2014年3月31日月曜日

青梅梅岩寺と金剛寺の枝垂桜。        596


梅岩寺の枝垂れ(2014・31影ca)

今年も桜が見られた! 青梅の梅岩寺と金剛寺の枝垂桜を見続けて三十余年なる
か、、、。 それぞれ樹齢数百年に達している。

満開日が毎年一週間幅でずれる。豪雪に見舞われた今年のこと、今日はちょっと
早いかなと予測しながら梅岩寺境内に立った。三分咲き程度のピンクに染りかか
った花びらが可憐に見えた。訪ねる人も少なく、暫し静かに見上げ、昨年の満開と
は一味違う風情を満喫することができた。

麓から少し下ったところに在る、兄弟寺の真言宗金剛寺の枝垂れを見に回遊する。
梅岩寺の桜が山すそに沿って野生的に空を射るように咲き誇っているなら、金剛
寺の桜は、古木の主たる幹が台風で折れたこともあって、痛々しくも花びらの色が
濃いく女性的である。山門をフレームにして眺める枝垂れは艶かしい。

両寺とも真言宗の由緒在る古いお寺です。わが田舎の菩提寺も高野山真言宗な
ので、境内に芽吹く草木の色とりどりが懐かしい。だから、毎年この時期に欠かさ
ず出かけて、変わらない自然の息遣いを感じているように思える。
幼少の頃の花見といえば、鶴山(津山城)。1000本余の桜が城址公園を桜色に染
め上げた並木にたつ屋台めぐりが、待ち遠しく楽しみだった。
さらに、樹齢千年の歴史の謂われある「醍醐桜」が、縁戚のある美作落合に咲く!

2014年3月30日日曜日

オーストラリア・ケアンズ/記憶の断層20   595

ケアンズ駅&ヒルトンホテル

40周年を記念して、Gyoがケアンズ往復航空券(エグゼブティブクラス)をプレゼ
ントしてくれた。
2005年、オーストラリアの世界一バリアリーフでのスキューバーダイビング旅行
記である。

カンタス機で発つ!
四季の移り変わりが日本と正反対で、真冬の1月に成田を発って翌朝降り立った
ケアンズ空港は真夏の陽気だった。
成田で、コート、冬物から夏物支度に替えて預ける。
手荷物のナップザックは、何でも入れられて大変便利を実感する。
Yu、空港の書店で文庫を数冊買い込む。

一週間滞在の宿は、ケアンズ・ヒルトンホテル(9階の908)。
海に面して街の中心にも近い、快適なホテルだった。

2014年3月29日土曜日

いよいよ、球春来たる!           594


タイガースの快幕は今日のG倒から。
昨日のような歓声から悲鳴に、そして痛恨、、にならないよう虎を信じるしかない!

Gとの開幕戦前日に会った阪神ファンの長田Nくんが、「今年の阪神どうかな?」と、
顔を見るなり弱気な談合を仕掛けてきた。返事は、固定できない4番打者とスタンリ
ッヂ放出のマイナス要素をグチる始末でした。
今年のタイガースを冷静に戦力分析すると、オーダーに若虎の出現が見られないの
が残念。レギュラーを奪取したのは大和ぐらいか。
育っていないかといえばソウでもない。ファンの勝手な願いかもしれないが、近将来
4番候補になる選手を早く見たいのだが、ここ一番の壁が越えられない。そうしたじ
れったい選手に森田や隼太がいる。
投手については、二年目の藤浪が期待通りエース級に成長が期待できる。タイプは
違うが、往年の江夏豊投手にかわるような大投手になってほしい。他に期待して見
ている投手で、育成枠投手伊藤がいるが、なぜ登録しないのかと勝手に詮索してい
る。今年の新人では、捕手の梅野がいい。田淵以来の、10年は任せられる司令塔
になって欲しい。
かつての掛布選手のように、チャンスを一気にモノにするヒーローを待ち望んでいる。
今シーズンは待望久しかった掛布が打撃指導者で戻ってきてくれた。明るく巧みな
褒め殺しサポートで育成され、飛躍する選手を待つばかりです。

先取点とって、取られて同点から逆転され、再逆転する手汗にぎる4時間20分でした。
5対3で勝利/メッセンジャー&大和。やっと祝杯!

2014年3月28日金曜日

金榮堂と云う凄い書店があった!       593 


北九州市小倉に「金榮堂」と云う1960、70年代に一世を風靡した書店があった。
その書店の主人は、柴田良平と言い、出版版元に名が知れていた。
僕が出版界に入った当初の未来社社長・西谷能雄と柴田さんは、或るきっかけで
懇意になり、書簡のやり取りなどを知っている。
僕が最初に小倉の店で会ったのは、1967年に社の根幹に係わる「委託制」から
「注文制」に舵をとるときだったと記憶している。

この書店の名物は、店主直筆の書評が店頭の壁、ウインドーに所狭しと掲示され
ていたことです。目利きの書店ということになるのでしょうか、その目利きのイチオ
シの本との出会いを楽しみにする読書ファンは惹き付けられる!
店主は亡くなり、残念ながら書店もない。

本題は、先日に会ったカマさんからの要請のことです。良平氏の関連資料(金榮堂
主催の講師・吉本隆明の講演会案内、金榮堂65年を祝う会、良平氏のカマさん宛
礼状)から、吉本氏と良平氏の往復書簡を推理するものです。
それが今可能なのは、友人であるリョウイチくんなのですが、しばらく音信が途絶え
ている。ところが、友人の友人はそのまた友人の関係から連絡が取れることになっ
た。早速、準備した。

2014年3月27日木曜日

XPのパソコンどうなるんだ!        592


前々から気になっていたのだが、使用中パソコンXPのサポートが4月9日で終了
するとの情報が頻繁に流れるようになって、不安になっている。

そろそろ、買い替えを検討する時期にきていると思いながら、CDやUSVへのバッ
クアップや新機種へデータの移行などのことを考えると、いまだに操作を不得意と
しているのでで躊躇している。
パソコンは他の家電製品と違い、古くなったから、壊れたから買い換えると云うわ
けにいかない。
保存している書類やピクチャー、アドレス帳やメール、ブログなど消失してしまう不
安がつきまとう。
今日、急に不安にかられて、フォローアーSmさんに相談したところ、即座に対応し
てくれた。いつものことながらありがたい事です。

新しいパソコン買い替えについては、今の時代にあった使い方ができて、僕の歳と
運用レヴェルに合ったモノを提案してもらえそうだ。前に、「タッチパネル画面でタブ
レットのように使えるタイプもあるが、マウス慣れしているのが難かな?」と言っても
らった経緯がある。ブログの提案はSmさんからだったし、これも未だ続けようと意
を決しているところなので、どうせなら便利で快適なメカがいいと思っている。

