2013年5月31日金曜日

大槌町支援の食事処が神田に!





神田錦町の海鮮割烹「漁楽洞」で昼定食、天麩羅重と海鮮丼を数回、社員と食し
たことがある。ここ2年ばかりごぶさたしているが、ネタの新鮮さと魚料理にこだわ
た美味しい食事処だった。

漁楽洞に当時一緒したこともあるSmさんが、店内に大槌町の碇川町長の本が
置かれていたこと、そして復興支援をしている様子を、添え書き文書でもらった。
大槌町関係者なのだろうか、海鮮物仕入先への支援活動なのだろうか、想像を
巡らしています。近々、都心に出た時に訪ねようと思う。
嬉しい情報です。

大槌町と宮古市に挟まれた山田町の復興支援海鮮居酒屋が東京・亀有にある。
このお店は地元出身者で運営しているようです。
僕たちも2月に一日だけ、新宿の「でんぱち」で大槌町の被災者をまじえて復興
応援居酒屋を開店しました。在京の大槌の人の参加など多くの出会いがありま
した。
これもまた、「大槌の風」の事業として、継続すべき事案です。






2013年5月30日木曜日

「でん八」 「そのに」 「そのさん」 「傳八」は2階に!  座談会2-5

新宿ゴールデン街(2013・5影)

F さて、テーマ出しの問題提起がありますが、どう絞込みをしたら良いと思いま
  すか。
N 歳だから、記憶が薄れて曖昧だからね。
H あのねェ、Fkさん、新しい斬新なアイデイアが出るのは50歳までだからね。
F 「でん八の物語」をまとめる気になった経緯は、編集者魂どうこうと云うのでは
  なくて、松尾兄弟とは親戚付き合い以上のものがあるので、記録だけは残し
  ておこうと思いたった次第です。
N 親戚付き合いをする親戚もないが、いろんな因縁があって僕は、早稲田夏目
  坂のお寺(宝祥寺)の住職とづっと昔から飲み付き合いがあった。後で、その
  お寺が松尾家の菩提寺だと知った。
  東大の美学出身のお坊さんなんだが、平凡社の音楽百科にかかわっていてい
  たことがあった。
  彼に、新宿の「風紋」や「茉莉か」とか西口の「火のこ」によく連れって行かれて
  いた。
  ゴールデン街にあった「わらじ」にも回遊していた。火を出して一番街から奥の
  五番街へ移ったけどね。
M 火事は恐いよ!
H 「でん八」も火災に遭ったでしょう。
N 隣のクリーニング屋から。消防車も入れない狭い路地だった。
  あの狭い路地が良かったんだよ。
M 路地で二階と云うのが店舗設計にあった。兄貴の考えは、二階まで客を引っ
  張る自信と、リピーターこそ集客の鉄則としていた。これは、づっと次の出店に
  も引き継がれることになる。

 

2013年5月29日水曜日

半年振り慈恵医大で眼瞼注射!

パロディ平台?町山智浩の新刊隣に佐野眞一の本

アキレス腱を痛めて、治りが鈍い足を引きずって例会に出席した。
偶然、隣り合わせの卓でデベロッパーの友人ksくんがミーティング会食中に気づ
く! 先日も電話で近況を話した後のバッタリだったので、お互い驚きながら立ち
話ですます。

この日の話題は、法人税納付手続き問題、
Okさんが取り組み中の教科書電子書籍化と大学生協、出版社と取次の進捗、
今年も7月3日から開催される国際ブックフェアに不参加の大中版元と、版権ビジ
ネスめぐるブックフェアの現況、
他に、朝のメールで知った永井暁(NHK番組制作局・プロデューサー)の慰安婦
問題をめぐってのネット発信、(これは、詳細を是非見てほしい。)
12年前、「女性国際戦犯法廷」を取り上げた「戦争をどう裁くか」を4日間の教育
テレビ特番で放送されました。
政治介入によって番組の企画意図は大きく損なわれることとなり、NTKの経営ト
ップと現場の齟齬は凄まじい怒りとしてあったが、結局、押さえ込まれた事件を思
い出した。
歴史認識の違いの根は深く、払拭できないでいる今の現実がある。

ヤク切れで目から涙のうっとうしい日が続いていたが、眼瞼注射5発で一気に世
界が開けた清々しさを味わえるから不思議!
サカイ先生ありがとう。

2013年5月26日日曜日

 「そのに」の隆盛 座談会2-4

「そのに」があった末廣通り路地(2013・5影)
T とにかく、「アシベ」を通じて無名から有名人まで結構の人数がお茶漬けを
  すすりに来ていたよ。
H 園まりやジャッキー吉川のヴォーカルやってたのとか、遇ったことある。
F 僕も東京に出てきて、直ぐに連れて行かれたのが、このライヴハウスアシベ
  で、凄いカルチャショックを受けたのを覚えている。裕次郎の「嵐を呼ぶ男」
  風の生バンドがガンガンやっててたのに驚嘆した。
N やはり、でん八の近くの地下のショーにアニキに誘われていったことがある。
  期待通りでなくて一緒だったシゲさんとがっかりした、記憶がある。

