争中は広島連隊や浜田連隊の演習場。子どものころはトーチカへ
上って遊んだりした。終戦直後、米軍が進駐、引き揚げ時に大量の缶詰や弾薬
を土中に埋めて放棄した。物資のない時代、埋める作業をした村人が掘り上げ、
もらった缶詰の豆をぼくも食べた。掘り上げた弾薬が爆発して死んだ先輩中学生
もいた。わが姉も、炎の上から振りかけると花火のようできれいだと、姉の友人
が持ち込んだ米軍の焼夷弾で火傷したりした」てなことを、くだくだぼそぼそしゃ
べる。何とはなく互いに無聊。時間が過ぎる。そのうち客が入ってくる。「じゃあー、
また」と、店を出る。次の飲み屋へ行く。飲み友に会うと一緒に次の店へ行く。そ
うこうするうちに、また「でん八」へ。そんなことがいくたびあったことか。

 最近この岩見地方が人気になってきた。大田市大森町の石見銀山(大森銀山)
が、2007年に世界文化遺産に登録されたからだ。この夏のある調査で、行き
たい都道府県の5位に島根がランクされ、行きたい場所に出雲大社、石見銀山、
隠岐の名が挙がった。石見銀山には、間歩(まぶ・坑道)や精錬所跡、銀を運ん
だ街道、銀積み出し港の船をもやった石杭、江戸時代の名残を残す街並みなど
などがあるが、見るには地味で、楽しむには訪れた人の想像力が試される。大
久保間歩は坑道内の生物環境を保全するため、1日の見学者数が制限されて
いたりして、観光客があまり増えるのも困るらしい。自然と共生して発展した銀山
の姿を、そのまま未来に残そうというわけだ。
 石見銀山と三瓶山は隣どうし。三瓶山の山裾にはひっそりと小屋原温泉。旅館
はただひとつ。天下一品の蕎麦を食べ、湯の華に覆われた昔ながらの浴槽にゆ
ったりつかれば、それはそれは至福!
                                   大谷Y(編集者)

2014年2月26日水曜日

西村佑子『不思議な薬草箱』を落掌。     563

書影(山と渓谷社刊)

一級の魔女研究家である西村佑子さんから、自著・最新刊の傍題「魔女・グリム・
聖書」を持つ『不思議な薬草箱』を恵贈いただいた。

西村さんは大学時代からの友人で、主著でもある『グリム童話の魔女たち』を洋泉
社から、1999年に出版している。
また、彼女はグリムと魔女の研究から、実際に「ドイツメルヘン魔女街道」ツアーな
るものを企画して、毎年出かけている。今は亡き出口Y君も同行したことがあった。

評判の前著『魔女の薬草箱』に続く本書は、瀟洒でなかなかしゃれ本だ。
176頁の本文中、ほとんどの頁に写真・図版・挿絵がちりばめられ、それを捲るだ
けで、「異国」の不気味な森のなかをさ迷う気分にさせられた。
前著が、魔女と薬草という直截な切り口だったが、本書は、ヨーロッパ特異な聖書、
神話から魔女や「薬草」の絡みを説き、歴史・文化の深淵を探る好奇心旺盛な旅
へ誘う。
乾杯!

2014年2月25日火曜日

「未来の会」に出席する。          562

モネ展/国立西洋美術館(2014・2・25影)

今まであっても不思議ではない出版社・未來社のオールドの第一回の集まりがあ
った。場所は、上野「精養軒」。

集合場所が、上野公園口から程近い「国立西洋美術館」とされており、三三五五
馳せ参じた面々はxx人。来ることになっている、田口Eさんが待てど現われない。
昼食をとりながら、4時間余のロングランに及ぶ懇親会になったが、結局彼の登
場はなかった。
お開きになる時になって分かった事は、場所の勘違いで合えないまま遠方の住い
に引返していた。その背景は、連絡を取り合うにも今どきケイタイを持っていない、
会の案内葉書も持参していないから赤電話からアプローチすることすら叶わない
始末、、、。ときに、ケイタイを持たないことを自負する人がいるが、今生では必携
品で、コミュニケーションを成立させないことになってしまう。

出てこれなかった人の添え書きを拝見したが、多くが病気もちで、くも膜下で静養
中、脳梗塞で歩行が困難、腰痛、手足が極度に弱って出歩くことをひかえている
ことなどが記されていた。

僕は、未來社に1964年に入社し、1984年11月退職するまで20年間に及び、
出版の営業、制作・宣伝広告、編集に携わってきました。
今日参加した人たちとは、30年前に同じ職場だったのですが、会食の席に着くな
り一気に距離がちじまり、苦楽を一緒してきたことに話題の花が咲きました。

2014年2月24日月曜日

鰯とオルグの店・でん八。          561

杉山尚次さんから『新宿・でん八物語』(仮題)への寄稿から──31



 誰にでも大なり小なりテリトリー感覚みたいなものはある。店の常連になるとい
うことは、そういう感覚なのだと思うのだが、長い付き合いであるにもかかわらず
、「でん八」はいつまで経っても私のテリトリー外である。でも、居心地がわるいわ
けではなく、新宿で店選びで迷ったときは「でん八」と決めている。
(50周年おめでとうございます)。

 初めて「でん八」に行ったのは、たしか1981年。私の社会人年齢と一緒だか
ら33年も前になる。にもかかわらず「常連」感がない理由は単純。「でん八」は、
藤森さんのテリトリーだからだ。ご存知のように藤森さんとは、洋泉社の創立者に
して元会長、本書の編集委員のひとりの藤森建二さんである。
 ここに連れてきてくださったのも藤森さんだったし、84年の6月(たぶん)、彼に
「オルグ」されたのも、この店(歌舞伎町店)の上がり座敷だった。オルグといって
も政治の話ではない。「新しい出版社をつくるから参加せよ」という(語の本来の
組織化という)意味である。なぜそんな言葉を使ったかというと、藤森さんに名言
があるからだ。それは「出版社の営業マンの役割は、書店員のオルグ(組織化)
である」というもの。サービスとか誠意とかではなく「組織化」というのは、なんとも
格好いいし、その気にさせてもらった。これは今でも生きている考え方だと思う(い
かにも□○だが)。

