2015年6月30日火曜日

ダマされないように、、       1055

上本博紀二塁手
1ヶ月前、虎は苦しんでいた。5月25日時点で首位と最大7ゲーム差。
デッドライン越えと叫ばれ、監督、コーチへのバッシングが噴出し始めていた。

あれから1ヶ月後、越中富山で首位に抜け出し、6連勝中。
残り73試合、後半戦に突入でも、調子が落ちるときの波を最小にに抑えて乗り
切って欲しい。

この連勝街道の立役者は上本の勝負強さ、得点圏打率,326によるところが大
きい。彼は打席で追い込まれてかのピッチャーに球数を投げさせる粘りの選球
眼もスゴい。盗塁数もチームで最多だし! さらに、守備範囲が広がり鳥谷敬と
の三遊間コンビは往年の吉田=鎌田の域に近づきつつある。

鳥谷が死球の影響もあって5年振りに7番で先発して2試合目になるが、助演打
線の面々を引っ張っている。
(ここまで記したところで、、)
あれよあれよの7連勝と思いきや、最後の最後に逆転された。

甲子園を離れて戦う明後日の、対ヤクルト第3戦の倉敷マスカット球場は期待し
ているよ。

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2015年6月29日月曜日

写真をめぐる記憶          1054

「サイパン熱帯植物園」の木と花①

(影:Pen)説明を追加
この植物園に惹きつけられるのは、なんたって花木を案内する掲示板が日本語
で書かれ、サブが「SAIPAN BOTANICAL GARDEN」なことである。

【タビビトノキ/バショウ科】上左
樹高は20mをこえる。葉の軸にたまる水を旅人が利用した。並列する葉が一定
方向に向く、などが名の由来。

【デンドロビウム/ラン科】上右
熱帯地方に広く分布し、約1000種ある。ランの中では比較的丈夫な種類で枯
れ木とヤシの殻を使って着生させている。わが家でも、今年3年ぶりに花が咲い
た。

【ピーコックフラワー/マメ科】下左
真紅!沖縄でも庭先などで見られ、オオゴチョウともよばれる。赤と黄色の蝶形
の花の後に10cmほどの豆をつける。

【シロソケイ/モクセイ科】下右
ジャスミンの一種。高さ2m前後の半つる性の木で白い小さい花は芳香を放つ。

2015年6月28日日曜日

サイパン熱帯植物園にて     1053

採りたての各種フルーツジュース(影:Pen)
「サイパン熱帯植物園」のなかに、ミニ「歴史資料館」があった。
資料館の中で注目したのは、写真の展示とそれに付されたキャプションで、父
の島で過した教員生活の一端を想像することができた。

戦前のミクロネシアの生活様式を写真にとどめた貴重なもので、チャモロ族やカ
ナカ族の民族衣装や自然と共生する日常の様子、約3万人いた日本の開拓民
が住んでいた当時の町の様子、そして生活の糧となるサトウキビ栽培やリン鉱
石採掘の労働の様子など、戦前のサイパン、ロタの歴史に一歩近づくことがで
きました。

サイパンに滞在したとき、ホテルの庭師を手伝うチャモロ族の老人で、父を知っ
ているという人と対面することができ、時間が逆回転するような感覚になり感激
しました。
また友人ヤナギダ君が、随分前に社員旅行でロタに行っており、既にリゾート化
する現地の話を聞いたことがあります。当時、僕は南洋諸島にあまり関心がなく
て聞き流したことを、今さらながら残念に思っています。

この植物園は、ミクロネシア最大の熱帯植物園を謳っていますが、戦時下では
多くの人命を奪った激戦の地として記憶しているはずです。
広大な園内で掘り出された砲弾や銃弾が展示しているのを見るにつけ、「父」と
共に頭を垂れました。

一方で、大昔にマゼランが上陸したラウラウ湾とビーチがみられ、水平線が円く
見えました。
父が教鞭をとっていた「チャッチャ尋常小学校」は、このラウラウビーチの近くで
カグマン岬にも隣接していたと思われます。
この位置関係については、これからも追跡を続けたいと思っています。

(←ブログ2015・4・9  「サイパンのこと」 973)
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2015年6月27日土曜日

御茶ノ水駅リニューアル中    1052

御茶ノ水駅と聖橋(2015・6・26影:Tab)
JR御茶ノ水駅は、僕が上京した55年余から大きな変わり目もなく現在に至っ
ていた。

今は亡き出口君が御茶ノ水駅を乗降して、大学病院に入通院していたが、自
分はもとっより見舞いで訪ねる人の、ホームから急階段の上り下りの難儀加減
を嘆いていた。僕も通勤で長く使っている手前、全く同感でした。