2014年3月26日水曜日

雑誌、ニューメデイア商品について。     591


雑誌と書籍を合わせた性格のジャンルにMOOK(ムック)があるが、何時ごろ出現
してきたのだろう。
出版取次での扱いは、どちらの部門にも属しているが、原則的に単独口座がある
わけでない。普通の雑誌と異なり、書籍としてISBNコードが付されるし、同時に雑
誌コードも付されることもある。今では圧倒的にMOOK誌という雑誌が多いのだが。

かつて、わが出版社が書籍の刊行だけしていた時に、ムックの特性を生かす企画
ラインが浮上して、雑誌(ムック含む)扱いの取引口座を取得するのに、大変苦労
し、半年を要したことがあります。
ムックの月刊行点数は、200冊前後の時代から、3、4倍に膨れ上がっている。
一タイトルごとの実売部数が縮小しているのが現実で、定期刊雑誌からムック誌
口座の取得には至難の業を要する。(会でのレクチャー)

水曜会の後、帰りに余裕ができたので応援しているニューM出版版元の友人と、
今年初めて懇談。
刊行したばかりの新刊、クイーンズウェイの『インソールリフレ&~』を前にして、商
品作りのアイディアと流通施策に聞き入る。他に、今年の新刊は「燻製」実用本。
売行きは、「相当いけると期待していたので、、、売れてはいます」と。話中に電話
注文が入っていた。書店営業を結構積極的に展開している様子がうかがえた。

2014年3月25日火曜日

新書y『「心の専門家」はいらない』を読んでいた!590



中央線の僕が座った車中の対面の席で、若者が洋泉社の新書『「心の専門家」は
いらない』(小沢牧子著)を読んでいた。
10余年前の新書だが、菊池信義さんのシンプルな装丁が目立つ。めったにある事
でないが、洋泉社の読者を見かけたときは、やはり嬉しい。

書店、生き残り特集で、売れ筋本をデータで徹底追及か、「目利き」の仕掛けに頼る
のか、ビジネスモデルに変化が現われているように思う。
週に一度は、三省堂書店と日の出未来屋書店、TUTAYAに立ち寄るが、後者の郊
外型二書店を「売れる本ばかり、金太郎飴と同じで本と出合う楽しみがない」とは、
今や言えないのではないか。



久々に会った人、訪ねたところ。       589


一年越しになるか、ヒスイさんと御茶ノ水「穂高」で会った。
あい変らずファショナブルないでたちで登場だが、大病もして少し華奢なからだ
になった感じ。
会うなり、一気に時間の空白を埋めるお喋りが続いた。治療経過から、英会話、
映画、身辺雑記まで。
手持ちの、編集会議用「でん八」の写真を見せたところ、40年前後の頃を懐か
しく思っている風だった!
体調がままならないようだったが、次回までに「寿司をつまんで少し飲めるぐら
いになって欲しい」と言ってわかれた。

穂高の対面ビルの日販で、偶然Heさんに会う。
名古屋からかえり、今特販で活躍のようだが、その間他部署に居たこともあっ
たので随分しばらくぶりということになる。彼には書籍仕入のときにいろいろな
サポートをいただいた。次第に知った人が少なくなるなかで、話が弾むのはう
れしいことです。

新宿で編集会議の後、誘われるまま珍しくゴールデン街にオサダくん、節ちゃ
んと流れました。10年ほど前ならハシゴは普通のことだったが、今では心身と
もに厳しい。しかし、知った店に入ると、店内の懐かしさとまだ馴染客が居たり
して元気をもらった。
昔、ゴールデン街を通るとよく寄った「タルタル」は違う名前のバーに変わって
いた。タルタルは銀行員から脱サラしたママさんがやっていたバーで、出口Yご
贔屓の店だった。


2014年3月23日日曜日

究極の山芋とろろ飯!            588


先の、季節の変わり目の山菜にまつわる記憶を巡る追記。
正月の羽根つき歌として耳に残っているもので

「イチジク にんじん 山椒に しいたけ
ごぼうに むかご 七草 山芋
こんにゃく とうふ
十でとんとかわりましょう」
の口承があります。

子どもの頃のわが家では、年に数回、麦飯交じりの「とろろ汁」がちゃぶ台に並
んだ。
このメニューの時は、ご飯とたくあんだけで他に何もおかずがなくてもいい。素焼
きの茶碗に半分ぐらいご飯をよそい、その上にたっぷりととろろ汁をかける。箸で
軽くかき混ぜてとろみを出し、啜りこむように食べる。美味しくて限りなくおかわり
したくなる。僕の究極の食事です。
父が山から掘ってきた山芋(ヤマノイモ、自然薯とも)の土を亀の甲たわしで洗
い落として、山椒のすりこぎで、鰹と乾燥しいたけのだし汁をたらーりたらりと加
えて擂りこむ。僕はすり鉢を固定するよううに必死に手でもっているだけ。

さて、この美味しさをわが家の皆に伝承したいとおもい、ドライヴがてら秩父の山
に自然薯を友人を頼って掘りに行ったことがあるが、土質が違うのかどうもピタリ
とこない。
息子たちは特別美味しいとおもわないし、ハルにいたっては泥臭いと言っておか
わりしてくれなかった。

ところが、倉敷の弟が自生の自然薯を送ってきた。丁寧に畚で包装された包み
のなかから八手の形状をした山芋が出てきた。
彼等の来訪のとき、腕が重くなるまでしっかり擂って食卓に出そう。
Gyoたちやハルへ、綿々とつながるご馳走となって欲しいのだが。

2014年3月22日土曜日

彼岸明け。                 587



春一番が吹き荒れて、今日はぽかぽか陽気の彼岸日和。多摩川対岸のお墓参
りの途中の土手に、隠れていた土筆やふきのとうやゼンマイが顔を出しはじめる
季節がやってきた。
これらを天ぷらで盛りつけると、ぷ~んと爽やかな香りに出合える。季節の変わり
目に、何か体の心から目覚めさせてくれる自然の力に感じれる。

子どもの頃、田舎の吉井川に流れ込むあぜ道にふきのとうやヨモギを採りに行か
されていた。
この歳にして、祖母が季節の大地からから与えられた食べ物を通じて、春夏秋冬
の移ろう季節感を身につけさせてくれたように思う。
自分で家庭菜園をしているわけではないが、山や川にドライヴで遊んだときには、
季節に応じた旬の山菜を採ったり、地場で買ってくるのが楽しみの一つになってい
る。
店頭に並ぶ賞味期限が表示された食品に左右されて、旬なものを忘れるような食
生活だけはしたくない。

