2015年8月31日月曜日

国会議事堂を包囲!         1118


8・30、「安保法案」反対の大規模なデモが、雨のなかを55年ぶりに10万人が
国会議事堂を包囲した。

前回、僕が議事堂を半周したときは、歩道でのさみだれ集会だったが今回は、
メーンステージの国会正門前は警察の制止を振り切って、参加者によって車道
を埋め尽くした。
さらに霞ヶ関官庁街や日比谷公園方面まで詰め掛けて、「廃案!」のシュピレヒ
コールがつづいたと、、、。

1960年、6・15「安保闘争」のときと、しとしと雨が降る光景は同じではないか。
そのときは、敗走して警視庁の塀のなかに追い込まれたり、散々の態で夜が明
けるのを有楽町の駅でまった。
戦後のいくつかの大規模な大衆運動の波のなかで、8・30は何が変わり、視る
べきモノがあるのだろうか。

市民団体「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の実態は知
らない。
実行委によると、全国にいっせい行動をよびかけ、200ヶ所以上の地域で「安
保法案」に反対する雑多な組織が一つの目的にむかって集会やデモで決起、
といわれている。
60年安保闘争や全共闘70年安保闘争と、半世紀経って起ち上がったいまの
行動は違う位相に視えてくる。
かつての学生、労組主体の十数波に及ぶ統一行動と違い、日曜日などの休日
に直接、国会議事堂周辺に小単位のグループか個人が意思表示のために集
結している。
病気上がりの坂本龍一や映画監督園子温や寂聴さん、久田恵さんらも「個」で
参加しているのがイイ。
勿論、左翼系らしき労組も参加しているが、いまのところ主導権を取り合う諍い
はないようだ。

(←ブログ2015・7・19 「安保法制破棄/映画を観よう!」1074)

サイパンの昔の小学校        1117

サイパン昔の小学校(影:Pen)
この場所は、アメリカのスクールになっている。

少し、サイパン尋常小学校から国民学校に改称するまでの歴史を詳らかにしてみ
よう。
まず、「島民学校」を作り、「未開無知のものを教化」するために日本化教育に
(日本語教育)取組んだ。
1917年(ロシア革命)になると、専門知識を持った教師が派遣され指導する
ことになった。
1918年には、サイパン島に第二尋常小学校が開校された。
1929年には、チャッチャ尋常小学校を設置。
1941年には、中島敦が南洋町に教科書編纂係りとして赴任。翌年に帰国。
親父もこの翌年に本土の教職を辞して、サイパンに赴任ということになっている。

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2015年8月30日日曜日

江夏と田淵の黄金バッテリー    1116


阪神タイガース、8月最終試合は、
1回、先頭バッター鳥谷が出て、上本が送って、福留がレフと前ヒットの速攻で
理想的な先取点!

この試合開始前に夢の再現を見た。
背番号28・江夏豊と22番・田淵幸一の黄金バッテリーの始球式があった。
江夏が投じた山なりの球がワンバウンドで田淵が捕りそこなうと、スタンドから
ヤンヤノ喝采が甲子園球場にこだました。
全盛期の江夏の胸のすくような快速球、田淵の放物線を描く芸術的な美しい
ホームランには、酔いしれ歓喜したものです。
この黄金バッテリの活躍が、1970年代の「猛虎」を魅せてくれた至福のときは
数え切れないほどある。
江夏の胸のすくような剛快速球、田淵の放物線を描く美しいホームランに酔い
しれたものです。
(ここまでは、好投の岩崎が一挙に崩れるまでに記述)

実は今日のイヴェント情報は以前から知っていて、「甲子園行き」をカレンダー
に控えていたが、他の事情で調整できず頓挫した。
入れ込んで応援したときによくある悔しい負け戦でした。

(←ブログ2015・3・28 「阪神タイガース初戦逆転サヨナラ!」 959)
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(←    2015・8・14 「虎が躍動してきた!」 1100)

2015年8月29日土曜日

夏の終わり              1115

40α年前「東京タワー」入口(影:Pen)
暑い熱いといっているうちに子どもたちは、二学期始業の9月目前。

そんなとき、夏に田舎で遊んだり、墓参でクルマ手配など配慮してくれた弟たち
に感謝していたところ、、、彼から「何十年ぶりに本当にたのしかった。40余年
前に息子たち従兄弟どうし、Gyoとトモが仲良く遊ぶ姿をみてきた時代から、この
夏はさらに一世代下の孫、ハルとタケルたちがつっぱり合っているのを見るにつ
け、昔を思い出し感慨深い気持ちになった」と、しみじみと言ってきた。
僕も全く同じ思いで、家族の周期も中心も移行していることを実感させられた。