駅周辺に日本で一番病院や医療機関が集中していると思われるにもかかわら
ず、駅バリアフリーが設置されず不思議に思っていました。
どうやら、2010年頃から表立って見えなかった新駅舎の改良工事は開始され
ていたようで、ここにきて神田川をまたぐ人工地盤の異様な建設が見えてきた。

御茶ノ水丸善サイドに、本郷台地の切り通しを流れる神田川と御茶ノ水駅の誕
生を懐古した写真が、2020年リニューアル後の橋上駅舎と広場とあわせて展
示されている。
これまで御茶ノ水橋から見慣れた、谷底の御茶ノ水駅と聖メガネ橋の景観は、
もう直ぐ消えると思うと、淋しい気もする。

 




2015年6月26日金曜日

栗田出版販売、民事再生に!  1051


(2,015・6・26影:Tab) 
今夕5時過ぎに、出版社のSShさんから「栗田倒産」の知らせが入った。

民事再生手続きが受理されたようだ。
板橋から本社を九段に移転した頃から、厳しい状況にあったがここまで追い詰
められているとは知らなかった。
早速、幸いに大阪屋と出版共同流通でつなっがっているので、当面は大混乱な
く支援してもらえそうだ、、、。

これから債権者説明会があって、その上で秋頃までに再生計画案が提出され、
暮れまでには債権者集会にもっていく段取りでしょうが、暗くて辛い長い日々と
いうわけです。
栗田と言えば「栗田会」会長の奥村さん(南天堂書房)の姿が浮かぶ。
草野球でも対戦したことがあるが、人望厚く行動力のある人です。大阪屋との
パイプ役になるのだろうか。
さらに、戸田書店はどう反応しているのか注目されます。

2001年に人文・社会科学系専門取次の鈴木書店が廃業、続いて柳原、明文
図書と消えてしまった。この現実を冷静に受けとめなければなるまい。

2015年6月25日木曜日

埴谷雄高邸を訪ねる        1050

(2015・6・25影:Tab)
午前中、予約した大学病院で検診をすませて、午後は言視舎により懇談。
その後、夜の定例会までの時間を見計らい、吉祥寺の埴谷邸を訪ねる。

埴谷雄高さんが亡くなったのは、1997年2月19日でした。
自宅を訪ねるのは、この年以来で、それまでは通いなれた道路だったが18年振
りともなれば、周辺の様相は一変しており、路地の曲がり角を見失ってしまう。

玄関口の左右の見覚えのある松は、巨木になって屋根を蔽っていた。
石畳の左右の鉢植えはそのまま朽ちたまま残され、屋敷の中は草茫々で鬱そう
としていた。
玄関の戸を開けると和服姿の埴谷さんがすっくと立っているように思えたが、、。
しばらく、家の前を行ったり来たりしながら、屋敷全体を木と蔦がこんもりと覆う主
なき和洋折衷の館に想いをめぐらせた。
帰りに通る3メートル幅の路地と、民家の佇まいは昔のまま息づいていた。

(←ブログ2012・2・29 「埴谷島尾記念館が原発被災地区で劣化か」44)

2015年6月24日水曜日

浄化槽で7年も<潜伏>した「巨大金魚」1049

キンタ&メダカ(2015・6・24影:Can)
トピックスで、7年も生き延びた金魚のことを知った。

三重県「志摩マリンランド」の浄化槽で巨大金魚が見つかったと云う。
いったいどこからまぎれこんできたのかミステリーだったが、関係者が経緯など
を調べたところ、もともとは世界最大級の肉食淡水魚「ピラルクー」の悲しいか
なエサだったが、水槽の排水口から脱出し、地下の浄化槽に逃げ延びて潜伏し
ていたとみられる。実に7年以上に及ぶ。 (体長25cm/体重360g)

僕は子どものころ、川遊びが好きで素手で魚を捕まえたりしていました。この歳
になっても近くの多摩川に行って、泳ぐ魚を見て水に入ると爽快な気分になりま
す。
今、池や水槽に入れて数種類の淡水魚を飼っているが、そのなかにハルの「キ
ンタ」こと金魚もいます。ちょうど1年になります。わが家に来たときは1センチぐ
らいだったのが、6センチに成長したのにビックリ! 
金魚の最年長は2~3歳と思っていたところ、7年以上生きることを実証してくれ
たので、キンタを丁寧に見守ってやろうと思うようになった。