2014年3月21日金曜日

西国分寺ホームにショットバー!        586

2014・3・20影

シライさんと帰途中、梯子酒三店目の店は、西国分寺ホームのスタンドバーだっ
た。驚きました! 「もう一軒いいだろうと」と誘われて立ち寄ったのが、アメリカン
西部劇で見かけるカウンター・ショットバーだった。

カン酎ハイと乾き物をパレットに載せて飲み始める。
注文の選択、先勘定、席取りがシンプルで簡単。カーボーイハットの店員とエプ
ロン姿の女性の掛け声が爽やかでカッコいいのである。彼は既に常連になってい
る風で気軽に声を掛け合っていた。
最初は、目の前を行きかう中央線の電車とアナウンスが気になるが、次第にピッ
チは上がり、5杯ぐら追加飲みしている始末だった。

世の中の移り変わりを実感する。数十年前の国鉄合理化反対闘争などを見てき
た僕としては、ここまで鉄道ビジネスが突き進んできているのかと、唖然とした。
Gyo曰く、JR都心の一等地の有効利用で利益を創出して、東日本JR内の厳しい
被災地などの赤字路線を補填しているんだよと。

東武東上線みずほ台駅            585


通夜で、みずほ台駅に30余年ぶりに降りた。
駅前のロータリーと軽食やを見たとき、棚卸しで未来社の倉庫へ出ばったときの
下車駅だったことを思い出しました。デジャヴでした!

今夕降り立ったのは、山下Tさんのご母堂が99歳で逝去され、通夜に列席する
ためです。しののめの里にて。
以前から、調子を崩されている様子は伺っていたが、長寿全うの大往生と言え
るでしょう。
山下さんには一昨年、僕の激励会で世話人代表になってもらったり、水曜会で
一緒だったり、最近、付き合いが頻繁になっています。それに我親友の門倉くん
と東大出版会で同期編集者であったことなども交流の接点になっています。
この度の訃報に際しては、彼自身、日本書籍協会専務理事などの公的要職を
離れたことで、家族葬に近い葬儀にしていたところ、シライさんからの知らされで
列席するこになりました。
そうしたなかで、東大出版会、ダイヤモンド社、東洋経済、日経他の長老、セキ
さん、クロキさん等が参列しており、皆と故人を偲ばせて頂きました。

2014年3月19日水曜日

今年初の「やすい会」            584


今年初めての「やすい会」が本郷の老舗天麩羅やさんでありました。
花粉アレルギーに超敏感なオカさんは欠席。前回、前々回欠席の重さんは、体調
不良で元気な姿見られず。
今回、会のスタートを30分早やめたが、昼食会にしようとの案も出ている。

先の会から3ヶ月経っているが、日々の流れの早さを感じる。しかしその間に各人
其々の出来事があるものだ。
ヤスイさんからは、大雪にまつわる話。雪災害でゴルフ場の使用不可が17日間に
及んだこと、カートも全滅だったとか。他に、80歳にして、初めて寒さに対する身の
労わりを自覚して、習慣化してきた歩行を休んだことなどの報告があった。

Stさんからは、帯状疱疹に2ヶ月余悩まされ、初めて長期の酒断ちを敢行せざるを
得なかった。やっと回復して、酒を飲み始めていると。また、書道の方はちょとした
スランプに陥っている心情を吐露していた。

他の人から同じく悩める病気の話が続く。
瀧さんから、肩首に痛みと痺れを感じて病院にいったところ、MRI検査の結果、脳
梗塞(左半分前頭部3箇所)と診断され、即入院となった。ところが、彼の仔細さと
大胆さのなせる業か、途中病院を抜け出して宴席に出たりしていたらしい。皆から
エッの声! 年柄、メデカルチックは定期的にすると言っているが、注意して欲しい。
さらにHkさんからは、リンパ癌で検査に入っているとの報告があったが、病気持ち
でないのが不思議がられるほど、忍び寄る歳相応に危険な領域が待ち受けている
ように感じられます。

十十さんから、トーハンで大変お世話になった遠山さんが郷里信州に帰っている情
報をもらった。定年退職の時、お礼の挨拶するでもなく今日に至っていることが気
がかりになっていました。礼状一筆。

フクちゃんからは、今の法人理事長の要請を断り、いよいよ自由気ままに海外旅
行とか。羨ましい!

シミズさんは、中国留学生との交流も、険悪な日中関係を反映して中国側のチェッ
クが厳しい様子を語る中国情報多々。

シマちゃんは、1970年からの出版業界を一先ず引退すると。そして、慰労&激励
会を4月に、ギターソロのイヴェントとして、横井呼びかけで開催とか。

修ちゃんから、前回も出たところの社の行末について中間報告あり。模索のなか
から少しでも良い結論が出ることを願うばかり。

僕は、先に鎌さんと話した、吉本さんと柴田さんのミステリアスな書簡の経緯と、彼
自身次の一泊旅行の「やすい会」には参加するとの言づけを伝える。

カズさん+ウチヤマさんから、次回の一泊旅行会の準備案が出る。
鵜の崎、天心六角堂へ。東日本大震災から復興なった「天心六角堂」などを6月に
訪ねる計画を皆了承。
6本の持ち込み日本酒、焼酎が空になったところでお開きとなる。

2014年3月18日火曜日

マグロ節とめざしと、そしてカマさんと。   583


東京に春一番吹き荒れる!

夜の「やすい会」の前に、出版界の長老で50年来交流のあるカマさんと懇談。
彼と会うと昼間から必ず一献とあいなるのは慣例になっている。
3ヶ月に一度築地市場で酒のつまみ用乾物を買い出しに出てくるとかで、おもむ
ろにリュックを開けて差し出されたマグロ節と真正目刺しを手みやげに頂戴した。
僕の大好物の逸品なので喜んでいただいた。

老舗の神保町の蕎麦屋で、ビールから始まって日本酒に移り、銚子5本が並ぶ。
話とともに酒はグイグイすすんだ。
奥さんから、夜の会合は禁止、一泊ならいいとか、、、厳しい不文律があって、し
っかり遵守されているようだ。

彼と会った際、必ず話題に介在するのが古い書き物や手紙、葉書、案内書など
です。
今日の話題は、これから晶文社から刊行される「吉本隆明全集」の書簡にかか
わることについてです。
今はなき小倉金榮堂の社主・柴田良平さんが、自店主催の「吉本隆明講演会」
について発した当時の回状を、カマさんが所持していて、良平さんと吉本さんと
の往復書簡が残っているとのことであった。(良平さんからカマさん宛ての礼状
から)。
記憶が定かでないが、高岡武志ら5人の連名のなかに、僕の名前(未来社)も
見られ、おぼろげながら当時の背景を呼び覚まされると云った具合です。