 いかん、「でん八」の話である。私が洋泉社にいた89年『魚の美味しい店ガイ
ド』という本をつくった。これはひとりの著者が魚を美味しく食べさせる店をタイプ
別に紹介する本で、ビジュアルなしだが結構売れ、年度版もつくった。
 また脱線するが、書いたのは森下賢一という物書きである。いまでこそ居酒屋
を批評するライターは多いが、この仕事からもわかるようにその先駆的存在だっ
た。『いい酒の、いい飲(や)り方』『銀座バーフライ物語』などよく売れた本もある。
残念なことに、昨年11月に亡くなられた。
 やはりというかさすがというか、その森下さんは、鰯の店として「でん八」を知っ
ていた。ならばということで、「でん八」も小さく載せることにした(お手盛りは自粛
して小さく紹介)。《歌舞伎町コマ劇場を正面に見て、名曲喫茶「スカラ座」の通り
を右に折れ、スカラ座の正面のビルの2階。 、、、鰯のすり身を鍋に文字どおり
つみ入れるつみれ鍋は逸品(冬場)。》とある。そうなのだ、冬になるとここのつみ
れ鍋を食べたくなる(ただの白味噌の出汁ではないはず、レシピをこっそり教えて
ほしい)。鍋の雑炊のつくり方は、当時の店主(「あにき」氏)から教わった。 火を止
め 、、、卵を流しいれ、ネギを加え、ふたをし、じっと待つ。ふたを持ってこない店
を私は認めない。

 その「あにき」氏も亡くなり、「スカラ座」はラーメン屋に替わり、私は藤森さんの
会社を抜けて15年以上経つが、いまだに藤森さんとはお付き合いがあるし、「で
ん八」にも寄らせていただいている。古い付き合いなのに、あまり知った人と出会
わず、余計なことをしゃべらなくていいお店は、案外使い勝手がいいものである。
                                                     杉山尚次(言視舎・ダイナマイツ監督)

2014年2月23日日曜日

昨年、刊行30点の出版活動!         560


言視舎に、今年初めて寄る。社主で編集長は杉山尚次。

僕が1985年に出版社を創立した時のメンバー三人の一人に杉山くんがいました。
その彼が4年前に独立してつくったのが言視舎です。辞書に、社名の「言視」という
字源は見あたらないが、使っている頻度で安定して、知名度があがってきています。
うれしいことです。
未だ、本づくりは彼の匙の投げ加減によるが、年間の刊行書籍は30点(月、3点
弱)に達している。一点一点に手抜きがみられないのだから、凄いの一語に尽きる。
なかでも、『群馬の逆襲』に始まる、県別<逆襲シリーズ>が評判良く、他に、シナ
リオ作法など、実用書の定番化に成功しているようだ。
「逆襲」のなかに「岡山」をやってないようだが、地方出版の「吉備人」あたりにいい
書き手がいるはず、と提案する。

杉山くんの編集者魂は一流で、鈴村和成さんも自著の後記に書いている。
「1985年、『未だ/既に──村上春樹とハードボイルド・ワンダーランド』(洋泉社)
を世に問うて以来、およそ三十年におよぶ伴走者として、ひとかたならぬご恩誼に
あずかった、まことに今の世に貴重な信念の出版人・エディターであります。」と。
願わくば、これまでの一途な持久戦に報いる長打が飛び出すことを切望するところ
です。

1月に刊行した新刊で、人文書としては初動の良い『橋本大三郎のマルクス講義』
をもらう。書名が白地に墨の文字を基調とする菊地信義装丁で、懐かしい本を手に
した感じ。

2014年2月22日土曜日

「でん八」と「コメディアン」

市川Tさんの寄稿から──30




 私が初めて「でん八」に飲みに行ったのは、47年前、26歳の頃でした。
 古きよき第一の友人森本氏と行った店はジャズ喫茶「ACB」の裏の細い路地裏
の二坪ほどの店、一階にアニキと若衆のコンちゃんが、二階に細い階段を上がる
とカウンター6~7人の席で中にアキちゃんが、おでん鍋の前で「いらっしゃい」と明
るい笑顔で声が大きく背が高くヒゲを生やしてた記憶があります。客はバンドマン
や若い女性で一杯でした。

 その後、私は「でん八」の近くの新田裏に、その頃はまだ都電が走っていました。
その通り沿いにスナック「コメディアン」を開店しました。店に毎晩来て下さったのが
「でん八」のお客様でした。「でん八」は12時頃閉めますので、アニキやアキちゃん
はお客を回してくれました。まるで「でん八」の姉妹店かと言われたことがありました。
 しばらくして「でん八」が区画整理とかで歌舞伎町店を出しアニキが、さらにしばら
くして、アキちゃんが青山店をオープン、そして現在、、、。

 私は17年前に三十年の店を閉めましたが、「でん八」は私の一生に大きな力を
与えてくれたことになります。アニキ、アキちゃんありがとうございました。
                            市川T(元「コメディアン」店主)

2014年2月21日金曜日

「でん八友の会」皇居マラソン大会!

久保田Tさんの寄稿から──29


 今から、三十三年前、昭和五十六年の秋、快晴の秋空のもと第一回皇居マラソ
ン大会が、「でん八」マスターの松尾明弘氏の号令で無謀にもスタートした。

皇居一周5キロメートルの道程、スタートとゴールは桜田門の設定で走者数は42
名、大会の世話人、冷やかし応援組などを含めると総勢60名を越す集団であっ
た。スタートは午後2時半、優勝者は、レストラン・スンガリの幸川賢悟氏(33歳)、
タイムは21分28秒であった。この酔人達のマラソン大会、きっかけは「そのに」で
の酔客の走力自慢の戯れ言から始まった。そもそも神楽坂の我が梟工房の迷者
七、八人で気まぐれに九段から皇居一周をはばかりながら競争したことを大げさ
に口走ったのが愚行の発端であった。何だかその時マラソンの話で盛り上がった
ようで、折りしもスポーツの秋、誰ともなくマラソン大会をやろうということになって、
「でん八」協賛「皇居マラソン大会」なるイヴェントを決め、よせばいいのに僕が世
話人を引き受けた。
 この世話なるものが大仕事、先ずは、大会案内のチラシ作りに始まり、皇居管
理事務所、丸の内警察へ皇居広場、道路使用の許可の申請、続くは愚輩行きつ
けの居酒屋を廻り大会のチラシを配布して参加者をつのり、賞品、景品の買付け
などなど極楽トンボの行状。