2015年6月23日火曜日

小林英夫『日本近代史』を読む  1048

書影
歴史新書『ライバル対決で読みなおす 日本近代史』を読んだ。

日本と東アジアの政治指導者が、転換期に生起した大事件にどう向きあい行動し
たのか、対立点をあぶり出し検証している。

明治・大正の韓国併合、台湾領有、台湾抗日運動、3・1独立運動をめぐって。
昭和戦前で張作霖爆殺事件、満州事変、日中戦争、ノモンハン事件をめぐって。
昭和戦後は、東京裁判、日韓関係、日中関係をめぐって。

読むきっかけは、今、船戸与一の『満州演義』を読んでいて、時代背景や登場人
物の相関図が複雑に絡んだ読解の難を解してくれる。

今また、歴史忘れるべからず、肝に銘じよう!

(←ブログ2015・4・23 「船戸与一死す」 987)

2015年6月22日月曜日

委任統治と植民地は、、、     1047


父は1942年(S17)にサイパンに行きました。

岡山師範学校を卒業し、小学校の先生になって3年が経っていました。僕は2
歳の時です。幼少ゆえに、父がサイパンへ行っていたのを知るのは、家に帰って
きてからずっと後になってからのことです。
玄関の土間に置かれた長靴を見慣れた頃に、やっと南洋の島を想像していまし
た。敗戦後は、サイパンの記録や手記の本を読んでいましたが、自ら語ることは
ない寡黙な父でした。

さて、「委任統治領」とは何であったの、、、。
今注目の集団安全保障と民族自決と云う問題が、1920年い発足した「国際連
盟」で新たに構築された案件でもあったわけです。
「第一次大戦は帝国間の植民地再分割のための戦争でした。しかし、その終結
後、植民地統治に関わる支配体制の改善要請が高まり、委任統治制度となって
実現しました」(『二〇世紀の歴史』岩波新書)

このシステムによって、日本は南洋諸島のカロリン、マーシャル、マリアナ、パラ
オ各諸島の「委任統治」を引き受けた経緯があります。
そして、これらの各諸島は日本の戦略拠点とみなされて、第二次大戦で米国との
激戦地と化したのです。

(←ブログ2015・6・14 「サイパンの光と影」 1039)
(←ブログ2015・6・20 「父とサイパン小学校」 1045)

2015年6月21日日曜日

父の日に想う            1046

インドボダイジュの木陰で(影:Pen)
今日、Gyo&Schから贈り物があった。

僕が小さい頃から、「母の日」はあって絵を描いたり、小物を贈った記憶がある
が、父へはそんな経験が一度もない。
一年中、設定されたハレの日は多々あれど、「父の日」は印象度がうすかった。
何々の日には、必ず起源があるはずで豆事典を捲ってみると、アメリカ発で日本
では、1955年頃から少しずつ浸透してきたようだ。
日にちを確定せずに6月の第三日曜日とされていることが、覚えづらいのであろ
うか、、、。

この年齢になっても息子、娘たちから、「、、、いつも、ありがとう!」の一筆が添
えられたプレゼントがとどくと感激モノです。





2015年6月20日土曜日

父とサイパン小学校         1045


父が教師として赴任したサイパンの小学校は、「チャッチャ尋常小学校」と言い、
百人余の生徒がいたようです。
サイパン支庁があったのはガラパン地区。

学校の規模としては、僕の通った津山の奥の小学校の生徒数が120名前後な
ので、本土と変わらない規模だったとのかな、、、。
写真に見える構内に植えてある大きな木は、「パンの木」です。
父の母宛に届いた手紙には、「パンの木の実をふかして食べると芋のようです。
また、木の葉は巨大なので、大きなスペースの日陰をつくります。」と認めてあっ
た。父がその木陰に座し撮った写真が残っています。

写真では、校門を出て下校する子どもたちが写って見えるが、何人無事に日本
に帰ることができたのでしょうか。
1944年にまず、隣のパラオで日本軍とアメリカ軍の戦闘が始まると、青い珊瑚
礁の島サイパンも慌しくなり、生徒たちは学校どころではなく、疎開していく状況
になっていく。

(←ブログ2015・6・14 「サイパンの光と影」 1039)