こうした古いコトの細部にこだわるのは、カマさんが得意するところですが、この
度の編集スタッフがどこまで断簡零墨までおさえられるか、慮っての探りなのか
と感じました。
この書簡についたは、良平さんのご子息・良一君に確認が取れば解決すること
なのですが、残念ながらここ数年交流が途絶えておる状況です。
この課題は、継続とする。



2014年3月17日月曜日

大槌町と消防隊員のこと。           582

(大阪市消防局提供)
今日のGoogleヘッドの写真が上記の掲載だった。
見て一瞬、赤い貨物列車かと思ったら、大槌町の一段高い所の三陸沿岸道を長
蛇で救援に向かう大阪府の救助隊の消防車の車列だった!
意思表示をする際の手に手をつなぐ人間鎖があるが、この写真は被災地救援を
象徴する絆にみえ、三年後の今も色あせることはない。

3・11では、多くの消防隊員が救援活動の途上で津波にさらわれて亡くなってい
る方、行方不明者がでているが、あわせて大槌消防署は水没してしまった。
さらに追い討ちをかけるように、火災が発生し、江岸寺などお寺の背後の山林に
まで延焼し続けた。
陸の廃墟の孤島となっていたところに、大阪府の消防車約100台と消防隊員約
400人を擁する派遣部隊が一千キロを越える陸路を走破して駆けつけたことを
知りました。その後の一斉捜索は、亡くした同じ消防士仲間を思い任務を代わり
遂行する姿だったという。

僕が大槌町に数度行くなかで宿泊してきたところは、一年目は釜石のホテルに、
二年目は大槌町波板地区の民宿にお世話になった。
ところが、その宿の主人の息子・消防士はロープ伝いに人命救助中、津波にさら
われ亡くしていた。民宿の庭から浪板海岸の松林の向こうに広がる片瀬波の美
しい海を眺めながら息子さんと対話する日々がつづいている。

上記の写真を題材に絵が描かれ、釜石・大槌消防新庁舎の正面玄関に飾られる
ことになったとの報道です。

2014年3月16日日曜日

スクーバダイビングについて。      581

ケアンズ・ノーマンベイ島

16日に、インドネシア、ジャワ島東部の沖合でダイビングスーツを着たダイバー
発見されたとの、確認情報が入っているが、、、。

一ヶ月前の海難事故で漂流した7人のうち5人は救助され1人の死亡が判って
いたが、最後に残った一人のインストラクターの女性ではないかと思われる。
最近、潜水していないが、僕もスキューバーダイビングを趣味としている手前、
一ヶ月前のバリ島沖のダイビング事故は気にかかっていた。

海難事故直後のニュースが飛び込んできたとき、何故、ダイバーの全員が行方
不明なのだろうと思った。急に海が荒れ、潮流も早いスポットだったと云う事故
原因が流されていたが、浮上者が1人もいない神隠し状態が腑に落ちなかった。
船で沖に出て船上からのダイブである以上、船は海上に停泊か、ダイビング位
を知らせる浮き輪にそって移動するのがルールだが、後で判明したことでは、
シケがくなって、船長はその場所から離れたとの証言を引き出している。
トンでもない行動で怒りを禁じえなかった。

ほかの遭難原因として過ぎったのは、ぼくも経験があるがグロットに入り潮流の
逆流など、何らかの障害で海底洞窟に閉じ込められてパニックに陥ったのでは、
とかとか想像して絶望的になっていました。
数日後、奇跡的に5人のダイバーの生存が報道されたときは、凄く感動しました。
レジャーの遊びで事故を起すなんて、自己責任だ!と醒めた眼差しを向ける人も
いました。僕は一寸違って、昼夜を越えた長い漂流から生還できたのは、一人の
ベテラン、インストラクターの冷静な対処によって、他のダイバーがパニック症候
群にならずにすんだからだと思っています。

あの、レニ・リーフェンシュタールは100歳までスクーバダイバーでもあった!







2014年3月15日土曜日

秋山順子 遺稿集          580

冊子書影(2014・3・15影)

未來社時代の同僚だった秋山順子さんの遺稿集を、影書房松本昌次さんから恵贈
いただいた。秋山さんとは、同期入社で18年間の長きに渡り一緒の職場でした。

付されている略歴で初めて知ったが、東京都立川生まれの、三歳年上のお姉さんだ
ったことなどです。当時、比較的親しくさせてもらっていたにもかかわらす、ぼく自身、
出自にあまり関心がなかったことがわかる。
(←ブログ2013・5・25記「秋山順子さんを悼む」)

彼女は1970年半ばに腎臓病になり、以来づっと人工透析をする生活でした。
1980年半ば頃から、お互い職場が違ったり、96年からは郷里秋田県大曲で療養
生活になり、その様子を年賀で知る具合でした。ところが、昨年初頭に自身の翻訳
書を恵贈くださったり、僕の「私記」に一筆添え書きをもらったりしている矢先の訃報
でした。(←ブログ2023・4・5記「J秋山さんから翻訳書が届く」)

手にした「遺稿集」の巻頭、松本さんの解題から頁を捲るごとに、秋山さんの十代の
中学、高校時代の詩、俳句、短歌の豊な創作力に驚き、大曲での療養のかたわら
翻訳に取り組み、二冊の訳書を影書房から出版されていることを最近知ってこれま
た驚きました。
この遺稿集は、秋山さんが所属していた「戦後文学を読む会」を主宰する鈴木伸男
さんが発行した冊子ですが、一人の女性の生涯を一気読みさせられ感動しました。
今としては早い死だが、長きの闘病生活を思うと、秋山さんは人生を全うしたと思う。

2014年3月14日金曜日

信州・美麻村から「でん八」学校へ。     579  

『新宿・でん八物語』(仮題)編集委員・竹村Yさんの寄稿から──36



 「でん八」に入学したのは忘れもしない信州山奥の美麻村から上京して間もな
い春先です。入学式の日のことはよく覚えているよ。田舎から一気に東京の喧騒
のなかに投げ込まれて、何もかもが刺激的で高揚した気分だった。
この時代に初めて「でん八」の店主・マツオ兄弟に会った。創業から半年ほど経っ
た頃です。

 池袋雑司が谷に住み始めたばかりで、何故だか新宿に惹かれて明治通りのト
ロリーバスに乗って往復していた。とある情報から、三越裏路地にあった「でん八」
に行ったのがきっかけです。新宿に出ては、映画館やジャズ喫茶に入り浸ってい
た時、ちょっと一杯と食事のつもりで立ち寄ったのが「でん八」だった。
カウンターには様々な人種が集まっていたが、アニキ、アキちゃん兄弟は優しく接
してくれました。
 