 さて、この大会、参加ランナーは前夜したたか呑んで酒びたり、その上に根っか
らの品性で負けず嫌いの面々、賭けて走る輩もいて思いのほか盛り上がっていた
ように思い出される。記録を省みれば齢54歳から小学二年生までさまざま、独協
大学・根本ゼミの学生諸君の協力が欠かせられなかった。これを皮切りに、第二
回から名称をおこがましく「東京マラソン団」として春と秋の年二回開催、六年間の
十二回大会で打ち止めとしたが、よしや大会を通して死人が出なかったことは不
思議であった。
 当時、皇居周辺でのランニング姿の人影はまばらで我々のような集団でのラン
ニングは奇異に映っていたのか某メデイアが取材に来たほどで今日日老若男女
のジョキングとかの衆の賑わいとは程遠く、我等「でん八友の会」なる「東京マラソ
ン団」が皇居マラソンのはしりだと思うと何だか愉しい。大会を終えて、いざ皇居
周辺の公園での打ち上げの飲み会は格別で、思えば酒を旨く呑むためのマラソ
ン大会であったようで「でん八」五十年の歴史に花を添えたのではと自負している。
 
 「でん八」といえば新宿、新宿といえば「でん八」。傳八グループでの酔狂な数々
の思い出は尽きない。
             省みる三十余年の冬至かな          久保田T

2014年2月20日木曜日

「でん八」は青春の一通過点だった!

原Mさんの寄稿から──28

 

 もう50年たちましたか! 早いものですね。「でん八」は私にとって青春の一通
過点でした。あの頃が懐かしいです。色々の事が走馬灯のように想い出されます。

 アキさんに初めて会ったのは、私が大学四年の頃、花園神社のそばで、屋台を
出していて、たまたま通りすがりに寄ったのが縁で何か馬が合ったのでしょうね。
私が社会人になってから、アキさんに「今度内店をもつから飲みにこないか」と。
あの狭い急な階段を上って細長いカウンター、おでんの釜だけ、あとは何もなし。
月に二回ぐらい飲みに行ったのかな。料理はおでん以外覚えていません。冗談の
つもりで「松茸はあるかな?」と言ったら、次の時に用意してあるのには驚きました
ね。なんとか勘定は払えたようです。

 あの頃、ロカビリーが流行っていて、近くにロカビリーの店?があって、スパイダ
ースのメンバーや尾藤イサオなどが飲みに来ていましたね。その頃東京オリンピ
ックがあり、オリンピック一色で盛り上がっていましたよ。
 店で覚えいるのが、初めての頃、若い威勢のいい板前さんがいたなあ、すぐや
めたような気がする。あとは、毎日「でん八」の二階を事務所のように使って、飲ん
でいた人がいましたね、大きな声の人、名前は忘れましたが。その頃でしょうか、
日本の経済もどんどん良くなったのは、「でん八」も流れにのって、「そのに」今の
「でん八」(歌舞伎町店)、青山店、銀座店と、、、。

 私はその頃、札幌に転勤になり、向こうで結婚し、式は東京で、その時アキさん
を招待して、喋ってもらいました。初めてのせいか、固くなって真面目なことを話し
てくれました。普段のアキさんとは違っていて、私いとってはラッキーでしたがね。
今の「でん八」の時招待されました。今までの「でん八」とは少し雰囲気が違ってお
りましたね。その頃から、お兄さんとよく話しました。お兄さんの話、面白く、また含
蓄のある話も。私が六十代の頃かは、お兄さん酒を飲まず、お茶ばかり飲んでい
ましたね。私が四十代の頃中学校の同期会の二次会を「でん八」で行いました。
人数は六十名位、店は人で溢れ、ぎゅうぎゅう詰め、よく入ったものだと思います。
多分一日で入った人数は今までで最高記録ではないでしょうか?その頃「でん八」
にはたまにしか行かず、でも行くとお兄さんは快く歓待してくれました。
 ある時、私の携帯に、お兄さんが亡くなった知らせがあり、ビックリしました。淋し
くなりましたね。お兄さんに最後に会ったのは、息子さんの神宮外苑店の開店の日
かな。この四、五年、私も年金暮らし、家が遠いので飲みに行っておりません。

 突然の「でん八物語」懐かしのあまり、拙文ですが筆を執りました。
 「でん八」は、私の青春です。決して忘れることはありません。息子さんの弘史君、
これからも頑張って「でん八」を守っていって下さいね。
 編集委員の方々ご苦労さまです。                    
                                        原 政文

2014年2月19日水曜日

再再度、見舞う。



今日、リュウA君を日赤病院に見舞ってきました。
その前に、彼と常日頃会ってコーヒーしていた「豆香房」で、ワタナベさんに直
近況を聞く。

1月末、2月頭に行って、三度目になるのですが、少しずつやせ衰えてきており、
会話のやりとりも鈍くなってきているように感じます。
今日は、奥さんに会え話し込むことができました。
病名は重度の肺炎です。定期的に痰など詰る要素のものを取り除く処置をして
いること。点滴及び酸素吸入は恒常的になっている。今月上旬に訪ねた時は、
栄養液を人工吸入していたが、今日は外されていました。
と云うことは、1月14日の緊急入院から今日まで一ヶ月余、何も口にしていない
ことになります。栄養の人工吸入は自分で管をとってしまうそうです。このことが、
次第に衰弱し死にいたることを認識できていないと云うことのようです。
(僕の勝手な推論ですが。)
医者は、「本人の意思次第」のニュアンスで奥さんに言うようです。
肺の部位以外は何も疾患が無いわけで、なんとかして栄養を補給する努力をす
れば復活できると、素人考えするのですが、如何ともし難いのが現状です。