2015年6月19日金曜日

雄物川とさくらんぼ         1044

高山産さくらんぼ(2015・6・19影:Can)
今年も秋田三関の高山果樹園から、さくらんぼが届いた。

僕は以前、東北自動車道を走り横手ICを出て、横手盆地の穀倉地帯を経、雄物
川の河口が広がる秋田湾に向かったことがある。
品質日本一を自負する、さくらんぼどころ秋田県湯沢三関が、雄物川中流に位置
することを包装紙を見てはじめて知った。
ということは、出版から現役引退後この土地の果樹農園で一年の半分以上を援農
生活で過す、かつての同僚高山くんの故郷でもあるのだ。
クルマで一度でも走ると、土地の周辺イメージがリアルに定着している。

朝捥ぎのさくらんぼ、一粒一粒を箱詰めされ、ルビーのような輝きを放っている。
雄物川の清流と昼夜寒暖の差の大きなな気候の恵みが、はちきれんばかりの実
と甘くて美味しい桜ん坊を育んでいる。
小野小町に因んだ「こまちの瞳」とは、ぴったりのブランド名ではないか。

2015年6月18日木曜日

痛くなったらやめる!        1043


またまた、9ヶ月ぶりに「坐骨神経痛」発症で左足がしびれる。

キャスターであったり、元市長さんで高齢にしてトレーニングを積み、筋肉隆々
であることで知られるひとがいます。
ここにきて、僕も太ももの筋肉の衰えに気づき、3キロダンベルを使ってストレッ
チを継続してきた。野外でのジョキングや鉄棒などは今、中断している。
草野球をしていた5年ほど前は、少しでも活躍したい野心もあっての自主トレー
ニングだった。

今の目的は、日常生活に支障をきたさないよう、体力維持に変わってきている。
ところがまた、一年足らずで発症してしまった。腰廻りが重くなる兆候を感じた時
に無理をしなければいいものを、無意識的癖でいじめ過ぎ悪化させてしまった。
一昨年の6月は、無理なジョギングがたたり腱鞘炎から腰痛で七転八倒したに
もかかわらず、このザマは学習不足のようだ。

(←ブログ2014・10・5 「動かさないで筋肉が衰退して、、、」 785)

2015年6月17日水曜日

「水曜会」も16年にもなるのか! 1042

元祖水曜会開催の旧ドトール左(2015・6・17影:Tab)
今日、JR御茶ノ水駅で下車して駿河台下に向かって歩いた。
毎週一度、正午に集る「水曜会」の発祥の処、コーヒー店ドトールが目に留まっ
た。

今は、リストランテ&コーヒー店に模様替えなっているが、1999年頃、近隣の出
版社や書店の仲間が早朝の仕事前に一服する場所になっていた。
白井、森、清水、渡辺、藤森、、、らが居た。
その後、場所を三省堂書店の放心亭に移して、朝から正午の会食に変えて、フリ
ートーキングの集りになっている。

グンゾウさんから、池袋リブロのあとに三省堂書店が出る情報を巡回販売方から
聞いた話が出る。
この件はブログで書いたように、紀伊國屋書店が出店の噂は数年前に出たが、
もっと以前の専権事項だったようです。

ほかに、本屋の撤退と新サービス、カフェ併設の書店が話題になる。
書店空間が心地よい雰囲気に感じられるのは、若者ばかりでなくシニア層にとって
も散策がてら寄る場所になってきている。
これも時代の趨勢なのか、一方で淋しくもなる。







2015年6月16日火曜日

「6・15」と安保法案         1041

書影
1960年の「6・15」は、55年前の第一次安保闘争でした。

その後の「憲法公聴会阻止闘争」も経験しているが、時代は流れて2015年の
いま、「憲法審議会」をへて集団的自衛権の行使を容認する「安保法案」を国会
審議の名の下で圧倒的数の力を背景に強行突破が謀られようとしている。
「憲法審査会」の参考人三人が、それぞれ口をそろえて「集団的自衛権の行使
を容認することは憲法違反」と明言しているし、憲法学者の圧倒的多数の人が
やはり憲法を逸脱していると公言して憚らない。
しかも、自民党の推薦する御用学者まで、そうした発言をするというのは、よっ
ぽどのことだと思う。

国会審議に停滞を生じるが、強弱がハッキリしている政治状況のなかにあって
は、全野党が反対にまわり、国民の多数が反対したとしても、この「戦争法案」
は成立する。

敗戦70年、歴史的反省と逆流に抗する異議申し立ては、脆くも崩れていく悲哀
を感じます。

2015年6月15日月曜日

変わらない千年の岬・とどヶ埼   1040

鯔ヶ埼断崖/身を左右に引き裂かれる思い(影:Pen)
50年ぐらい前、三陸海岸を旅して、宮古種茂半島の「鯔ヶ埼燈台」に立っていま
した。
太平洋の荒波が打ち寄せる孤半島で、悠久の自然を感じる!