 それから「そのに」が新規オープンする頃には、日常生活に馴染んできて、朝方
白けるまで飲み、そのまま会社に行くこともあったよ。「でん八」通いに慣れてくる
と、サンコウチョウ交差点の所にあった「どじょうや」にハシゴするようになり、初め
て強い泡盛の古酒を日本酒を飲む勢い呑み、ダウンしたこともあった。
また、その近くにあった飲んで踊れる深夜スナック「コメディアン」にも通い、アニキ
とも行ったことがある。とにかく「でん八」で、宵の口からおでんを夕食か、つまみ代
わりにしこたま飲んで、次の店が中継ぎ、仕上げのローテーションと云う具合であ
った。
 そのなかで色んな人間模様を見てきた。歌手仲間の色恋沙汰、麻雀・将棋の賭
けごと、編集取材やカメラマン現場の裏話、本の流通・返品をめぐって…それぞれ
に得意分野の人が溢れていたナー。田舎出の小僧の成長過程は、「でん八」に有
り、と言って過言でない。

 「でん八」が発展し、「そのに」、歌舞伎町「その三」ができて、常連の一部はそれ
ぞれ好みで行き先も違ってきたように思う。
今は亡きアニキが最後に居た「その三」には、40余年来のお馴染みさんから、新
世代の学者、芸能人、マスコミ関係者、学生などが「常連」になって行くのにいささ
か驚きもした。だが、新旧の常連に微妙なバランスで接するアニキに敬服するばか
りだった。

 実は私は、ここ数年大病を患い入退院をくり返し、今自宅療養の身です。以前は
週末になると「その三」のカウンター奥を指定席に座していた。
 未だ、ここ一番奮起して、卒業証書をもらうまで通わなければならない!?
                                  竹村Y(前・河出興産)

柳君のその後、、、。            578


午前中、日販により夕方のハルのイヴェントまで余裕ができたので、急遽、Yaを
見舞う。

病室に入ると僕を目線で追う。
持参の応援用メガホンを耳元に当てて、「元気かー」と声をかける。発生は弱々
しいが、「まあーまあ」の返事。さらに、「口から水分ぐらい取れているかな~」と
の問いかけには、首を弱く振った。
毎回の持参は雑誌、「週刊文春」だけなのだが、3・11東日本大震災三年目の
追悼グラビア、「朝日」批判の慰安婦問題、伊佐河内後始末、北朝鮮処刑後の
動向記事を見開き頁ごとにめくると、相づちを打ちながら指でなぞっていた。眼
鏡を渡すと自分でかける!
この様子を見ながら、メガホン越しに、「頭、目、指、耳大丈夫だよ!」と激励す
ると微笑んだが、、、。

帰り際、担当看護士に経緯と現況を聞く。状態は横ばい。詳しくは奥さんに聞い
て欲しいと言うばかりで展望ある施療については出てこない。点滴で栄養分を少
しは補給しているとのことだったが、あくまで奥さんにと。
また、直ぐ寄るからとの握手には、OKサインで応答してくれた。

そして今日、ワタナベさんからのメールで、Yaの住いに近い病院への転院が決
まった知らせがありました。情報の少ないなか、べターな病院を探していました
が、八方塞になりかかったところでワンステップが踏み出されて良かったと思い
ます。

2014年3月12日水曜日

始めに防潮堤ありき?            577


この間の大槌町の復興進捗状況にかんする報道を見ている限り、嵩上げ、高台、
防潮堤構築の復興計画のなかでも、14・5メートルの防潮堤がまっ先に進められ
ているように見えて仕方ない。それを前提に町づくりの設計がなされていることに
町民は、3年の歳月を経るなかで色んなリスクに気づかされているようだ。

僕も大槌湾に浮かぶ蓬莱島を眺めながら、今ここに14・5メートル防潮提がそそ
り立ったら、海を生業にし、歴史ある城下町だった大槌町は消えるのでは、と思う。
今、河口にあるある水門の高さ、ビルの5階に相当する巨大な防潮堤ができたら
どこから海を見ることができるのだろう。
見直しは復興事業を大幅に遅らせ、さらに財政負担を背負うことになると言う。復
興予算事業というが、予算を確保したら走り続ける公共事業と何ら変わらないで
はないか。復興短期予算は、大きい事業計画をまず策定してできるだけ多く、国
(岩手県・盛岡)から予算を確保して、消化していくシステムになっているようで、悲
観的にならざるを得ない。
どう考えても、被災者、生活者、そこに住む人を中心にして回っているのではなくて
大きいプロジェクトに金が流れる構造になっている。見直しは難しいのか、、、。
公共事業のお金にまつわる隘路が、復興予算にもあるのかと思うと居た堪れない。

大津波から守る巨大防潮提を造っても、おそらくこの先長い歳月を思うとうまくいか
ないのではないか。遡って大槌には長い歳月を経て引き継いできた歴史の伝統が
脈々としてある。何もなくなった荒野からの新しい蘇生力は、14・5メートルの防潮
提ではないように思う。
大槌町から届く知らせによると、一方で教育・文化活動の面からもいち早く、小中
一貫教育に舵を切っているし、「ふるさと科」を科目取り入れて実践されてきている。



2014年3月11日火曜日

ハルへの言づけ。              576



ハルは、3年前の3月12日に青森新幹線開通で、青森に旅することになってい
ました。
ところが、その前日に東京で3・11東日本大震災に遭遇。
ハルの誕生日前日に震撼させられた地震に、家族の皆はどう処したかと云うこ
とについてです。

僕の当日の行動については、何度か視点を変えてブログにも記してきました。
歴史的境界線となる14時46分に僕は、飯田橋駅近くの珈琲館で創業したばか
りの出版社の社長を激励していました。2時46分その時、外の道路は、交って
いた車の動きが一斉に止まり信号は赤になったままに。

同じその時、Gyoは社員に帰宅指示を出して、自分も4時頃にはハルの安否を
気遣い社の在る築地を飛び出して、マラソンで保育園(世田谷)に向かっていま
した。
僕も早々と3時20分過ぎの第二波地震の後、ハルを救出することが第一義的
に頭に過ぎり飯田橋駅改札に向かいましたが、既に交通は完全ストップでした。
飯田橋から線路沿いに新宿へ歩き始め、新宿ビックリガードに辿り着いたとき
の駅周辺は朝のラッシュ時の2・5倍の混雑(電話ボックスに5、6人詰め込まれ
た状態)、さらに電話ボックスは長蛇の列でした。
ケイタイSMに自宅のYuから、凄い揺れに怯えて掘りコタツの中に咄嗟に潜り
込んだと、、、。(自宅には翌日、帰ることができました。)
その後、数日間は大槌の御祖母ちゃん、義母の安否を探し出すのに自宅待機
状態でした。