悶々として自宅に帰り、大病経験の多い二人の友人、知人に良い方策はないも
のか、問い合わせしているところです。勝手ながら、、、。
このままでは空虚な時間が経っていくようで、残念です。
お医者さんも一所懸命なのでしょうが、何かできるような気がしてならないのです。

2014年2月18日火曜日

克美しげるとロックメッセンジ ャーズの頃

 江藤Iさんから『新宿・でん八物語』(仮)への寄稿から──27
                   


 小生たしか二十歳の頃だったと記憶しております。…何せ七十歳を迎えさせてい
ただきまして感謝! 感謝!!
 忘れもしないあの懐かしい「でん八」さんに毎日毎日、お世話になっておりました。

当時たしか克美しげるとロックメッセンジ ャーズと云う関西から来てたグループだっ
たと思います。すぐ裏に人気ジャズ喫茶「ACB」(アシベ)と云う店での思い出話しで
すが…。
 たまたま小生、一番早く楽屋入りしてまして階段に居たとき、実に人相の悪い男
が下りてきながら、あの独特な態度でウオーオツ! ヨオーヨオーツとか言いながら、
おいここに江藤って言うヤツが居るか? と言いながら…。私ですが、と答えると、
関東ででかいツラしてるヤツが居るのでアイサツに来たと言いながら一方的にケン
カを売られました。私があなたに何かしましたか?と言うと…。特にどうではないけ
ど…。私も若かったし売られたケンカは買わなければと思い、近くにあったカラの
ビールビンを持ち…。 結果、謝られました。
 相手は誰? 内田裕也と言うロックンローラ氏だったよ!!
 (アキちゃんうまくまとめて下さい。)
                                  江藤I(ベーシスト)

2014年2月17日月曜日

あの日を、消えて流させまい!

大槌町安渡小学校(旧)校庭/雪のなか暖をとる!
被災者に炊き出しをした「命の釜」がある。

暮れから1月も雪が降らず、「雪のない冬」かと思っていたら、二週続けて記録破
りの大雪に見まわれました。鉄道も空の便も止まり、なかでも高速道路のマヒは未
経験領域に達しています。天災の被害は、遅れて事の大きさが増幅される。

こうした雪災害のニュースを見ながら、目に焼き付いている3・11被災地翌日の映
像が想い出されます。
積雪のあった翌朝は、隣り近所の人たちが、誰に言われるでなく、雪かきに精をだ
す。日頃、近所付き合いが少ないにも関わらず、皆に等しく降りかかる天災には、
自然に共生意識が働くものなのであろうか。慣れない雪かきは苦労なのだが、目
線を合わせると笑顔の交換がある。
被災地の老若男女、子供を問わず、助け合う姿が雪降るなかにあった。その日か
らもうすぐ三年が経つ。

先日、白銀に映える南天の赤い実を見て想い出されるままを記したが、、、。
3・11大震災翌日から始まった、吹雪のなか災地者の助け合う第一歩を踏み出す
姿が忘れられない。
記憶とは──。ソチ冬季オリンピック開幕は、東京が大雪の日だったと、、、。
そして、あの3・11翌日の被災地は、吹雪であったことを、消えて流させまい。
娘の友人の父親が津波にさらわれて行方不明の母親を、雪が降り積もる瓦礫の山
をさがし歩く姿が鮮明に甦る。

2014年2月16日日曜日

ミエって誰?

ミエさんの寄稿から──26


 印象が少ない私なのにと迷ったのですが、「でん八」との思い出は私の遅い青
の大切な思う出として心に強く残ってますので参加させて頂きました。
今から三十五年前、私が二十代後半の頃、初めて「でん八」に連れて行ってもら
った時の印象は常連とに関係なく、お店の人を介して和やかにお酒を楽しめるお
店。自由業の人が多く、とても居心地が良かったと思いました。

 そのうち「でん八」をっ知っていることが自慢になり、友人を案内して色々な繋が
りを感じました。当時勤めていた六つ上の先輩が二十代の頃、歌舞伎町の「でん
八」の板さんとお見合いのような紹介で何度か通っていたそうです。最もすぐ自然
消滅したそうですが、、、。彼女を案内すると、ずい分昔の話でその板さんはやめ
られていましたが、とても懐かしがっていました。

 後は皆さんが良くご存知の竹馬の友である愛さんを案内したのも私です。たちま
ち「でん八」のファンになり、私たちが通っていた頃は「でん八」「そのに」「でん八そ
の三」の愛称で呼ばれており、二人でぐるぐる回って同じ人たちと又会うのを楽しん
で、馬鹿呑みしていました。
 愛さんも私もアキさんのファンで、ちょっと離れている歌舞伎町にも癒されに何度
か通いました。愛さんは私よりも「でん八」には多く通い、いつの間にか素敵な伴侶
まで、、、。 あの頃が一番楽しかったです。
 五十年となれば悲しい別れも仕方ないですが、出会った頃の輝かしい印象と楽し
かった思い出が甦ります。
 この先も「でん八」での出会いを楽しみにしています。
 五十周年おめでとうございます。今後とも末永く続くことを願っております。
                                             ミエ


2014年2月15日土曜日

豪雪地帯か!