それから40年の歳月を経て再度訪ねて感激し、さらに3・11の津波震災後に二
度も足を踏み入れています。
行くたびに咲く花や木の葉っぱの彩の移り変わりに感動します。裂けた深い断崖
を覗き込んでみる波涛はなんどきも自然の力強さがあります。
東京の雑踏のなかに戻っても、本州最東端の鯔ヶ崎の風景を想うて気持ちよくな
ります。

最初にこの岬に行った頃は、まだ木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾歳月」で知
られるようになったばかりでした。種茂の集落を離れてから鯔ヶ崎までは、めった
に人と出会うこともない。歩くこと1時間余、幾重かの岬の果てに白い燈台が突
如として出現します。そこは、静謐そのものです。
行った季節は真夏と秋と春です。また冬場の冬景色もきれいでしょうが歩くのが
難しい秘境です。
もう一度は、いつの日か行ってみたいと思っています。

2015年6月14日日曜日

サイパンの光と影          1039

サイパン小学校
僕の父がサイパンから帰国して70年が過ぎ去った。
そして、今年は敗戦後70年。

亡き親父も、まさか三代にわたる子どもたちがサイパンを訪ねることになるなど
思いも寄らぬことだろう。それも、別々に行っているのである、、、。
それぞれの渡サイパンの経緯や目的は違っている。
僕はいつの日か、父の教育者としての軌跡を辿ってみたいと思っていたところ
に、Gyoからの誘いがあった。

教育者だった親父の心情を探る手立ては、僕の手許にはわずかに残る写真ぐ
らいで、手紙などの記録類が消失しているので、片々の聞書きによるしかない。
後日に続く→。

(←ブログ2014・6・18 「6・15とサイパン」675)


2015年6月13日土曜日

井の頭線のアジサイ!       1038

アジサイ/東松原駅ホームから(2015・6・13影:Tab)
今日は、吉祥寺から井の頭線に乗った途中で、アジサイの美しさにさそわれて
東松原駅で途中降車。

駅の線路脇に築山のように植えられた、大小彩りどりのアジサイが見頃です。
「東松原駅」は最近、ハルのスイミングに時々付き合うようになって初めて知った。
急行は素通り、乗り換えもなく、いつ見ても地元の人らしい姿しか見当たらない静
かな駅です。

この梅雨入りの季節になると、いつの頃からか、上り下り一つの共用ホームから
鑑賞できるアジサイの植え込みが注目されるようになった。特に、ライトアップさ
れたアジサイを車窓からも見られるので、わざわざ急行に乗らない人がいるよう
です。

スイミングのトレーニングを観た。
4種個人メドレーの練習をくり返していたが、クロール、平泳、バタフライ、背泳を
基本通りにくり返せるレベルまで進化しているのに驚いた。難があるとすれば、
バタフライで、後手になって前に繰り出す手がトビウオのように広げきることが未
だできていないようだ。
このバタフライなる種目が登場したのは僕が10歳頃だと思うが、未だにマスター
できないままできている。難しいはずです!



2015年6月12日金曜日

中心市街地再生計画動き出す! 1037

城山から(2015・5・21 影:「大槌広報」
定点観測写真の撮影現場である城山は、今、緑鮮やかに映えている。
嵩上げされた土が飛島のようだったのが、次第に平面化して狭く感じられるし、
大槌湾が狭まって見える。

この盛土の下に大槌町の街並みがあったことを想うと、自然の猛威を身に沁みて
感じます。
目の前に広がる風景のなかに、大槌町の中心市街地を創出することになるのでし
ょうが、復興のシンボルになってほしいと思う。
核にする事業を主として、店舗の集積エリア(商店街)の問題やスーパーなどの入
店が、供給者にとっても需要者にとっても、持続性のある魅力に満ちていなくては
なるまい。

(←ブログ2015・5・15 「復興予算一部被災地自治体負担に」 1009)
(←ブログ2015・1・15 「記録を記憶に残すコモンズ!」 893)