写真が同封されていたが、昔の風景と若かりし自分と人の賑わいがカオス状に
立ちのぼる気がした。
身近なもの同士へ「ありがとう」の伝え方は、電話やメール、ファックスと手っ取り
早い方法が多々あれど、やはり封書や葉書で受けると一層増幅されて記憶とし
て残る。

2015年8月28日金曜日

心待ちの同期会           1114

(2015・8・28影:Tab)
いまや定例になった「船中同期会」の会食に出かける。
一人、亭主が急病で出られなくなった事情の連絡あり。

夏の中学校同期会が東京駅八重洲地下街のJ亭であった。
出席者の女性と対座したノボちゃん、愛称を言いながら「久しぶりに逢うと元気
になるだなア」と、女性陣を喜ばす。
今日の集まりでは、3人が8月誕生日で、不参加の彼女曰く、「誕生日の祝いに
私の分食べてください」と、、。(電話)

生ビールで乾杯!
料理のメイーンは太刀魚の陶板煮。ほかに、鯛の生き造り(可哀そうと!女性
陣)、海鮮天麩羅、海鮮とうふサラダ山盛り、ウグイスマメのちらしめしメニュー。
太刀魚のぶつ切りを野菜に絡めて蒸し煮した料理は初めてだった。
夏のいまが旬の魚らしいが、似た形のアナゴの話に発展する。アナゴを焼くか
煮るか、岡山と東京の違いの薀蓄に及ぶ。

女性陣は、かわらずよく旅行に出かけている。
最近、裏磐梯に一人で出かけ、湿原ツアーに参加。その前に、三保の松原から、
日本平、久能山へ。
僕は岡山(倉敷市水島)に長期逗留し、船穂、柳井原でみた風景の変容をめぐ
ってしゃべる。
みなに、中学時代の瀬戸内感覚を聞いてみる。
海水浴は沙美(日本最古の海水浴場)だったかな、、、船穂は高梁川河口で海
に近いにもかかわらず、意外と海に行っていないと聞き、驚き!

さらに、親のこと、お寺さんとの付き合いのことが、これまでの会話と重複しなが
ら出る。
昔の75歳はほんとうにおばあちゃんだったが、その歳になったことを実感しつ
つ、「いま、亡くなった母親と同じ歳になってはじめて、もう少し手紙など出して
おけばよかった」と、おんなともだちの語りをしみじみと聞く。

(←ブログ2015・3・25 「新春<船中>同期会が」960)

2015年8月27日木曜日

瀬戸内海に浮かぶ「大槌島」    1113

瀬戸内の大槌島&小槌島
瀬戸内海に「大槌」の名がつく島があることは数年前に知った。
そして、隣には兄弟のように「小槌島」がならんで浮かぶ。
勿論、岩手三陸の大槌町(小鎚)から、連想して惹きつけられたのだが、、、。

オオヅチ島は、岡山県玉野市の渋川海水浴場から近いことを知って、今夏に
も渡船してみたいと思っていた。
ところが、墓参やレジャーにかまけて次の機会になってしまった。

現在、この島は無人島で島の中心南北に岡山(北側)と香川(南側)の県境が
通っている。
島が在る海域は、岡山側本州と四国の距離がもっとも狭まる部分であり、島
自体も瀬戸内両岸から真ん中に位置している。
島の周辺海域は、サワラの産卵場として最良の魚場であり、それぞれの漁師
の働き場所として昔も今も変らない。
今夏、遊んだ下津井沖合い3キロの「六口島」からも見える距離にある。

2015年8月26日水曜日

岡山も「うどん県」           1112


東京に出てきてアレッと思ったのは、食生活で圧倒的に「蕎麦屋」さんが多く
目に付き、「うどん屋」さんがまれだったこと、、。

今夏の帰郷で昔と変わることなく、倉敷はうどんの暖簾がかかっている食べ物
屋多いのを再確認した。
弟は、一日一食はうどん食だといってはばからないうえ、日常食であり昼食の
定番としているようだ。
街中を車同乗で走っていて、この店はうどんの腰がつよいとか、だし汁にアゴ
イワシ使用が効いているとか評価してくれる。その筋で何軒か一緒したが確か
に美味い。
そして、うどんはシンプルに食するのが肝心で、「かけうどん」に剥き昆布のせ
が最高の好み!