  *スナック「そのに」は中華料理だった*
H 「そのに」は、スナック風で同じようにおでんを出していたかな?
N 完全に中華料理。
M カウンターとベンチで、ジュークボックスにキープ用ボトル・ボックス
  がある風情だった。
F 広さが応接間の一室と云うか、居心地が良くて安心して飲める空間だった。
H 俺は、ウイスキーはブラックニッカだった。
T 角をキープすのはちょっとお高く留まる感じ。
O ガミさんが「サントリーを×××会」をつくったりして、、、。ブラニッカ党が
  多かった。
H ガミさん元気なのかなァ。「ミステリー・マガジン」にえらい取材力の連載が
  あって、昨年まで読んでいたけど。俺のドイツミステリーの翻訳書も書評し
  てくれていいるし。
F ガミさんは当時、「日刊・ゲンダイ」の創刊にかかわっていて、社長の川鍋
  さんやライターの丸山さんらと一緒に、イチもそうだが「そのに」によくきて
  いた。
  昨年4月、僕の「囲む会」発起人で参加いただいたときは元気だった。
N トップ屋は誰だったっけ。
O 大サダだろう。他に芸能レポーターの梨元も来ていたよ。
T ナシモトは駆け出しの頃は、しょっちゅう面倒みさせられたよ。
F 店内は、何時もカオス状態だったナー。
M 「そのに」も歌舞伎町店も内装設計は全て永田にやってもらった。
  マッチとメニューのデザインは千代田が制作した。
N 今、マッチを持っている人いるかナー。インパクトがあって良かった!
O 芸大連中も油絵、日本画、デザイン、建築から声楽まで多種多様の人の
  たまり場と化していた。
  芸大は久保田に寄稿してもらうと良いよ。住田は亡くなったし。
N 永田にもね。
  (しばし、新宿の街論に及ぶ。)

2013年5月25日土曜日

秋山順子さんを悼む



今日、ハルの忍者、絆ソーラン踊りなどを参観して帰宅したところ、
一通の封書が届いていた。

連名の一人の名前を見て、開封前に一瞬予感したことが当たってしまいました。
秋山順子さん、死去の知らせでした。
韓国の劇作家・李康白の戯曲集『ホモセパラトス』を翻訳されており、3月末に
恵贈いただいたばかりでした。
三十歳半ばから、腎臓透析に移行する厳しい環境にありながら、ハングルに取
組まれていることは知っていましたが、数冊の翻訳書を上梓されるに至っては良
いね、と思っていました。
おもえば秋山さんとの出会いは未来社入社が同期であることです。
当時はまだ、60年安保闘争の世代意識が残っており、会社のなかで何かにつ
け互いの意見が高揚したものです。僕より少々年上で、秋田美人の明るい性格
によって誰からも慕われていました。
松本さんが影書房を起された同時期に一緒に移られて、よきアシスタント振りを
発揮されていましたね。
洋泉社を解覧した時も、激励に駆けつけていただいたことを思い出しています。

2013年5月24日金曜日

アキさんとアニキ 座談会2-3

「でん八」発祥の裏通りは新路地に変貌(2013・5影)

T あの頃は、いろんな出合があったよ。
N オサダが「ちゅう」と云うネオンを作ってやったりね。
H あの頃のオサダは、未だ貧乏人だったんだよ。
O 「スンガリー」でアルバイトをしていた。
H ドイツに行く前の話だが、当時、電話債券の売買を仲介してくれたのがアニキ
  だった、、、。

  *アキさんとアニキ*
H では、松尾兄弟の葛藤はなかったのか、をめぐって。
O アニキをたてる従順な弟だったよね。
M 兄貴とは鶯谷に住んでいた頃、殴り合いになるビデオ事件があった、、、。
T アニキの武勇伝だけど、熱海の旅館での大立ち回りがある。弁償問題になって
  誰も金を持ってなく工面するのが大変だった。でも、太っ腹だったよ。
  その時は、そばに寄れない状況だったが、今では、写真にとって置けばよかっ
  たと思う。
  他に、「コメディアン」の一件がある。あれも凄かったですよ、、、。
H アニキのそんなの見たことない。
N 俺もない。ただ、怒ると怖いというのはあったね。
O アニキは、仕事中の店で酒を飲まないと決めていた。
F おちょこをすすめても、受けないから飲めないのかと思っていた。
  こうした男っぽいエピソードも入れておかないと、物語にならないもの。
M 兄貴は生きた情報を入手するのが上手かった。キーマンを捉まえチャンスに
  するのもすぐれていたと思う。
F アキサンのエピソードはどうですか。
N 初期の「でん八」は、表の顔がアキサンで裏の貌がアニキニだったよ。
O 細い階段をすれ違うように、2階へ料理を運んでいたのがアニキだったサ。
  最初、この人何なんだろうと思ったもん。
F アニキはとにかく教養人で、話すほどに負けたと思わせる雰囲気があった。
H 本当に、アニキとアキちゃんと話すのは楽しかったよ!
T そして、金がなくても飲んで帰れたし、、、。「そんなの気にしなくていい」
  と言われてた。