2015年6月11日木曜日

キープレフト!            1036

トリヴュート(影:Can)
先だってのドライヴでの僕のクルマの運転術について、異議申し立てがあった。

高速道路での運転を見ていて、中央車線に寄りすぎるクセを指摘された。
その際、「キープレフト」走行が守られていないと。
指摘は当たっていて、これまで、自分で決めた走行基準が右側の白線から1m
弱を走るようにしていた。
すなわち一般道走行のときに、左の人や自転車を避けたいばかりに、右走りを
ポイントシフトしてきた。この気持ちが、歩行者のいない高速まで引きずられて
いたことになる。

忘れていた言葉のキープレフトを思い出した。
原則として、道路の左寄りを走ること。
これまでの僕の認識で走ると、中央車線(右車線)に寄り過ぎて、結果的にぶら
ぶら蛇行になるようだ。
改めるは、ボンネットの中心が左と一定距離(1m)を保っているかが、ポイント
になる。
その意義は、道路の左側を走ることで、対向車との接触を避けられ、また追い
越しや右折などがスムーズに行うことができると。

110回めの「やすい会」       1035

(2015・6・10 影:Tab)
正午の水曜会から、本郷へ。
「やすい会」100回記念では小冊子を作ったが、それからも会席を重ねて今宵
で110回目になった。
継続のたまものだが、時の流れをいっそう早く感じてきた。

この間、二年半があっという間に過ぎた気がする。もうすぐ75歳を迎えるが、
この先十年など瞬く間に過ぎていそうです。何かと多忙な時ほど早く過ぎてい
くといわれているが、僕のように年々仕事から離れていく場合はどうなのだろ
う。一日一日が長く感じられるようになってきているかと云うと、そうでもない。

今回は、内山さん久々に登場。欠席していても、毎回送られてくる写真を見て
皆の近況はわかっていると。
地域の活動に熱心な彼は、現在は環境問題を憂い、地域のなかでどんなに
小さな些細なことでも環境汚染の排除活動にとりくんでいるとの、報告あり。
年取ると次第に家(ウチ)に閉じこもりがちになるが、外のコミュニティ参加に
精力的なようです。皆から、素晴らしい!と感嘆の発声あり。

2015年6月9日火曜日

紫陽花と梅雨入り          1034

(2015・6・9朝 影:Can)
関東地方も昨年と同日の梅雨入り。
玄関口の紫陽花がツツジの若葉とコントラストよく彩ってくれている。

紫陽花が我が家の庭でこの時期咲くようになって10年になると思うが、小振
りな白と紫の花がしっとりと開いています。
今は地面で咲いているが、元は器に植え込んだガクアジサイの一種です。
花の色が年毎に微妙に変化するのは、どうしてなのかと思う。それは、土壌
に含有する成分(酸性~アルカリ性)によってであろうか、、、。
紫陽花は、「装飾花」と「真の花」と二種類あるなど、奥深い花で色の変化を
観ていると自然のなかで息づく魅力に惹かれる。

「アジサイ寺」は名月院をはじめ全国各地にいっぱいあるようです。
梅雨の陽だまりに、紫式部ゆかりの花の寺・石山寺の上り坂サイドに盛りあ
がるように咲いた紫陽花は綺麗だった!




2015年6月8日月曜日

町山智浩著『狼たちは天使の匂い』1033

書影
1962年生まれの著者が、1960年代後半から70年代の映画を語ることは、
小学低学年から中学生であった頃に観た映画と云うことになる。

それも、ギャング、殺し屋、ポリス、探偵たちが登場する「男の世界」だから
スゴイ。
1960年の安保闘争を経験して、やりきれない青春を送っている時期に、僕
はリー・マーヴィンやブロンソンやドローン登場のギャング映画を観たものだ
が、著者町山との年齢差に違和感を覚える。

その違和感を埋めてくれる文章が、8頁にわたる「まえがき」にある。
根っからの映画好きになるルーツは、彼の親父さんが映画狂でTVで、映画
館で時間を余すことなく主にアメリカ映画を観まくっていたと、、、。
その親父さんの相棒となって町山少年も、日比谷映画劇場、丸の内東宝、
丸の内松竹で、スクリーンの男優たちが繰り広げる格闘シーンに没入してい
たようだ。歳とともに、一人でアクション映画をむさぼるように観続けている。