(2014・2・15影Can)

記録的大雪にみまわれた日から、一週間足らずで40センチを越える豪雪になった。
暦の上では、春だと云うのに。
そうなんだ、春とは名ばかりで実際には気温が最も低い時期でもある。
2・11(紀元節)とか、2・26(蜂起事件)の前後は雪の日が多いように、づっと思っ
ている。

先ほど、倉敷の弟から雪中見舞いがあった。テレビで東京の大雪と交通マヒ状態の
ラッシュ映像を見て驚いている様子が覗えた。
僕は12歳までは、岡山津山の奥、奥津で過しました。瀬戸内側ではなく、中国山地
の山中だったので、結構、積雪があった。ソリも竹スキーも楽しめました。
今日早朝、起きて玄関を開けようとするも、雪の吹き溜まりが50センチになるほど
積もり、ビクともしない。日差しがさしてから、またまた雪かきとあいなった。
雪の重みでひしゃげた南天の枝から、真っ赤な実だけが真っ白な雪から表出して
輝いていた。
奥津のわが家の裏庭にあった南天が、しんしんと降り積もった雪の朝に見られたと
同じ風景だった。

忘れ得ぬ人 

『新宿・でん八物語』(仮)編集委員・長田Nさんの寄稿から──25


 藤本敏夫さん。
 一九六八年十月二十一日、国際反戦デー。
防衛庁抗議運動に反帝全学連委員長として登場、指揮をした。夜半新宿騒乱に
拡大する。私は大学四年生だった。
 新宿駅で機動隊と衝突、頭に裂傷を負い「でん八」に逃げ込みアニキに病院に
運ばれ助けられた。
 夜半、騒乱罪適用で全員逮捕との情報を受け、病院を密かに逃げた。
 藤本氏も辛うじて逃げたとのこと。後日、加藤登紀子さんに彼を紹介され、顛末
を知る。勿論彼は指名手配中だった。「でん八」に案内し初めての盃を交した。
居合わせた若者を、瞬く間に虜にした。立居振舞凛として。その弁や能し。
 一九七〇年、キューバ文化交流事務局長に任じキューバへ「砂糖キビ狩りツア
ー」を企画、何回か派遣。「でん八」の若者も参加した。
 有言実行の男だった。
一九七二年 下獄。
一九七四年 出所。
当時の内ゲバを嫌い学生運動から離脱。
「大地を守る会」の初代会長になる。
千葉県鴨川嶺岡に「自然王国」設立、全国の有機農業普及に自ら実践した。

 「その三」のアニキと親しく、熱く日本の農業の未来を語っていたのを思い出す。
一九九二年、「参議院比例区『希望』で立候補、公約は「原発はいらない」。しかし
落選する。
 その後「糖尿病の会」、「納豆の会」、いろいろ起業したが、活動の中心は「自然
農園」だった。
 二〇〇二年七月三十一日、闘病の後肺炎のため、死去 五十八歳。
颯爽と登場し、風の又三郎の如く行動し静かに逝った、、、。
「五十年史」に一行でも彼の名を紹介できれば!
されど誰一人握りしめたる拳を卓上を叩きて 「V・NAROD」と叫び出る者なし。
                                            (啄木)   
 現在、「自然王国」は加藤登紀子さん、長女美亜子、次女八恵さんが、藤本氏
の 遺志を継いで頑張っています。(三女美穂は沖縄で精神科介護士)。
農園は峯岡の高台に在るが湧水が絶えることなく溢れ、不思議なスポットだ。
加藤登紀子さんのエネルギーの源泉と思う。
(参考文献 加藤登紀子著『青い月のバラード』)

 暮、「酔いどれコンサート」の帰り、銀座三原橋を通った。
 「傳八」の灯は消えていた。
                                           長田N

2014年2月13日木曜日

金田万寿人さん お別れの会


今日(12日)、「金田万寿人 お別れの会」に参列しました。
午前11時30分から東京會舘でトーハンの呼びかけで執り行われました。

近藤、谷川、佐藤、小川、十十木、岡本、今村、川上、西谷、池山、江沢、石川、
熊谷、藤沢、亀井、嶋村、北原、島田、滝井、鎌内、(丹羽)氏等、、に会う。
近藤副社長と。あゆみブックス鈴木さんと最近あったときの話が出たが、場所柄、
短い立ち話で移動。(近く、野球談義などをと、、、。)
未来社・西谷社長と写真展示を見ながら回顧談に。金田さんと先代西谷社長が
懇意にしていて、伝通院前の寿司屋での懇談に同席して語り合った頃を、懐かし
む。さらに、雑誌「未来」掲載の論考の話題になり、いま沖縄に力点を置いている
が、3・11被災地にもシフトする気概を聞く。鈴村和成さんの「春樹論」刊行予定
の話も出る。
「梓会」のトップに就任した今村さんには、新しい世代への流れを実感する、と激
励する。そばに居た川上君が、すかさず「でも、彼60歳だよ!」と。さらに僕は、
十歳以上年長、何をかおもう。

お別れの会の会場で、こうして多くの方たちに会えるのも、金田さんの懐の深い
人情味溢れる人柄が成せることだと思った。
未来社時代はさておき、1985年の取引契約締結、1995年、書籍部長(専務)
の頃、雑誌→ムックコードの取得と云う番外のサポートをしてもらう。
(←13・12・3「追悼・金田万寿人さん」記)

ありがとうございました。多謝。



2014年2月12日水曜日

手塚和男さんと「でん八」

マチカさんから『新宿・でん八物語』(仮)への寄稿──24


 「でん八」五十周年の歴史を語れば、あとで登場してきますが、今は亡き手塚
和男さんのことを書かねば語れません。文を書くのが非常に苦手な私に書けるの
でしょうか? 私にとっては約四十年ほど振り返り、よく思い出しながら何とか前
に進めて行きたいと思います。

 さて、私は本名は××マチカ、芸名MACHIKAと申します。大阪で歌っていたと
ころをスカウトされましたが、「東京で勝負したいんです。」と言ったら「解ったっ!」
と言って、一枚の名刺を頂きました。そして上京したのは1971年19歳の時でし
た。知り合いは誰一人居ず、母からもらった5万円を握りしめて、新幹線「こだま」
に飛び乗っていました。着いたものの右も左もわからず大きな荷物を持って、銀座
・新宿・上野と電車に乗ったり下りたり、歩き続けましたが、結局、上野駅近くの公
園のベンチに紐で片足をくくりつけ、野宿を経験。二、三日目には、代々木公園に
お世話になり、これ以上は一人でプロダクションを探すのは無理と判断し、やっと
名刺のことを思い出し、電話しました。「ハイもしもし、<エトアール・アーティスト>
です。」「えらいハイカラな名前の事務所やなァ」と思いつつ、「今、大阪から着いた
マチカですが、、、。」、この先長いので省略します。