  *「ばくだん」が一番高かった!*
H おでん種でちょっと高いのがあって、「ばくだん」ってやつ。
F アキサン、当時のおでん料金を教えてよ。
M ばくだんが70円で、銚子一本と同じだったかな。
H 大根が美味しくて安かった。原価が安かったから。
T ばくだんが一番高くて、その下が30円か40円だった記憶がある。
O ばくだんの値段は、ハイライトと同じだァ。
N 値付けで音楽用語が飛び交ってなかった?
O テン、マオ、ゲイセン、、、
N ゲン百とか、、、
M 逆にバンドマンには使えないから、もう一工夫していた。






2013年5月22日水曜日

山下正さんから『複眼凝視』を拝受する



書影『複眼凝視』(西田書店・刊)



御茶ノ水から駿河台下を下り放心亭へ辿り着くのに、ジョギングでアキレス腱を痛め
て、ゆっくりしか歩けず苦労した。

今日の会に出席していた山下さんから「学術出版の可能性を追って」の傍題をもつ
上記の本を署名入りでいただいた。
彼から、今日5月22日が日本書籍出版協会(書協)の専務理事を退任し、東京大
学出版会など、長年の出版業界における活動から離れる節目の日であることを知
らされました。先日も三人の友人、知人の近況について、複雑な思いを記したが、
山下さんについても同じ感情を抱きました。

山下さんには、昨年4月に催された僕の「『洋泉社私記』と慰労激励会」で、発起人
代表になってもらいました。だが、意外と交流が始まったのは最近で短く、St君を通
じて一献の親しい間柄になっている昨今です。
しかし、本書に目を通すと、3日違いの彼が兄貴分であったり、60年安保闘争への
関わりも場所は違えど似たような生態系を感じているところです。
それにしても今日まで、書協11年間の出版業界が抱える多くの難題に勢力的に取
り組み、活動されことを知るにつけ頭が下がります。


2013年5月21日火曜日

出版業界 アト・ランダムに


出版業界の現場を離れて1年になるが、未だ周りには話す機会のある人が多々い
るし、情報の発信も受けている。

先日の水曜会では、明文図書関社長の自主廃業にいたる経緯が話題になった。
法律経済書を中心に扱う「神田村」の専門取次で大学生協などに強く、一部の出版
社にはなくてはならないシェアーを占めていたはずです。
以前のような商品流通のスピードと親身な取引関係が神話と化してきているなかで、
神保町の再開発に伴う移転、再移転などで事業拠点が分散化して悪影響が及んだ
のではないか。
これで、「神田村」から日新堂、鈴木書店、誠光堂書店が消える様に接し、専門取次
の栄枯盛衰を実感させられる。

書協の菊池副理事長が退任して、後任に持谷君が選任される話題も出た。
二人が筑摩書房とみすず書房と云うことで、人文会やいろんな会で顔を合わせるこ
とが長い時期にわたってあった。
さらに一人、澤畑君が春秋社の社長に選任された。苦労するだろうナ。
周辺の知人・友人が、役員を退いたり、役員入りしたりするのを関知するにつけて、
ご苦労さんと言いたくなる。

2013年5月20日月曜日

喜多院の五百羅漢

(2013・5・20影)


川越の星野山喜多院を訪ねました。
目的は五百羅漢をゆっくり巡り、対話してみたくなったからです。

数年前までは頻繁に大宮の河川敷へ草野球に出かけていたが、その途中の川越市
街の喜多院に寄り道していた。
その際、本堂(慈恵堂)や三大将軍「家光誕生の間」を見るでもなく、もっぱら、四季の
移ろいに佇む538体の羅漢さまを、飽きることなく見て歩くのが好きだった。
この羅漢は、天明2年(1782年)より文政8年(1825年)のおよそ45年間にわたり、
建立されたもの、とされている。
よくよく見ていると、亡くなった誰かさんに会えるとも云われている。

境内の奥庭のさつき等の木々が新緑に彩られてみずみずしい!