映画の話になると、身振り手振りで納まらず演技しだす父親の姿を見てリア
ルなシーンと重なって、興奮したようだ。
家には親父さんが自分のために買ったモデルガンがあったが、後に分った
ことで本物も持っていたと、後日譚として記されている。

かくして、アメリカ映画でアメリカ文明を語れる一級の映画批評家が誕生した。

YOKOTA EKIDEN        1032

(2015・6・7 影:ケイ)
3回目の観戦になる。
一昨年は炎天下での競技、そして昨年は梅雨入り雨で走者と応援団も大変だった
が、今年は比較的走りやすい天気に恵まれた。

DP走友会の特別メンバーとしてエントリーしているハルの応援をするのが主たる
目的で駆けつけた。
ハルは昨年の意気込みとはうって変わって、風邪気味で気乗りしないまま、2キロ
走のスタート地点に立った。途中で胸が痛い思いをしながら、高学年のスピードラ
ンナーに煽られることなく完走した。

僕も仲間に入れてもらって、5キロ×4の襷レースを一度は経験してみたいと志し
ながら、坐骨神経痛発症などで今年もまた挫折してしまった。

(←ブログ:2014・6・8 「ハルの2キロ走、完走!」 665)

2015年6月7日日曜日

山荘でご馳走パーティ!      1031

(2015・6・5 影:Can)
野良仕事を終えて、北八ヶ岳1270メートルに位置する、癒しの「八峰の湯」へ。
ゆったりと湯につかった後はモリ山荘に帰り、すき焼きパーティになる。

この日のすき焼き用お肉は、行きつけの肉問屋に事前予約の一級品山古志牛を
入手。
すき焼く前に、完さんが慣例にしている相模湾で獲れた大量のさざえを手土産に
持参。自らコックになり、つぼ焼きと蒸しあわびにしてテーブルにのせる。
僕は魚貝類大好物で、むしゃぶりついて食べたが、ツバメの子がついばむような
光景になっていたと思う。

すき焼きは、関西風でネギ類とゴボウを軽く炒め肉を加え、酒、砂糖、醤油で味を
調整することで、だし汁(割りだし)を使わない手法で、食べては肉と具をつけたし
て美味しく食べきった。
見るからに大木から切り出した一枚板のどっしりしたテーブルを囲み、ステンレス
製の暖炉が穏やかな熱をログハウス全体に放熱するなかで、杯の呑み交わしも度
を増して会話は熱をおびる。

外の冷気は10度前後に下がり、林立する白樺と庭の象徴的赤松の透きとおる緑
が身体に溶け込む!

2015年6月6日土曜日

海抜1200mの援高原菜園!    1030

八千穂の白樺純林&ミツバツツジ(2015・6・5 影:ケイ)
週末のモリ山荘への訪問は、先に打ち合わせたタイムスケジュールにそって行動
できた。

甘楽PAで二組がドッキングして、直ぐのIC下仁田で下りて下仁田市街を抜けて
一路佐久に向かった。この内山峠越えの一般道が、高速で見慣れた妙義山とは
変わって、下から見上げる海底の突起物のような山浪が墨絵のようにせまってき
た。日本で見かける山のなかでは、珍しい景観といえる。

モリさん家の畑の菜園支援作業も、小集団でやりたいことをいくつか決められてお
りネット張りから、耕作や草むしりと、次第になれて手際よくなっていった。
そして休憩時間には、ワラビや蕗を採った。

無農薬野菜の育て方を研究中で、なかなか難しいが、里芋とジャガイモは天下一
品で豆類も順調に収穫できるようになったと。
当主の指導よろしく、訪問を無駄にしないように、午後からの弱半日が有意義に
過せた。

モリ菜園(2015・6・5 影:オザワ)

2015年6月4日木曜日

追悼 井尻千男さん         1029


井尻千男さんがすい臓がんで亡くなりました。享年76。

井尻さんが「日本経済新聞」の文化部時代に、僕は未来社にあって書評の依頼
にデスクまで行き何度も面対して話したことがある。
この時代は、顔見知りになれば受付を通らないで、資料や本が積み上げられた
机に近寄れば、阿吽の呼吸で椅子を用意してもらえたものです。

当時から40年以上経過しているわけで、新聞社と出版社のつき合いが牧歌的
だった蜜月はとっくに終わっている。
彼の文化部時代は記者駆け出しの頃と思うが、その後、編集委員にもなってい
る。
日本経済新聞を退職してから大学教授になり、保守の論客になっているのに気
づいたのは、後のことである。
日本経済新聞連載のコラム「活字のうちそと」の書籍化本がある。
話題本を通して、現代日本の危機的状況を憂う読書論だが、受け入れられない
視点も見えてくる。
30代前半で語り合った時の、鋭い視線が忘れられない。
ご冥福を祈ります。