先に東京に帰るGyoを新倉敷に送りがてら、駅前のセルフシスティムの「白神
のうどん」を弟の奢りで食べたが、安くて格別に美味しかった。

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(     2014・5・18 「
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「教師の家」              1111

サイパンの「教師の家」(影:Pen)
サイパンで教鞭をとっていた父たちが住んでいた寄宿舎・「教師の家」の写真が
出てきた。

サイパンに在っても、木造建築で日本風家屋になっている。
床上げされているのは、熱帯特有の湿気から守るためだろう。裏口に見える箱
は貯水桶で、水が超貴重だったことがわかる。

さて、父はサイパンでの3年間、どんな経験をして精神状態はどうだったのか、
聞き取ったり、書き留めてこなかったので想像するしかない。
父が8歳のとき祖父(親)を亡くし、苦しい生活のなかで母親に育てられ、岡山師
範学校を卒業。郷里の尋常小学校で教員生活をスタートしながら、間もなくサイ
パンに行く決意をしたことになる。(→続日)

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2015年8月24日月曜日

処暑                  1110

処暑のゆず(2015・8・24影:Can)
昨日が七十二節気の処暑でした。

季節の変わり目を表現した言葉通り、酷暑から一転して、昨日今日と涼しさを感じ
るようになりました。
日録をつけている爺(祖父)に、ハルが夏休ワークの「日記」をまとめて記すべく、
天候を聞く頃になって、夏ももう終わりか、、、と思せるそんな日です。
前の節気、立秋には字面から違和感があって、さわやかな秋になるどころか、暑
さが増して日差しが衰える気配を感じさせない変わり目です。

そして、処暑を過ぎると二百十日、二百二十日で台風襲来の特異日とされている。
いまも台風15号が猛烈な勢いで石垣島に到達し北上中。

(←ブログ2014・8・31 「処暑、暑さがやむ!」 749)

2015年8月23日日曜日

8月の記憶              1109

3・11/17時 江岸寺と消失した「家」
東日本大震災から4年半になろうとしている。
8月上旬から倉敷に帰郷していて感づいたことがある。

この度の縁者一同集まる席で、ヒロシマ被爆と神戸淡路大震災には触れるが、
3・11東日本大震災の記憶には温度差があるように思えた。
倉敷は、広島、神戸が隣なのにたいして、被災地の三陸地方大槌は1600キロ
はなれた遠い土地と云うことにになるのかもしれない。

ところが、震災前に釜石から八戸の陸中沿岸部を陸送の仕事で何度か走ったこ
とのある弟は、TVで巨大津波の映像を見た衝撃がいまだにトラウマになってい
ると、いうこともある。
日頃、交流のすくない弟のこと、直接の被災にあったわけではなく、いろいろなか
たちで精神的ダメージを受けた「記憶」があるようだ。

ヒロシマ被爆の祖母の従姉が抱えつづけた傷痕の記憶、、。
父から、サイパンと敗戦について多く聞くことはなかったが、その記憶を自らに閉
じこめたまま40代でなくなったことを思うと残念でならない。
戦争が、大震災がひとのその後の価値観や生き方を、一変させることがある。
古稀半ば過ぎの今年の夏は、メルクマールになる日をあらためて気づき、強く意
識させられたように思う。

2015年8月22日土曜日

津山城址からも眼下に吉井川   1108

明治廃城前の津山城天守
過日、菩提寺(上野寺)から見える「吉井川」が、13歳頃までの遊び場だったこと
を懐かしく記しました。
実は、そもそもの菩提寺が津山城址の近くに在る。祖父より前の代々の墓所とい
うことになります。

倉敷が第2のふるさととするなら、津山・奥津が第1の故郷になります。
この夏は、年のせいか、行くところ所で風景のなかに佇む時間が長く感じました。

桜の時季に母に連れられて登った津山藩の城址は、市内の「鶴山」の頂きにあっ
て、眼下にはかつて高瀬舟でにぎわった吉井川です。
当時、高瀬舟こそ見られなかったが、夏には古流の泳法披露や花火大会で町に
人があふれる様を想い出します。

その川と並行して走る「旧出雲街道」に残る城下町を抜けて、中国山地に向かっ
て40分ばかり山間を走行したところが津山の「奥座敷」、奥津です。

(←ブログ2015・8・19 「菩提寺から見下ろした「吉井川」」 1104)