2013年5月19日日曜日

ガラパゴス島と蓬莱島(ひょっこり島)の夢




エクアドルのガラパゴス諸島といえば、何人の人が知っていてどんなイメージを
思い浮かべるだろう。
日本の真裏側で、世界遺産の最初に指定された地球原初の動物が生存し続け
ている青い海に浮かぶ神秘な島。イグアナなどの珍しい生きものたち。
この諸島のなかの一つの島が、大槌湾に浮かぶひょうたん型の蓬莱島の周囲
と面積が瓜二つなのである。
エクアドル個人外交のドタさんから、この写真を1年前に見せられた時、咄嗟に
ひょっこりひょうたん島とダブルイメージされて、姉妹島の夢を見てしまった。
ガラバゴス諸島で旅行代理店を営みながら政府機関とも密接な関係の社主が、
3・11被災地に復興の願いと子どもたちとの交流を期待している。
僕も夢に終わらせることなく実現に向けて模索しているのだが。
このままではいけない思いは強く、あし踏み状態から一歩を踏み出したい気持ち
でいっぱいです。
日本とエクアドルの交流の歴史は浅い。野口英世の病院建造遺構は残っている
が、彼が日本人であることすら希薄になっている。
ドタさんが先々月、身銭を切って、堀江謙一が航行したガラパコス諸島に行って
記念パネルの修復と、個人外交を敢行してきました。
地元の人たちに大歓迎された模様を聞いておりますいます。
復興と友好の強い気持ちが共有できれば、未来へとつながると思っています。
まず、「ひょうたん島姉妹プロジェクト実行委員会」を!!

2013年5月18日土曜日

GSのジャッキー吉川&綱木等々、、、 2-2

simizuさん(Ma提供)


T 開店当初は客が全くいなかった!それからアシベの連中が飯を食いに寄るよ
  うになって友達が友をよんでつながっていく構造になっていった。
M 三原綱木は静かに食事していたよ。ほとんど飲めない。
N 竹さんがいなかっら「でん八」はつぶれたんじゃないの!
M 小料理屋をめざして、板さんが毎日河岸築地から鮮魚を仕入れていたが、無
  駄続きだった。
T 誰も来ないんだから、厳しいよね。
M お茶漬けも始めた。
H ところで、F君は…
F 先に話したが、僕は新宿中央通りのウイーンでの会議のあと、住まいの馬場下
  への帰り道に寄った、清水さんの屋台からですよ。
H あなたが早稲田グループや出版関係の連中を引っ張っり込んだんだ!
  それで、俺は二見なんだな。
T そんなんで、言葉は悪いが、たまり場になったんだよね。
H 俺はセクトが違っても、早稲田の連中は仲間だからかまわずつき合ってたよ。
  少したって、長田とも付き合うようになって、大学が中央大学で同じの根本を知
  った。
  (当時、10・21があったりいろいろなことが起こった。)

2013年5月16日木曜日

いつか見た光景、デジャブ!

ハルが小学校に入学してから5月半ばになる。
これまで変わらず、自由奔放な成長過程のままに接してきたきた。
勉強は親が見るものと決めて、もっぱら川や山に連れ出したり近くの公園で鉄棒
に興じさせるなどしてきた。
都会っ子の一年生は学校でどう過ごしているのだろうか、そのなかで友達ともな
じめて上手くやっているのだろか、心配している。
そんなわけで、一週間に一度、出かけたとき報告してくれる、「かけっこで負けな
かったよ」とか、「字の練習で、ん が上手に書けたよ」のお喋りを聞くことで、恥
ずかしながら安堵する。

この時は、羽村の堰で川遊びしているせいで、住まいからそう遠くない世田谷の
清流での川えびと小魚捕りをせがまれる。
子どもの頃この時期は、学校から帰るとカバンを玄関口に放り投げて手すくい網
をぶら下げて、吉井川で魚捕り遊びに夢中だった。
今あるハルとの光景は、昔あったとふと想ってしまう。
ハルが、小川の草むらに網を差し出し見つけたエビを足で追い込み、水面にすく
い上げるしぐさ! 収穫にエビとどじょうの違いがあるが。
捕った穫物を、恐る恐るバケツに移す手触り。
この既視感は、
65年も前の話です。


2013年5月15日水曜日

座談会 アニキこと昭次郎さんについて 2-1



F 今日は、第2回目の座談会になります。
  HyさんとNyさんのお二人に加わって頂きました。
  前回と重なる部分も出てくると思いますが、アキサンには「でん八」を三越裏
  路地に開店したいきさつを聞きたいし、アニキが二番目のお店「そのに」を
  出店構想するに至った経緯などを聞かせてください。
  前回の続きで、シゲさんについてもう少し何か、、、。
N シゲさんはアニキの弟分だったでしょうー、違うの!?
H いや、アニキの弟分は、いっぱいいたでしょう。俺だって一人だよ。
T 俺、シゲさんと初対面の記憶が無いんだよな~。
M 、、、、、
F 昭二郎さんの履歴をめぐっては、良くできた長田メモがあるよ!
N 親父さんの医書を生活に活用していたらしい。将棋や囲碁に明け暮れてい
  た時期があったことを聞かされている。(将棋初段、囲碁2段の有段者)
F 戦前の巣鴨中(ガモチュウ)~早稲田(商学部)から、戦後21年に「日航」に
  就職、という履歴を聞くにつけ、戦後間もないときだけに感心しきりです。
O アキサンは戸山高校。
H 名門だよ!
O アニキはその後、日航を退社して大阪の南海綿業入社。糸ヘン景気のなかで大
  いに活躍したようですよ。
M その後の兄貴と、二人で洋裁用具の代理店を立ち上げたんよ。
H 兄弟仲すごくよかったようですが、諍いなどはなかったの?
F 兄弟が仕事別れして、別々行動した空白の時期はどうだったんですか。
M 


