(②→続き)
労働運動で共産党の後退を決定づけた「2・1スト」(1947年)中止。
一年前には共産党との人民戦線形成を目指した社会党左派もこれを機に一線を
画することになる。あわせてGHQも労働運動への主導的立場から失墜。
共産党は「国際派」(宮本、志賀)と「所感派」(徳田、野坂)に分裂。ソ連
・コミンフォルムの意向に振り回される。
こうした捻じれた左派の思考の原点が、占領統治下の日本で生起していたと云
うこと。
第三章(1951~1959年)社会党の拡大・分裂と「スターリン批判」の衝撃
社会党は東アジアで戦争が身近になっており、日本も巻き込まれる可能性が高
いという危機感が生じていた。(向坂逸郎や山川均)
それを反映した「平和四原則」。
「血のメーデー事件」と朝鮮ビューロー(金天海)の謎。
公安調査庁が新たに創設されたが、アメリカと関係が非常に深い。
共産党が実際に暴力路線にはしったことで、平和革命路線の社会党支持者が増
えた。
そして五十五年体制。所感派と国際派主導のもと再統一。社会党も左派が主導
権で再統一。これらに対抗するように自由党と民主党が一緒になって自由民主
党ができたのである。
労働組合運動では「総評」が左傾化し労使関係も厳しさを増し対決姿勢が鮮明
になる。
一方で、左傾化に反発して飛び出した右派の人たちが新たに「同盟」を結成。
「スターリン批判」(1956年)の衝撃。そしてその影響を受けて十月にハンガ
リー動乱。この批判をもとに日本の左翼に混乱をもたらし、左派知識人を活性
化させた。
この年に黒田寛一が『スターリン主義批判の基礎』を著わした先駆性に慧眼。
ソ連型とは違う社会主義をいち早く模索し始める潮流が生まれる。
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