青梅街道を歩け歩けで一番早くハルに会えるとの思いで7時間かけて到着した
ところが、一足先にGyoは彼を自宅に連れ帰っていた。
駆け続けた親は強かった!
明日の誕生日をひかえて、毎年めぐり来る今日の3・11のことを、ハルの成長
に合わせて、一言伝言していこうと思っています。
震災を考え続ける覚悟があるかないかが、被災当事者でない僕が共有できる
コトではなかろうかとの心境です。

3・11東日本大震災から三年!        575

菩提寺から雪の大槌・湾を眺望/左に新しい嵩上げが見える(2014・2・18)
今、14時46分です。

2011年から年を刻んだ一年目は、二階のベランダから東北の空を見上げながら
手を合わせた。
二年目は、同時刻、大地震に遭遇した際に居た飯田橋の珈琲館に行き、一人3・
11大津波で被災した大槌町の復興と親族のその後を想って過した。
そして今年は、何人かの電話とメールで「大槌の風」を見てくれている人、気持ちで
協賛してくれている人のいることをリアルに実感しています。
この一年、実質的な支援活動はほとんどできなかったが、震災は今も続いているこ
とを被災当事者ではなく、外部で共有できることを知ることができて心強く思ってい
ます。

2014年3月9日日曜日

いまふたたびの「でん八」          574

菊池Yさんの寄稿から──35




 もうかれこれ40年も前のことだ。例によって新宿西口の小便横丁でしこた
酎ハイを飲み、歌舞伎町に繰り出した。いつだってまっすぐ歌舞伎町に向か
うことはなかった。当時私たちにとって、いや私にとってというべきか、「で
ん八」は高級な居酒屋で、千円で死ねるという安酒場で下地を作ってから出か
けるのが常だった。しかし下地の作り方が意外に難しい。小便横丁の店もなじ
みなので、ついつい飲み過ぎしてしまい、「でん八」に行く頃はもうへろへろ
なんてことも珍しくなかった。ま、そのほうがフツーだったかも。

 そんなこんなであの日もへろへろで行ったのだった。で、常連の芸大出の
家達と遭遇。そのなかに相性がよすぎて挨拶がわりにどちらからともなくつ
いつい喧嘩をしてしまう男がいて、やはり展開は定番のコースをたどり、「表
に出ろ!」とあいなった。「でん八」の表、といっても「でん八」は二階に
ったので正確には店を出て階段を下りると、目の前に猫の額ほどの小さな公園
(しかし歌舞伎町公園と立派な名が!)があり、こわいお兄さんたちがよくた
むろしていた。
で、芸大出の男との喧嘩だが、なんとその男は階段で足を踏み外し自滅してし
った。私はというと、急に相手が目の前から消えてしまったものだから、勢
いをどう処理したものかわからぬまま、公園へ。たちまちこわいお兄さんたち
にとっつかまり、殴られるわ、蹴とばされるわ、、、。

 あーあ、40年も前なのに思い出すだにトホホだ。結局、わたしは腕の骨を
り、都立大久保病院に入院したのだが、手術が終ってすぐのことだった。カ
ーテンを開けて、ひょっこり「でん八」のアニキが顔をのぞかせた。そして、
ばかだなあ、おまえ」と一言口にして、「見舞いだ」と新聞紙で包んだ一升
瓶を床頭台の上にどんと置いた。店で出している菊正宗だった。

 郷愁でこんなことを書いているわけではない。当然のことだが、長く生きて
ると新宿への関わりにも起伏がある。街の熱さが鬱陶しくなったり、思いが
ていた時期もあった。しかし、今は違う。釜石生まれのわたしに震災は、
なにか突きつけてくる。じっとしていられなくなってしまった。そうなってく
ると私の中でにわかに「新宿」が浮上してきたのだった。国が怪しげな「善」
を主張する今、だまっていられるもんじゃない。
私の中でふくらむ「新宿」の中心には、今も「でん八」がある。
                              菊池Y

2014年3月8日土曜日

すっかりご無沙汰でした!          573

(2014・3・7影)
一昨年の暮れ以来、何となく会いそびれていた二人の営業プロと編集プロと懇談
できた。
スギヤマ君がわざわざ、魚の美味しい小料理屋を設定してくれる。夕方、ちょっと
ぼたん雪がちらつき小冷えしてきていたので、掘り炬燵での一献はイイ!
料理は、鰯のなめろう、中トロの刺身盛り合わせ、アジフライ、上げだし豆腐が並
んだ。酒は、僕の好きな芋焼酎「海童」もあった。

久しぶりに会った二人ともフットワークよく戸を開けて登場する。皆、元気、元気!
話は弾んだ。
起業ではなく顧問を仕事をする選択肢の話し。(顧問料+実務販売手数料)。
売上高同じでも返品率下がれば収益率が上がる健全な構造。
金田さんお別れ会に集まった人、人のこと。
親を看取ると云うこと。
さらに、先日の共通した積雪の雪掻き協同作業、、、。
3.11の記憶に及んだ。一人は、当日、沼津走行中に地震に出合い、「富士山が
やっちゃった!」と一瞬思った。沼津から牧水館に向かうも休館日、海縁を走行中
で津波を見ていた。都心に向かうも大渋滞に巻きこれて朝方の帰宅~。それぞれ
がてんでんに高台に逃げる習性を。

悠久の倉敷小運河!             572

大原美術館前の堀割(高山正男・影)

高山Mくんから、A4判焼付写真三枚が届く。
先日、「未来の会」での話のなかで僕が倉敷出身と知り、彼は街並みを絶賛してい
たがその時、撮影した写真をいただくことになっていた。

伊部瓦、塀、船頭の法被と濠渠の積石の色彩構図が目に焼きつく。
水面に映る如何にも長閑な影、戦前から悠久につづいてきた風景です。
(倉敷は商業都市で空襲にあっていません)。よく撮れた感動的写真です。
写真には見えない手前に、ギリシャ神殿風の大原美術館本館があり、ロダンの彫
刻を見上げることになる。

あわせて、変わらないのどかな風景を証明する、40年前に僕が撮った写真があ
ります。
Gyoと従兄弟のトモトが、上の写真左に見える屋敷の角付けで、緑の蔦がからま
った美術館を写生している一枚のセピア色の写真です。
倉敷大原美術館には色んな想い出があります。




2014年3月6日木曜日

8%消費税からビットコイン、、、。       571

神田すずらん裏通り(2014・3・5影)