夏八木勲と濱田晃






夏八木勲がすい臓がんで死去。73歳だった。

大学時代にクラスが一緒だった親友に濱田晃がいる。彼は早稲田の自由舞台か
ら現在に至るまで俳優修行を続けています。
亡くなった夏八木勲さんも、濱田君と同世代で同じように慶応義塾大学から劇団に
入座して、その後、フリーで野生的な風貌の性格俳優として脇役で活躍していた。
僕は先日、公開されて間のない園子温監督の映画「希望の国」が、監督もさること
ながら、3・11大震災を果敢にテーマにした問題作と言われていることから、観た
のだった。
ファーストシーンで、架空の国の農村集落の夏八木ファミリーの相方として濱田が
出演しているのを発見した。友人の健在ぶりをスクリーンで知ってうれしく思ってい
たところに、夏八木さんが亡くなったニュースに接してショックでした。
ちなみに映画は、原発事故で平穏な暮らしを奪われる主人公を大谷直子夫婦とし
て演じていた。

2013年5月13日月曜日

座談会 6



H 「でん八」から「歌舞伎町店」開店までの10年は、短期間に感じる。活躍す
  る時期って、そうしたもんだよ!
T いろいろあったが、アニキは太っ腹だったんよ。
H シャンソン歌手から「そのに」の店長になった中沢忠さんについて、どうです
  か。銀パリもあるし、野球もあるし、空手も、、、。
 (僕は、忠ちゃんが、大阪リトル野球チームの経験があって、阪神タイガース 
  ファンであったこと。そして、中村勝広(元監督)と親交があって彼からもら
  ったグランドコートを、店で羽織っていた姿が忘れられない。)
A 歌舞伎町店の次を模索している時期に、南青山出店構想が出て「そのに」
  を忠に任せることになった。
O 要するに、面倒見の良い親分肌ってことなのかな。自立させていくシステム
  を持っていた。
T ところが、金がなくて困っていたが、長田ちゃん始めパートナーがいたんだ
  ろうと思うよ、、、。

H では視点を変えて、「でん八」に梁山泊的に集っていた人のなかで、僕には
  「でん八」の主の如く見えた飯田シゲさんの人隣などを喋ってもらいましょう
  か。
A シゲは、開店1年後ぐらいにやって来た。ガラスクリーニングを起業して代表
  だった。
M イッちゃんと一緒にコンビだったなー。
O ちょっと日本人離れした顔で独特のキャラクターだった。
H 背が高くて着こなしが目だって、ジョークが言えて、クラークゲーブル張りだ
  った。
M 俺が運転免許を取りたての時に、一緒に三浦の剣崎の民宿へ行ったこと
  がある。アニキも一緒で酒とマージャン三昧だった。
A 出身は新潟で、角栄地区から数人の仲間と上京の成り行きだった。
H 面白いことがあった。紀伊國屋から図書券を数百万円購入する手続きを
  してあげた。選挙運動に使ったらしい。
O 清掃業の方は、ビル丸ごと外も部屋も請け負って、学生をアルバイトで使
  ってガンガン仕事をこなしていたから、収益は良かったはず。
  また、松本清張のりのエピソードも尽きない。


2013年5月12日日曜日

西東三鬼



毎年、5月初めの連休が明けると気分が夏入りを感じる。僕自身、最近はアレル
ギー性鼻炎の発症が少なくなっているが、この期を境に苦痛から開放される。
そして、若葉がきらめくこの時期、ハルのスイミングトレーニングを見ていると、暦
の上での立夏を実感できる。

初夏の風情を女性歌人がコラムで書いている。
                     おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼
「すこやかな生命感溢れる、こんな俳句が頭に浮かぶ。眩しい新録のなか、溌剌と
した薄着の乙女たちの姿が見えてくる。昭和初期にはじまる新興俳句にかかわっ
た俳人らしい、じつに斬新な表現である。」と。

西東三鬼の俳句が、今ここで俎上に載せられているのが目に留まり、爽やかな夏
めく気分と、同郷美作津山の俳人と重なったから、メモしておきたくなった。
明治から昭和(1962年)にかけて活躍した、津山が生んだ俳句の鬼才・西東三鬼
は、津山市南新座に生まれる。南新座には、僕の小学校の親友の病院があって、
地理的によく知っているし、遊んだこともある。