 最初に「でん八」に連れて行かれたのは三越裏でした。必死で大人びた振りをし
ていましたが、あの暖かい「おでん」と「熱燗」を目の前にしたときに「ドッカーン」と
頭を殴られたような衝撃を受け、もう涙が止まらなくなって、大声を上げて泣きつ
づけていました。「てーさん、なにか言ったの?」って、お客さまにまで心配してもら
いました。手塚さんも、あんなにビックリしたことはないと言っていました。それから
アキさんが居た「中華Bar・でん八」とでも言っておきましょうね。焼きそばがおいし
くてよく食べて、アキちゃんともその頃はだるま水割りを飲みましたよね。いつもや
さしい顔で、人気者でした。

 それから半年、また私ごとですが、あることがきっかけで、読売TV番組のプロも
アマも出場できる「全日本歌謡選手権」十週勝ち抜きチャンピオン(26代目)にな
りました。あの大スター八代亜紀ちゃんと同期です。レコードデビューもしましたが、
あまりレコードは売れませんでした。それでも日本中どこへ行っても、声をかけられ
て応援してもらいました。感謝しています。
 新宿の仕事場は多くて、クラブリー・ムーランルージュ・ルィード・ムーラン・ドール
・スカーレット他と忙しい日々、打ち上げは必ず「新宿でん八」でした。おやじさんと
の会話はあまりにも多く、書ききれませんが、1974年長島引退の年、手塚さんは
大ファンで、立教大の先輩でもあり、ショックで浴びるように酒飲んでいました。お
やじさんも頭にきて、出入り禁止も何度かあったようです。私は横目で見ながら「で
ん八」といえば鰯でしょう!つみれ汁をよく頂きました。

 板前さん、スタッフの皆さん、これからも頑張ってください。
 もっと伝えたかったのに、、、感謝、ありがとう。
                                    m飛柿(歌手)

2014年2月11日火曜日

中澤忠のこと

k中澤さんからの寄稿──23

(提供:k中澤)


 中澤ちゅう 彼岸よりずーと「でん八」を見ています。五十年まるで自分の人
生すべてのようでした。
 昭次郎兄、豊太兄には、公私共に本当にお世話になりました。改めてお礼申
し上げます。
 「でん八」は、良い仲間と出会えた最良で最高の「場」でした。
 五十周年、まことにおめでとうございます。こちらでも数人の知人が居るよう
だから、皆で一献傾けることにします。
 若い世代とともに未来に向けて頑張れ!「でん八」永遠なれ! 「ちゅう」

 ちゅうが存命だったら、きっとこんな気持ちだったろうと思います。
 上京以来、彼の生き方を良い意味で変えてくれたのも「でん八」での多くの人
との出会いだったような気がします。私が忠と知りあったのも「でん八」開店の
頃でした。一見、とっつきが悪く無愛想な男でしたが内心は優しい男でした。
 大勢の人たちに愛され忠は幸せな一生だったと思います。
 「でん八」の皆様、ありがとうございました。
 大変な世情ですが、益々のご繁栄、末永く続きますようお祈り申し上げます。
                                        K中澤

2014年2月10日月曜日

N忠さんのこと

『新宿・でん八物語』(仮)へ、お登紀さんからの寄稿(直筆から)──22

お登紀さんが淺川マキのライブを見た時代背景はどうだったのだろう、、、。
ハイセイコーの名前を聞くだけで時代がよみがえる。地方競馬出身の競走馬が、
それぞれの夢を乗せて走り続けていた。
もう一つ、忘れられない「江夏の、延長11回ノーヒット・ノーラン」がある。もっと凄い
のは、自らのサヨナラホームランで決着をつけたことである。
世界では、第四次中東戦争が勃発している。
菅原文太『仁義なき戦い』の公開も1973年だった。





2014年2月9日日曜日

羽村・銀世界 記録的大雪!

玄関前(2014・2・8夕影)

羽村のわが家の周辺は、積雪が32センチとなり、1969年以来、45年ぶりの
記録的大雪となった。
東京、20センチ以上の積雪は20年振りとか。
Gyoがまだ生まれたばかりで、降り積もった雪のベランダを這い這いさせた記憶
がある。

翌日。
昨日とはうって変わって朝から日差しが強く雪滴のおとが聞こえた。わが家の玄
関軒下です。
雪かきをして庭先の道路に出て見ると、隣り近所の人たちが額に汗して雪寄せを
していた。日頃はあまり会わない人たちに挨拶する!2時間ほどで公道の雪かき
を終えた。見事な共同作業だった。

(14・2・9Sch影)

2014年2月8日土曜日

再度、親友を見舞う。


今日、8日は朝から終日、雪が吹雪き混じりに降り続いた。東京は17年ぶりの記録
的積雪とか。羽村の家の周辺の積雪は、32センチ。1960年代に一度あったかな
と云う位、記録破りの真っ白な世界。

リュウAを2月6日、日赤病院に見舞った。その時の彼とのやり取りから──。
y どうも! 悪いな、、、。
f 何人かには、前回の様子を伝えたよ。
  肺に水が溜まって、呼吸困難とか、タンで言葉が出にくいとかの状態なのか
  な?
  (肺炎に似た症状で、肺のなかに大量にタンが滞留していて、それを吸引す
  る治療中)
  カクゼツ具合はどうなのかな、、、。
y まァまァ。
f 今朝、ワタナベさんからメールがあって、現況と部屋の移動を知ったよ。
y おゥおゥ、そうか。
f 次第に良くなりそうな感じだね。自宅静養までいけばベストだね。
  食事も自力でできるようになって、、、。(まだ、人工投与中)
  本を読むことできるのかな。週刊誌、「文春」をおいて置くよ。
  (特集:佐村河内の作曲別人スキャンダル)ハッハハと苦笑い!視力は良く、
  意識も鮮明のようだ。)
  車椅子での移動は未だできないのかな?
y ウン、未だな。自力でベットから起ちあがれない。

  (看護師さんと)
看 口が渇いていて喋り辛い。聞き取りも難しい。
  自分で動けるようにならないと、口から食事ができるようにならないと、家に帰
  ることは無理。奥さんが大変、、、。さすがに、友人でお話が通じ合いますね。
f 時々、寄るから。
y ほんとう! ありがとう。
f 悪くなっている状態ではないのだから、まず、車椅子で動けるように回復に努め
  てよ。握手!