2015年8月21日金曜日

出版業界紙雑感           1107

御茶ノ水丸善特集棚(2015・8・21影:Tab)
・又吉直樹『火花』120万部突破!
 100冊読んだら読書好きになる、コメントいいな!
・イオングループ「未来屋書店」とダイエー傘下のアシーネ合併で340店超の
 新生未来屋書店誕生。経営の効率化とか。
・友人の「地方小」の川上代表が、連続年つづきの厳しい決算報告と、「~何と
 か今後も地方・小出版流通センターとしての役割を果たして行ける道を模索し
 たい」と。そのために健康を損なわないように。
・週間ベストセラー欄に目を通す。先ずは、洋泉社の本を注視する。『世界鬼才
 映画監督列伝』や『狼たちは天使の匂い』をベストで見かけるとうれしくなる。
 また、知人の小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』(筑摩書房)を発見すると、
 読んでみたくなる。
・大阪屋の経営危機からの再建進捗や栗田出版販売の法的整理で表面化した
 「制度疲労」の深刻さ加減を知る。もう、20年来いわれ続けてきた出版市場の
 縮小傾向も来るところまで来た感じがする。
 このような現状で、一石を投じる動きもある。取次依存を脱した自前の物流拠
 点をつくる、こんどこそリアルな動きにみえるが、、、。

2015年8月20日木曜日

ボトックス注射             1106

すずらん通り裏「さぼーる」(2015・8・19影:Tab)
ボトックス施注で4ヶ月ぶりに御成門の病院に出かけた。

思うに、いまかかりつけのサカイ先生になって11年余になる。その前に、S先生
に危険をともなう施注治療について丁寧な説明を受け、身内の確認を了承して
開始した経過を加えると15年近くボトックスのお世話なっていることになります。

今回は、神経ブロック・ボトックス注用50(単位)を使ったと、記されていた。
15年前の見立てが間違っていないことを再確認させられた。
原因は、顔面神経が脳から発信する部分で、脳内を縦横に走る血管あるいは小
動脈によって圧迫することによって起こる。

治療法を三つ提案された。一番は圧迫部分を手術で除去する選択。危険で決断
が難しい。次に内服薬での治療が一般的らしいが、疲労感と効果に疑問。そして
僕が決断したボツリヌス治療ですが、長年の経過のなかで障害なく満足している。

先生の施注に要する時間が、かつて休眠調整時間などで一時間以上かかった
がきょうは10分程度で終了した。事例の蓄積と順調を示すカルテのたまものだ
と思う。

帰りは気分よくなり神保町に出て三省堂本店により、「さぼーる」でむかしながら
のボリュームいっぱいの「ナポリタン」とコーヒーで一時を過した。

(←ブログ2014・1・30 「眼瞼マヒにボトックス注射!」)

2015年8月19日水曜日

「うな正」の蒲焼!          1105

神田・うな正(2015・8・19影:Tab)
早朝から一ヶ月ぶりに都心に出かける。終点の東京駅まで直行したところ、三鷹
駅あたりから熟睡していた模様。乗り越しでなくてすんだ。

恒例行事になっている田舎同期会の場所決めするため八重洲地下街へ。
ここのところ、ずっと行きつけの海鮮割烹店を予約し、旬の「太刀魚コース」を頼
んだ。

次に、久しぶりの神田西口商店街ぶらり歩きで、鰻の「うな正」へ。
以前、会社が神田錦町のころは、月に2、3回は名物の「うな丼」を肝吸いつきで
食べた。
朝からファミリー総出勤で仕事を分担して、届いたばかりの活ウナギをさばき、串
刺ししたりする威勢のいい姿を、通勤途上で見かけた。
お店内メニューのほかに、店頭売りがあって、毎日の仕入れ値によると思われる
が、グラム単位で売値が変動するのも良心的に感じている。

串買いをしたところ、お店の娘さんが「大きめの串を入れておきましたから」と、微
笑みながら手提げパックを手渡してくれた。

菩提寺から見下ろした「吉井川」  1104


書影『美作ノ国吉井川』(講談社・刊)
美作「吉井川」のそばで育った。

小学校への登下校は川両サイドの道づたいでした。
歩いて40分ほどの場所に、6年間通った「泉小学校」があった。
登校は部落ごとに列をつくってまっすぐ学校に行くものの、帰りは自由時間で遊び
友達と川原で水に入ることがしばしばあった。
夏は、家に帰り着くなり玄関にランドセルを放り投げて、さっそく水遊び、魚捕りに
熱中するのがあたりまえだった。
川はごく身近にあって、開放してくれる場所でした。