2013年5月10日金曜日

座談会 5



M 洗い場は、城間だった。今は、沖縄に帰って居酒屋をやってる。
T あの時代は、色んな人種が集まってきていた。そのなかで、松尾兄弟は何隔
  たりなく優しく接してくれた。
O 深夜叢書の齋藤氏や中井英夫、井上光晴などもよく来ていた。
H 齋藤慎爾は、2010年に『ひばり伝 蒼穹流謫』で芸術選奨文部科学大臣賞』
  を受賞して、文筆活動、旺盛だよ。優秀な編集者だしね。
T あの頃は、ゼンガクレンなどが蔓延ったじゃあないですか。
  今となれば俺なんか老人だけど、この頃の若者は覇気がない!
O 1968年の10・21の時は、防衛庁から新宿駅に移動してホームから落っこち
  て、「でん八」に逃げ込んだ。戦後初めての騒乱罪が発令されたんだよ。
H 今の若者の覇気のなさを、世代論で語っても埒が明かないんだけどね、、、。
  (しばらく、フクシマ原発、311復興問題から日本赤十字の闇について大胆な
  発言が続く。「お父さん、お母さん、子どもが亡くなっているのに、査定配分など
  必要ない、即給付せよ!」と。)
M 1968年に「そのに」を10坪スペースで開店した。             そして
  「そのさん」でん八歌舞伎町店は6年後の1974年に20坪で開店した。

2013年5月8日水曜日

エクアドルと個人外交


ドタさんは、4月8日から2週間エクアドルへ一つの義務感と個人外交で出かけて
きました。
帰国後、ガラパゴスの堀江謙一岬の記念碑修復のため用意した話を聞く会を、急
遽設定しました。
Sg,Ik,Tt等が参加する。

以下、語りの記録。
レポーター、カメラマン、メッセンジャー一人自作自演。
費用は、航空券往復の一番安い料金が26万円、諸機材購入7万円で済ます貧乏
旅でした。
コースは、羽田~ニューヨーク~マイアミ~グワイキム~ガラパゴス。所要時間は
26時間。宿泊費@8,000円(朝食のみ)
経費は移民で旅行会社をやっている知人に現地での諸経費を支援してもらってい
る。(旅行会社の知人について:父親がボリビアへ行き成功してエクアドルへ移り、
旅行会社をつくり、今では中堅旅行代理店になっている。)
現地の行程は、エクアドル・ガラパゴス(自然遺産第1号)~サリーナ・ヨットクラブ~
記念パネル(製作、住友軽金属)には、「この燈台はあなたのことをちゃんと覚え
ています。あなたは、素晴らしい!名前を銘記して遺します。」と。
今回、17年ぶりの修復。取り替えたパネルは彫っているので50年は絶えられる。
(ドタさんは、エクアドルと日本は縁が薄いが、当事者であるだけに精神のリレーの
思いが強い。)
移民の人たちも、なんとかして遺してほしいという要望がひしひしと伝わる。しかし、
日本の大使館はあまり大事にしていない。60年前の野口英世が名を成しているが
日本人としての記憶はほとんど残ってなくて、野口病院が建築遺構としてあるだけ。
(日本大使と面会)

エピソードを一つ。ゴールデンゲート入港の堀江謙一を最初に発見してくれた人が、
98歳で昨年亡くなった。50年前のことを鮮明に覚えている。1962年8月11日、
こう云う事があって、何を喋ったかを、ログブック(航海日誌)に詳しく書きとめてい
た。これでもって、「サンフランシスコ・クロニクル」の一面を飾っるわけですよ。
このログブックには、石原裕次郎が映画「太平洋ひとりぼっち」(石原プロ第1作)の
ロケでシスコ入りしたときに、現場のレクチャーをした様子やサインがある。
ドタさんは、歴史的な貴重なログブックを形見としてもらった。 (公開の予定)






  

2013年5月7日火曜日

河竹俊夫教授について

書影

歌舞伎研究の第一人者の演劇研究家、河竹登志夫(本名・俊雄)さんが6日、死去
した。88歳でした。

僕は、大学1年の専修担任が河竹俊雄教授でした。
授業で使った『比較演劇概論』は、新関良三著『ギリシャローマ演劇史(全7巻)』の
隣に未だセピア色して、本棚に残っています。
55年前の政治の季節、先生にクラス討論の名目で「政暴法阻止闘争」授業放棄の
強引なお願いをしたことが度々ありました。先生にとって、迷惑な学生だったはずで
す、、、。 昨日のように思い出されます。

先生は、歌舞伎作者、河竹黙阿弥の曾孫。歌舞伎と海外の演劇を比較した斬新な
比較演劇学を提唱し、半世紀近くかけて『比較演劇学』(3部作)を執筆し完成された。
最近では、河竹家4代の歴史をたどった『作者の家』が、厳密な考証と高い文学性を
評価されて話題になりました。
そして、今年3月には東京の歌舞伎座で行われた「古式顔寄せ手打式」で狂言演目
を読み上げておられました。
ご冥福をお祈りいたします。

2013年5月6日月曜日

ジョギングを再開する!