前回訪ねたときより、顔色がよく生気を取り戻しつつあるように見えた。手の握力
も感じられた。
15分ばかりの滞在で、病室を出ました。

2014年2月7日金曜日

「でん八」出会ったひと ちょとだけ

田中M&Nさんから『新宿 でん八物語』(仮)への寄稿──21



 大学の同級生に新宿高校出のタニモトというのがいて、互いに普通は卒業する
年に大学に入ったこともあって気が合い、高校の時から熟知する新宿を連れ回っ
てくれたのが「でん八」とのきっかけです。いつもはゴールデン街の「淵」でいちば
ん安いウオッカをちびちびやっていたので、やや高めの「でん八・その三」(歌舞伎
町店)にはたまたまでしたが、常連客が多く騒ぐ若い客が来ないのがなによりでし
た。「そのに」はアキさん、ちゅうさんが居て、ちゅうさんは気風の良さと歌のプロぶ
りを見せます。そうこうするうち僕らの結婚式の二次会を頼んだら、休みにもかか
わらず使わせてくれました。

 「そのに」からスナック「ちゅう」までで出会ったのは、ネモトさん、オサダさん、芸
大系のNHKのポスターを描いた××さん、スミダさん、酔っぱらった時だけ知り合
いになっる、、さん、「上海外灘」を潰した、奥さんが「フィリピーナだって言われる
の」と言っていたタケさん、地井武男似のオギさん、ツンちゃん、アケミちゃん、ツチ
クラ夫婦、トモノ夫婦、フルカワ夫婦、ユタカちゃん、シンちゃん、フクちゃん、一番
若かったニシやん、風貌より実年齢がかなり若かった**さん。(すみません名前
が~)

 「でん八・その三」に戻って、社長、アキさんとも 隣に座ったらずっと話し始め、
他客の注文に動じない、いや動かないんです。また社長が従業員に仕事を作るた
めと言って、タバコを吸っては床へ落としていたのを見て、社長の権限やら仕事と
はなんなんだとか考えたものでした。そんな時の話は、戦後トヨタに誘われても、こ
んなに大きくなるとは思わず断ったとか、戦中、出征まえの若い学生だったので男
が国内にほとんどいない銃後の妻や未亡人に、とてもいい思いをさせてもらったと
か。
 ほかに、いつも新聞を読んでいた「ヒゲの板さん」、その後のかなりお年を召され
た「板さん」、この方は、社長も同じですが、保険かなにかの新聞広告に大きなモ
デルとして出演されていました。あと、ミャンマーに変わって帰れなくなった「ビルマ
のフロアーさん」、コージくん、社長と同じリーゼントの息子さん。

 「銀座傳八」では「でん八」のころからいろいろ気づかってくれたフナコシさん、ミ
ヤヒラさん、沖縄の二人がここを盛り上げて以来、沖縄メニューも気に入ってまし
た。それと仙台一校の板さん、揚げ物の「小さい料理人さん。
 あと、「青山・傳八」開店の時、妻が木だけの椅子でクッションがないとブーブー
言ったところ、アキさんが、「銀座・傳八」ではなんとかするからと言ったのになん
とかならず、その代わり妻だけにはいつも座布団が二枚出るようになりました。
ちょっとだけの話。
                                       田中M&N

2014年2月6日木曜日

自然菜園の旬の味

旬の味の感動をもう少し記しておきたくなった。


春らしくなる立春を前に雪が降る幸運に出合った。
そんななか、友人・大井Kさんが自家菜園の無農薬野菜を持参してくれた。
十余種類の季節を告げる野菜をもとにしたレシピが食卓に並んだ。

レモン:はちみつ漬け
かぶ:柚子の甘酢漬け&みそ汁の実
小松菜:油揚げの煮びたし
ねぎ:タコとぬたに
ふきのとう:ふき味噌
ブロッコリー:サラダ
春菊:肉じゃが
ルッコラ:アジのピカタに添えて
大根:みそおでん
里芋:茹でてきぬかずき
水仙は花瓶に一本挿し。

それとなく頂きながら、こうして美味しく食してみると、夫々の野菜の香り立つ
風味から、昔の食卓を思い出します。
ぼくも、手造り一年味噌をわずかばかり持ち帰ってもらいましたが、さっそく、
「夕餉の時、あの味噌を、ふろふき大根にと、練ってみましたら、実に良い香
りがただよいまして、<いい香りがする>と家内が声をあげていました。」と言
ってもらい、いい気持ちになりました。

季節を告げる土の薫りをありがとう!

2014年2月5日水曜日

「でん八」に通った40年

今井Hさんの寄稿から──20


始めて「でん八」の暖簾をくぐったのは、1971年の夏だったと思う。大学5年生
で就職のための筆記試験が終わって、同級生4、5人、友人の一人が知ってい
た店だった。内装は現在より若干シンプルだったがほとんど変わりなく、椅子は
背骨にあたって痛かったが、尻を落ち着けて飲めそうな雰囲気で、常連になりそ
うな予感がした。

 当時の新宿は60年代後半の学園闘争、70年安保の余韻も感じられ熱気があ
った。「「でん八」の場所はどこ。」と聞かれたら「二幸(現在のアルタ)の横の道を
まっすぐコマ劇に向かって進み、一つ手前の道を右に曲がると喫茶店の「王城」
が見える。喫茶店の「スカラ座」の斜め前の二階。」と、説明すると大体迷わず来
れるわかりやすい場所にあった。近くに歌声喫茶の「カチューシャ」もあり、店内
に入るとアコーディオンの伴奏で、ロシア民謡やら国際学連の歌やらの全員合唱
で盛り上がっていた。