2015年6月3日水曜日

立川駅の「おでんそば」       1028

立川駅ホームの「奥多摩そば」(2015・6・3 影:Tab)
今日正午からの水曜会に出られなかったので、帰宅途中に立川駅ホームにある
「奥多摩そば」の「おでんそば」で空腹を満たした。

JR立川駅は改札口を出ないで、青梅・五日市線や南武線や八高線に乗り換えら
れるので、駅構内の食べ物処の利用が根付いている。
そのなかの名物が「奥多摩そば」の「おでんそば」であることは、知る人ぞ知るとこ
ろです。この立ち食いの暖簾は、55年以前から続いているはずです。
学生の頃、都心から中央線に乗り立川駅で青梅線に乗り換えて、終点の氷川駅
(現、奥多摩駅)で降りて、川苔山や雲取山へ登山したことがある。
そんなことから当時、乗り継いだ立川駅のプラットホームを想い出す。

冬場は、おでん鍋でよく滲みこませた特大の草履のような薩摩揚げを、かけそば
にトッピングすると味わい深い一品になる!
おでんには練り辛子が付物ですが、この場合、かけそばの汁に辛子が溶け込ん
でもベリーグゥなのである。



2015年6月2日火曜日

新しいまち創造されているのか、、1027

2011・3・11/菩提寺江岸寺
イオキベさんが、三陸復興について実際に三陸海岸被災地を訪ね、新しいまち
づくりが間違いなくスタートしている、とレポートしている。

一概に三陸海岸と云っても陸奥、陸中、陸前とあり、被災地の復興状況には差
がありすぎる。
岩手県に限ってみると、大槌町や山田町、陸前高田市のようにまちが全面的に
震災津波にのみ込まれて庁舎ビルすら沈んで、その場所での再興はできなくて、
全く新しいまちの創造過程にある。

津波の侵入が市の一部に留まり、多くのビルが残っていて庁舎も存続し、まちを
生かしながら復興に挑んでいる宮古、釜石、大船渡市もある。

第三の類型にあたる、これまでの明治と昭和の三陸津波の補強と3・11津波の
経験を速やかに生かし復興に邁進している久慈市、野田村、田野畑村は、全般
的にスムーズであると。

さて大槌町の歩みは、壊滅したまちの跡地の嵩上げが急ピッチで進んでいる様
子がわかる。土砂を運ぶダンプカーが土ぼこりを朦々と上げて行き交うのが見え
る。
問題は避難所から仮設住宅に移行している人たちが、未だ圧倒的多数を占めて
おり、永住居と生活の息吹が感じられないのが気になります。
未来に向けて、未だ見ぬ本当に安全なまちが三陸海岸に出現を願うばかりです。
2015・4・23

(←ブログ2015・5・15 「復興予算一部被災地自治体の負担に」 1009)

2015年6月1日月曜日

鮎の日                 1026


川と海の水を見るとちょっと浸ってみたくなる質です。
僕は岡山県吉井川の源流と瀬戸内育ちです。
今の住まい近くは、多摩川ですしね、、、。

子どもの頃、家の前が吉井川で、6月1日が鮎の解禁日だったように思う。
その日は早朝から、両岸に釣り人が一斉に友釣りの棹を振るのを眺めた。
東京からは、「国立中野療養所」医長だったナカイの伯父さんが帰郷して、皆と
鮎釣りを楽しむのが恒例になっていた。
父は、鮎の内臓を丁寧に取りだし、塩を利かせた「うるか」(潤香塩辛)造りが得
意で、この世で最高の珍味のごとく薀蓄をたれていたのを覚えている。

鮎にまつわる想い出は、たくさんあります。
高校生のときは、岐阜商業高校での弁論大会前夜祭で、長良川のウミウをつか
った漁法で鵜飼を見学した経験がある。
また、富士川支流や荒川寄居で「友釣り」におともさせて貰ったこともある。
そして、寄居の鮎料理割烹「京亭」に、夏の終わりから秋口に誘ってくれる人が
いた。京亭では、新潟、佐渡あたりからも釣り師と契約した天然鮎を確保して、
フルコースで出される香魚は最高だった! 
自家製瓶詰めの「うるか」を手土産にした。