富士見公園/ジョギングコース


最近、歩く機会がいちじるしく減っているにもかかわらず、走ることを頓挫して
一年ばかりになる。
歳のことと、運動不足で股の筋肉が落ちて、歩行にふらつきをを感じ、まずい
と思うようになっていた、、、。

休日の最後も遠出することもなく家に閉じこもっていたので、一気に体を動かし
たくなって、隣の富士見公園運動場を周回しました。
勿論、ジョギング前に簡単なストレッチで手足の筋肉を伸ばすのだが、長い中
断で結構きつかった。
一周700メートルのコースを、初日は3周(2100メートル)した。タイムは当面
こだわらずムリしない範囲でゆっくり走ろうと。
これまでとちょっと変わった趣向で、ウォーキングコーダーのイヤフォーン付き
で走ったところ、距離・時間を気にすることなく感覚的に楽だった。
久々に履いた専用シューズの感触も良く、なんと云っても、走り終えた体全体
のフィット感たまらなく良かった!
長く続けてエンジョイできるか!?


2013年5月5日日曜日

座談会 4



  *新宿の無頼たちと「そのに」の誕生

H 僕は、まず新宿御苑裏の「ユニコン」から「カヌー」そしてゴールデン街コース
  が定番だったかな。その後に、AGE、旧「おかだ」が加わって、、、。
M 行く店はいろいろだったが、ゴールデン街によく流れた。
T 今、ゴールデン街はセピア色で懐古されブレークしているんだって。
H この前、O君に連れられて「花の木」のカウンターに座って15年余ぶりにママ
  と話した。佐木隆三のもと奥さんで著作を恵贈されたこともあって、70年代に
  龍円とよく往ったのを想いだした。
O Hsに連れられてゴールデン街の「くろ」、「薔薇館」へもよく行った。
T それから、厚生年金裏の「コメディアン」にも寄って、飲んでゴーゴー踊ってた。
  客を飽きさせないスグレモノノ支配人がいてネ。
M あのマスターは俺が紹介したんだよ。好い男でね。
H 「そのに」出店のなぞが解けた! 路地裏の経済学だよ。
A 兄貴が、でん八がいっぱいで流れる客の行き先と云うかコースをリサーチし
  ていた。新店を末広通り「どん底」の隣に仕掛けると決めたって訳さ。
T 「そのに」は開店するなり大盛況で、今で云うスナックバーが喧騒のなかに誕
  生した感じだった。朝まで飲んでそのまま会社に行ってた。
H アキサンが開店店長でネ。
  ジュークボックスがあってね。
O それから、ボトル制も早かったよ。
A メニューとマッチのデザインは千代氏に依頼した。
  (「そのに」の命名は、でん八のカウンターで話題中に、次の店は2号店では、
  味も素っ気もないから、パート2から洒落で「そのに」に決まったのかな。
  マッチのリンゴをあしらったデザインが新鮮で、アダムとイヴまで想像力を掻き
  たてられて、評判になった。)

2013年5月4日土曜日

座談会 3

コンチャン(中央)右端・井家上氏


A Hsは、Hちゃんが「迷惑をかけるかもしれないが、広い人脈があって客寄せに
  優れている友人を紹介するよ」と言って連れてきた。一緒に来たのが3回目の
  春だったかな。
O とにかく、彼の黒皮の手帳は、名前ばっかですごかったよナ。
H 彼については、Hyさんが日本共産党時代からの深い付き合いだった。 
  (ここで、遅れてT登場)
A 他に、最初から来店していた芸大建築グループで平瀬等がいる。テニスの後、
  の 飛込みの来店だった。その後に永田、、、。
H 芸大グループは、その後、学部を超えて横断・縦断的に一大勢力に
  なったよう思うのですが、この座談にキーマンを呼んで加わってもらいましょ
  うか。
  では、Tさんのでん八とのキッカケをお話ください。
  (古い写真を廻し見しながら、会社のソームとソープ嬢を混同しながら話が盛り
  上がる。)
T 雑司が谷に住んでいて、新宿で飲み食いし、明治通りが通い道(トロリーバス)
  だった。帰宅途中、新田裏の屋台で、アシベ裏路地に「でん八」の開店情報を
  知って行った。
  行ったら、アシベに出ていた園まりとか伊東ゆかり、ジャッキー吉川らが飯を
  食いに来ていた。
  でん八の思い出を話すと切がないが、此処が生きがい、活きている原点だろう
  ね。
  (一しきり、河出書房入社から、倉庫の本整理の苦労話を、エピソードを交えて
  笑いとばす。)
O Tさんもそうだが、でん八の流れでよく行った店が「どじょうや・信濃屋」だった。
T どじょうやの娘が評判だったナー。日本酒の勢いで冷泡盛を初めて飲んで腰を
  抜かしたよ!飲み方を知らなかったもんで。
O でん八の板さんの昆ちゃんと、土曜日は御苑前の「デッグ」でマージャン、ポー
  カーをよくやったよ。
M 大村昆に似ていたからコンちゃんと呼称していたが、本名は?
A 酒井。長崎出身で、屋台の客の紹介で雇用した。
  コンスケは料理の手は早いが、雑だった。8年ぐらいいて、その後小林(現、真
  鶴在)。
  (花街/カオス化の屋台物語/7台/場所作り/1965年完全に閉める~。)
H でん八の客は、職種別、大学別などのグループや一匹狼みたいな無頼が集うて
  いたが、二次、三次の梯子先は何処だったの?