午前中、トーハンに立ち寄り。
4月からの消費税8%が迫り、3月中の処理を目指して駆け込む版元で仕入れ窓口
は先週から混雑している。
T取締役、S部長に挨拶、Mtさんと近況及び集英社馬場Kさんと(「出版猛虎会」)近
近一席を約す。他、消費税8%後の雑誌定価表示について、定価を丸めて本体価格
決めする版元が多数を占めていることがわかる。

正午に少し遅れて、水曜会へ。帯状疱疹を患い療養中であった白井君が久しぶりの
登場で賑わう。(三省堂書店亀井社長、持主、佐藤さんに遭遇)。

今話題の、仮想通貨ビットコインをめぐって、PCから金融に強い小沢、吉田君両人に
講釈してもらう。株はやらない、有価証券にも関心がない僕としては、流れるニュース
をなんとか理解できるようにと傾聴しました。先入観としてあったネズミ講的、あるいは
詐欺まがいのモノかと思っていたが、デジタル通貨として金を理想化したものらしい。
発行量の上限を決めた講のようなものか。
技術的な詳細を理解することはできないが、概念的な仕組みは少しわかったように思
う。
円~ドル現金交換(兌換)~兌換所(マウントゴックス社)に交換すべき蓄財が、何らか
の侵入者によって無くなった、、、!

帰りに、明大前、吉祥寺から柳A君を見舞う。


2014年3月5日水曜日

日常と非日常の狭間で、、、。         570

杉本Tさんの寄稿から──34

                           

 僕は旅が好きである。と言っても、下調べをしたり丁寧に準備をするといっ
ではなく、仕事で出かけた所のまわりを、少し足を伸ばしたりと言った事
が大で、人に自慢するほどではない。
 しかし、年をとるという事はそういう事も結構重ねてきていて、また仕事柄
外、特にアジアは行く機会も多く、中国・韓国・ベトナム・タイ・インド・
インドネシアの各地、と言っても多くは街の 路地裏や中古・骨董店をひやか
しながらの旅なのだが、これが結構面白くて楽しみになっている。
 5年ほど前に足を痛めてから、日本でも青森・岩手・秋田・山形・宮城の辺り
車で数日かけながらゆっくりと廻り、馴染みの骨董屋や地の料理屋に顔を出
し地の酒を飲むのが楽しみになっている。
 多分、僕にとって人生は旅のようなものなのであって、仕事をし、旅をし、
地のものを食べ、古い家具や骨董を探す事が日常であり違和感がないので
ある。
 長い間インテリアデザインと言われる仕事を続けてきたが、ヨーロッパ・ア
メリカの近代都市文化よりもアジアを軸とした僻地に強く惹かれ続けている。

 今思うと、そうした気分の第一歩が「でん八」だったように思える。
頻繁に「でん八」に出かけていたのは三越裏にあった、入って階段を登ったカ
ンターの小さな店で、20代の後半から30代の前半の時であったか。
 今から40年位前の事で、そこで少々おでんとか日本酒をやって、兄貴となん
となく話をして、少し余裕があれば丁目の方に歩いて「あきちゃん」のやっ
ていた「そ」に寄る事が決まりのような日々であった。
 そこで大概知っている顔に出会い、その後ゴールデン街か丁目に行くこと
も多かった。今考えると、僕はこういう風に過ごしたのだが、客は洋画家・日
本画家・彫刻家・建築家・音楽家・小説家・大手代理店に勤めていたり、編集
者であったり、カメラマン、僕のようなデザイナー志望であったりで溢れてい
た。この中で育ったようだ。
 と言っても特別な事はなく、人生も普通だったし事件も有ったわけではない。
敢えて言えば、デザイナーの卵として社会を少しずつ齧り掛けていた時期で、
その方では気を抜く立場ではなくあれこれ失敗したりぶつかったりしていたが、
「でん八」にある種の日常感を感じていたようだ。
仕事として向かい合っていたデザインは、ある意味「日常的ではない事」を目
し、どうやってそこから抜けられるかを常に思考していたようだが、である
からこそ、その対極としての確実な、リアルな日常感が必要であったのだろう。

 その後、時々思い浮かべる「兄貴」や「あきちゃん」の顔は、なぜか今でも
いのである。
                              杉本T


*本文中にある、杉本さんのクルマで東北地方をゆっくり回って楽しむスタイ
僕の風船ドライヴと称するぶらり旅と通じるものがあります。
これまで、関越道で新潟に出て、海岸沿いに秋田、青森(十三湖経由)、津軽
島、下北半島から太平洋側を下りて石巻、仙台を経て東北自動車道で帰るコ
ース。
また、東北自動車道を一気に北上して、弘前経由で八戸から太平洋側沿岸を出
入りして福島から常磐道で帰るコース。
加えて、九州を除く各県各地の海岸線は走破しています。
僕の場合、クルマを運転すること自体が趣味ですが、他に地の海鮮理と地酒
と、異郷の人に接する未知のワクワク感がたまらなく好きです。
風船ドライヴの軌跡は、一部、写真紹介を始めています。




2014年3月4日火曜日

「大井淑子書展」でかな草書の強さを知る!  569



今日、友人・大井Kさんのご母堂の回顧書展を銀座鳩居堂で見る。

これまで、絵画展は多数鑑賞してきたが、書の展覧会にはほとんど出かけたこと
がない。
僕も中学校まで、大字を楷書で筆する習字は上手いほうだったが、小字、中字を
草書体で書く段階で諦めてしまいました。

Kさんから案内をもらった添え書きでは、ご母堂は四十歳半ばから書道教室に通
い始め、毎日書道展の入選から、かな部門の最上位に選ばれているまでになら
れたようです。以来、五十年、米寿の回顧展でした。
展示されている作品を観ると、帖仕立て、屏風、巻物に、源氏物語絵巻に見るよ
うな小字で色彩豊かな紙に強弱しなやかな筆使いで跡されている。

言葉のなかに「人間にも旬があります。米寿を迎えた現在、もう厳しく冴えた細線
は書けなくなりました」と。
消え入るような細字にこそ、強靭な気概が込められた強字なのだと、書道の所以
を感じることができました。

作品書目が収録された豪華な本を署名入りで頂き、感謝します。
中身の濃い本です。そのなかに封じ込まれた美意識に感動しました。


2014年3月3日月曜日

柳君のこと。                568


彼のことについていろんな方から電話やメールをもらう。
ここで話せることは、限定的だが遠方の友への報告に代えさせていただきます。

遠藤さま
柳A君の病状への想いを記したメールをありがたく拝受。
先だっての4人で行った最初の見舞いから数回激励に訪ねているが、奥さんの話
を聞く限り、僕に「日赤は救急患者受け入れだけで、専門科医は診ないのかよ
?」、と云う思いがあった。どうも信用できない歴史が過去にあるようだが、著名人
例えば埴谷雄高さんや丸山真男さんなどもお世話になった話も聞いていたので、
院してより酷くなっても困るな、と思っていました。
貴君も病院側の適切なガイダンスがないことに疑問を呈していましたが、僕も
ようなことを考えていました。