 就職した20代の思い出は、「でん八」チームと軟式野球をやったことである。
当時の勤め先は大井町にあったが、たしか東品川の天王洲(現在ではビルが立
ち並んでいる)のグランドで対戦した。「でん八」チームの背番号は、888とか、8
か8分の8とか全て8がらみ。その毒気に当てられたか惨敗した記憶がある。
 30代、40代は丸の内、新小岩、新宿と転勤したが、結構マメに通っていたよう
な気がする。歌舞伎町はボッタクリバーから大学生が飛び降りて亡くなったり、客
引きを振り払いながら靖国通りから店まで到達するなど、周囲はうるさかったが
店内は落ち着いた渋い感じだった。当時は仕事も忙しく、9時過ぎに一人でやっ
てきて、聞き上手の社長相手に飲み、硬軟取り混ぜて気持ちよく喋っていたと思
う。もっとも奥様の話では、もっぱらゴルフと旅の話をしていたように伝わってい
た。
不思議と泥酔した記憶がないが、年増の女子に囲まれて小上がり飲んだとき激
しく気持ち悪くなり、早々に退散したことがある。社長からは「連れてくる人を考え
ないからだ。」と皮肉を頂戴した。

 今年、13回目を迎えた「でん八ゴルフコンペ」には初回から皆勤だったが、この
秋は残念ながら欠席してしまった。年々飛距離が落ち、スコアもジリ貧になること
が一番年を感じる時である。思えば、社長や豊太さん、従業員の皆さんのおかげ
で楽しく飲み、騒ぎ、貢いできた40年だった。これからも飲める限りお付き合いい
ただきたいので、「でん八」が是非健在で歌舞伎町で密やかに輝いてほしいと思
っている。
                                            今井H


2014年2月4日火曜日

谿くん、自然菜園の野菜、柑橘、花を持参!

自生水仙のいい薫り!(2014・2・4影)

「オオバヤシの叔父さんかとおもった」と、YUに言わしめた、親友・大井K君来宅。
(親戚の叔父さんと、教育者どうしと云うことと、風姿が似ていたからだろう…)。

午後から雪降るなか、自然菜園で収穫した野菜と柑橘類と花の持参でした。
大根、ネギ、ブロッコリー、春菊、ルッコラー、里芋、小松菜、カブ、レモン、水仙
の10種類以上の豊富な、彼が手塩にかけた伊豆高原の自然菜園産に圧倒され
ました。
昨年末のWα忘年会で、彼から富士山麓歩きと、菜園作りに精を出している話を
聞いて、関心を示したことへの応答だったのだろう。

僕も、一年モノ手造り味噌を渡し試食してもらうことにしました。
彼と、こんな物々交換をするような関係になろうとは予想だにしていなかった。
外が雪降り薄化粧するなか、今夕はいただいた野菜をふんだんに使った鍋と大
根・カブ・里芋田楽のお相伴にあずかろう。 感謝!!

2014年2月3日月曜日

伝承される「巻き寿司」



節分の日にずっしり重い太巻き寿司を「丸かじり」する習慣は最近になってのこ
と。その巻き寿司、すなわち恵方巻きの名称で、日本中に広まった。
(全国に10万店舗弱点在するコンビニの商戦はスゴい!)
日本の七十二候、行事食の一つに加えられた格好かな。

ぼくの田舎では、ハレの行事では、バラ寿司、太巻き寿司、赤飯、おはぎ・ぼた
餅、柏餅のいずれかを作った。
特に、祖母が簀の子で手際よいよく巻いていく「巻き寿司」をそばで見ているの
が好きだった。巻き終えるそばから、両端を切って食べさせてくれる。たっぷり
味の染みた干瓢、椎茸、牛蒡とパリッとした海苔の食感が最高の至福をもたら
してくれた。

だからイヴェント的な恵方巻き一本丸かじりは、あまり好きになれない。手に持
ったときのふにゃふにゃ感や、ノリの歯切れの悪さなどあって、美味しくなくなる。
今日は、yuが作るおばあちゃん伝授のわが家の「巻き寿司」を食べる!
鬼は外! 福は内!

2014年2月2日日曜日

甲斐駒ヶ岳 尾白の赤湯・白湯に

(2014・2・2影)

味噌造りを終えて、宿泊先の甲斐駒ヶ岳の麓に湧出する「尾白の湯」(研修セン
ター)に行く。

この場所は、白州のサントリー「南アルプス天然水」でおなじみかも知れない。
チラシに謳われているのは、日本最高級「超高濃度」天然温泉、1㎏あたり31600
㎎ミネラル含有。温泉法による有効成分基準値から、バリウムイオン30倍、リチ
ウムイオン10倍、臭素イオン10倍、メタホー酸イオン2倍というきわめて多様な濃
度の高いミネラルを含有すると証明されているようだ。
ここの「赤湯」の源泉は、バリウムイオン、ストロンチウムイオンが特に濃い、貴重
な天延温泉なのだ。
二度目になるが、温泉好きの和さんにとって、たまらない処なのである。
軽井沢の星野トンボ温泉がそうであったように、ここでも雪の露天に浸かることは
残念ながらできなかった。


夜の宴会は、オザワKさんが直々に仕入て、手をかけたアジ、イカの干物を肴に
和さん差し入れの「越の寒梅」やぼく持参の焼酎「三岳」で盛り上がった。締めに
出てきた、これまたオザワさん秘伝のたれ汁の「鯛茶漬け」は絶品でした。
主催者の、ヒジカタご夫妻に感謝です!

2014年2月1日土曜日

4年目に入った寒味噌造り挑戦!


一月が過ぎ去るのを早く感じた。二月一日早々に恒例の味噌造りで北杜の山荘
に出かける。

今回、ぼくの車に同乗するのはカズさんだけ、昨年一緒だったゴンパチ君は残念
ながら体調不良につき不参加になった。
早朝、途中でカズさんをひろって、中央自動車道をまっしくら白樺のなかに佇む
瀟洒な山荘をめざす。
途中、双葉で軽食を摂るため休んだが、予定通り10時に到着した。

既に先発隊は割烹着姿で、早朝から煮た大豆をミンチ状にしたものと手造り糀を
ブレンドしているところだった。
それぞれが持参した容器に味噌玉を詰め終わったのは、正午過ぎだった。