 

2013年5月3日金曜日

あれか、これかではないが、、、

多摩川羽村の堰・ハル魚を捕る

憲法記念日だから新聞の紙面を憲法改正問題で賑わせるのは仕方ないが、311大
震災の復興がままならないなかで、改憲論調に傾斜する逆流に抗してみたくなる。

現実の改憲を狙って抑制的だった10年ほど前の自民党に比べて、大震災の想定外
事態とか、領土問題に乗じて9条を中心とする改憲に勢いが加速してきている。
衆・参院の憲法審査会は昨秋から、そろりと動きを始め表舞台に出てきたし、、、。


いまだに、仮設住宅や被災地外の親戚などで避難生活を送る人が圧倒的に居る。被
災者の生存権は十分に守られていないように思われます。憲法には、被災地復興や
被災者支援のための権利がつまっているにも関わらず、弱者の遠慮や虚脱感から無
口になっている。
政治家は、憲法改正論議の前に、憲法の精神を護る上らも被災住民を速やかに復興
を体感させてほしい。

今日、暖かい日差しのなか、ハルと多摩川・羽村の堰に魚捕りに行きました。
彼の網手を支えながら、10センチ弱の活きの良いハゼを掬い上げた!




2013年5月2日木曜日

キッチン「南海」のカツカレー!






一年ぶりにキッチン南海の暖簾をこぐった。
以前は、一ヶ月に二、三度は南海のカツカレーが昼飯だった。

僕は肉料理を食することはほんの稀なことなのですが、南海独特のハヤシ風カレ
ールーと1センチ足らず厚のトンカツがベストマッチで、やみつきになる美味しさ!
この神田すずらん通り「南海」の姉妹店が他にもあったが、カツの厚さが違ったり、
ルーの味も微妙に異なったりで、僕は元祖店にこだわる絶対的リピーター。
前後の文面は失念しているが、『まれに見るバカ』(洋泉社刊)の著者である勢古
浩爾が書いている。
銀座のレストランに「~1万円のカレーライスがある。だが御茶ノ水駿河台下のすず
らん通りにある<キッチン南海>の650円(現700円)の絶品カツカレーとどれほ
どの差があるというのか。」と。
このような比較は、時にしたくなることがある。勿論、値段が10倍以上とステータス
に関わる微妙な差が生じることは分かっている。だが、美味しさと満腹度(満足度)
に10倍の差などあるはずがない。
カウンター内のコック長と目線を合わせて出た。

2013年5月1日水曜日

都心に出ると一気呵成に! 



健保に行き事務手続き~正午水曜会へ~一年ぶりにキッチン「南海」でかつカレー
~打合せと珈琲豆挽きで豆香房に~そして最終にトマトBに駆け込む。

5月1日はメーデーで、僕にとってこの日が何の日なのか戸惑うのだが、記憶を蘇ら
せられる装置です。
1952年(S27年)5月1日、占領体制を終結した初めてのメーデーで、デモ隊数千
人が使用不許可の皇居前広場に入ろうとして警官隊と衝突した。
二人が死亡し150人余が重軽傷を負う流血事態になった。公安ができたのがこれを
規してだった。
この闘争にWの学生で「建設者同盟」の旗の下に伯父さんがいて、その伝聞から幼
少の僕ですら強烈な印象が残っている。
次に、1959年に上京した直後の、60年安保闘争最中の過激なメーデー行進を新
宿東口二幸前で見た記憶が蘇ります。
勿論、今は見る影もありません。

今日は連休の狭間で、二人だけ水曜会になったのですがOkさんとの尽きない四方山
話には、人と事象に結構接点が合って面白かった。
彼の国設乗鞍高原のぱん工房奮戦と学生時代に宿泊した福島只見の民宿再興計画
の話など聞き入りました。
僕がかつて頻繁に行っていたスキー場で、周辺の景観も焼きついているし、奥只見は
雑穀研究の親友が山菜取りに誘ってくれ民宿の話が出ていたので身近に感じる。
出自の話など、未だまだあるので後述。