そこに、先ほど同送のメールが渡辺さんからありました。ベストの転院先が出てきた
知らせで、まずは、良いほうへの一段階を踏み出すことに、ほっとしています。
 以下、渡辺さんへの返信。
渡辺さま
柳A君の状況をヴィビットに知らせて頂き、ありがとう。
多忙のなか、病院通い、晴美さんとの調整と心労多いことでしょうが、大事
な局面に思えます。できるだけのサポート惜しみませんので頑張ってくださ
い。
これまで病院に五回訪ね、日ごと一進一退の様子を見ながら激励こそすれ、
何もできないことで、先も見えない気持ちになっていました。
知るところによると、東京医科大学病院には口腔外科がしっかりあるようで、
その面でもベストの病院が見つけられたのではないでしょうか。
ただ気になるのは、柳君本人が意識的に嚥下訓練をすることに、積極的で
ない、あるいはそのことによって復活できる認知が薄れているように見受け
られところが心配です。
お知らせの、転院することで環境がよくなり、自立に漕ぎ着けられることを
期待しています。

2014年3月2日日曜日

つらつらと記憶を掘り起こし、、、。      567

伊﨑さんの『新宿・でん八物語』(仮)への寄稿から──33



 えっ! 50年、ウーン?そっかぁ、そうだよね、私も既に高齢者の一員だからな
ぁ~。五十周年おめでとうございます。

 初めてクリーニング屋の角を曲がって直ぐの、提灯が在ったような、無かった
ような、暖簾を潜り引き戸を開け、「でん八」に入ったのは学生時代。
 学園紛争が起こるすこし前の平和な時期、高校時代の後輩で当時売れっ子の
モデルをしていたウチダ君の案内でした。店に入って直ぐにアニキと目があった
ね。板前の格好のうえ無愛想な顔で睨んでいた。東京の田舎者にとってはどう
みても違う業界の人だと疎んじていたら、ウチダ君が狭い階段を二階に引っ張り
上げてくれた。カウンターの中から優しそうな笑顔で我々を迎えてくれたのがアキ
ちゃんです、ホッとしたね。もっとも直ぐにアニキの顔にも慣れ一階の奥(非常に
狭い)で話ができるようになり、アニキが「そのさん」に出る頃からはアニキの武
勇伝を聞いたり、こっちの愚痴を聞いてもらったりと、いろいろな話をさせてもらい
楽しいひと時だったなぁ。

 さて、「でん八」の二階は7~8人?入れば一杯になってしまいそうな、かぎ型
のカウンターだけのシンプルな店でした、同世代の男女が楽しそうに飲んだり食
べたり、堅気の職業の人はあまり見かけなかったような気がしますね。
アキちゃんは我々にとっては何でも話せる兄貴のような存在で、店の雰囲気は
アキちゃんの人柄がにじみ出て、居心地の良い雰囲気を醸し出し、お陰でお客
同士も片意地張ることも無く、好き勝手が言えて且つ言い争うことも無く、お金が
あっても無くてもひと時を楽しく過すことができる最高の場所でした。
 バイトの帰り、スキーツアーの打ち合わせ、デート?等々、よく「でん八」に通い
ました。学園紛争が激しくなり学校へ行くことは減りましたが、「でん八」にはきち
んとよく通ったね。友人達と企画したスキーツアーでは、当時馴染み客のマドン
ナ的存在だった和ちゃんも誘って、いろいろ手伝ってもらううち、私どもの先輩と
一緒になってしまったね。ついでに言えば私も奥さんを確保し、アキちゃんには結
婚式に列席してもらい、何かあったときの後始末をお願いしました。

 「そのに」が末広亭の近くに開店したのは私が社会人になる少し前でした。「で
ん八」で飲んでから「そのに」に行くか、「そのに」に寄ってから「でん八」で飲むか
選択肢が増えました、もっとも両方とも混んでいて外で待たされたり、といったこ
とも何度もありました。
 「でん八」では日本酒におでんが定番でしたが「そのに」ではウイスキーに中華
風のつまみになり、人生初めてボトルキープ(サントリー角)をし、少し大人の仲間
入りをした気分を味わいました。「そのに」では、お店に入ったら飲むより先に、ま
ずジュークボックスの曲をセット、一曲目は、<唐獅子牡丹>二曲目は<人生劇
場>これは定番、次は当時流行っていた由紀さおりの<手紙>とかをセットし、
それから飲み始めましたね。

 この頃よりのみ仲間も友人達から仕事関係が増えていきました。そういえば「そ
のに」で忘れられない出来事がありました。4~5人で飲んでいて最終電車も無く
なり始発まで飲み続けようということになり、飲み過ぎというか、興に乗ったという
か何故か踊ろうと衆議一決しテーブルを端に寄せスペースを確保し踊り始めたと
ころ、アキちゃんが渋い顔をして半ば諦めた顔をして眺めていました。後にも先に
もあのような顔は見たことがありません。この機に紙面をお借りしてお詫びします。
ご免なさい。今更遅いか!
 いろいろ話題は尽きませんが枚数を既に越えているようなので、それは百周年
の時にします。
                                         伊﨑H


2014年3月1日土曜日

写真                    566


「未来社 木造社屋時代OB会のお誘い」の葉書で呼びかけてくれた幹事は、
高山MとM植村の両人だった。幹事の一人、高山君から早速、その時撮った
集合写真と会の名簿が送られてきました。この事後処理のスピード感、幹事た
る人の見本か! ありがとう。

写真のことをちょっと、、、。
僕は、子どもの頃に少年雑誌の付録として添えられていた、レンズのほかは厚
紙でできた「カメラ」で被写体に向かってから、シャッターをきりつづけてきた。
その回数は計り知れない。
人物、花樹木、風景、動物、海中写真に到まで様々無数の出合いを写してきた。
60代で始めたダイビングで、海中写真を撮り初めて一層カメラに興味を持て来
ているが、あまり撮影技術のほうは進化していない。
だけれども、写真を撮るチャンスには、必ず楽しんでいる自分がいる。イメージ
した通りでも、偶然のショットの一枚であっても、メカを使って何らかの意識でフ
レームのなかに切り取ることが楽しいのだ。

高山君は、年賀などに添えられる花や風景写真を見るにつけ、そうとう腕を上
げているはずです。