だからいまだに羽村堰や周辺の多摩川に気が向くまま出かけます。
川岸でぼけーっとして、子どもたちをながめたり、ミズドリを見たり、その日々で違
う水流の光景があきさせない。
さらには、「風船旅」にでて、初めて見る川や海、見知らぬ場所での生活者との出
合いで触れる開放感にも通底するものがあります。


2015年8月17日月曜日

倉敷/ホルモンかお好み焼きか! 1103


弟の招待で鉄板を囲んだ「お好み焼」は美味しかった。

自分たちで焼かず、プロママの目で海鮮と豚焼きのキジをブレンドしてもらい、
絶妙の火加減で表面はふっくらと中は蒸し野菜と具がジューシーに焼きあがっ
た独特な食感を堪能しました。

隣では、お好み焼好きの地元の常連らしき二人組みが、うどん粉と具が合わさ
った生地を匙ですくって流しながら丸く盛り上げていた。
昔、車屋(親戚の屋号)の曾祖母ちゃんが、うどん粉に砂糖を水だけで混ぜた
「ナガシ焼」をおやつに作ってくれていた。熟したフライパンに油を敷いて、名前
や「へのへのもへじ」を書かせてくれた。

お好み焼のルーツは探ればさぐるほど星の数ほど多様に出てくる。
染太郎焼き、おかやき、三原焼き、新橋焼き、文字焼き、もんじゃやき、手ン手
焼き、どんどん焼き、モダン焼き、とん平焼き、、、。

(←ブログ2014・3・8 「悠久の倉敷小運河!」572)
(     2014・5・18 「玉島駅と新倉敷駅」644)
(←ブログ2015・3・5 「倉敷から」937)
(←    2015・3・9 「虎舞/星野仙一記念館前ステージで舞う!」940)

2015年8月16日日曜日

1945*815              1102

米軍サイパン上陸地点(影:Pen)
アジア・太平洋戦争の敗戦(終結)から15日で70年。

戦後、ずっとあの無謀な戦争になぜ日本は突っ込んでいったのか、なぜとどま
ることができなかったか、、、。
戦後70年くり返し問われてきたことだが、これからも問い続けなければならない。
時の指導者がダメだった、や軍部悪ですまされない、社会の熱狂、全体主義に
傾斜していく、自らの自戒をみつめていきたい。

僕自身この一年、父が同和教育の一環としてすすんで南洋のサイパン小学校
に、なぜ赴任までしたのかその深層を追っています。
また、いままで関心のうすかった「満州」に引き寄せられて、小説『満州国演義』
や満鉄、満映関係の書籍を読み続ける破目になっています。

(←ブログ2013・8・15 「8・15敗戦記念日」)
(←ブログ2014・8・15 「69回目の敗戦を記す日」 733)


2015年8月15日土曜日

5年めを迎えるお盆          1101

城山から(2015・7・21 影:広報大槌)
定点観測している大槌町城山の中腹に義娘たちの菩提寺がある。

5年目のお盆を迎える大槌町の人、町を出ざるをえなかった被災者たちは、いろ
いろの思いと想いを抱えて墓参に集ってきている。
一年ぶりのお盆帰郷は、すっかり昔の地図からは消えた「嵩上げ」の台地を見て、
なにを思うか、、、。
新しくできる未来の町の予想地図を見て、少しでも交流の再興が叶うことをねがう
ばかりです。

大槌町まで東京からおおよそ800キロですが、今年の墓参は、同じ800キロでも
西の岡山県津山の菩提寺でした。

(←ブログ2014・8・12「大槌町と大槌湾 7月の定点写真」730)
←ブログ2015・4・13 「震災から4年 定点観測」977)
(      2015・5・15 「復興予算 一部被災地自治体の負担に」1009)
(      2015・6・12 「中心市街地再生計画動き出す!」1037)
(     2015・7・12 「大槌湾からアメリカ西海岸へ漂着!」1067)


2015年8月14日金曜日

虎が躍動してきた!         1100

藤浪晋太郎勝利インタヴュ(2015・8・14 影:Gyo)
Gyoが今シーズンめずらしく阪神タイガースの応援に神宮に駆けつけていること
がわかった。

鳥谷が連続試合とフルイニングを継続中!
鳥ライト前クリーンヒットのフォトメールをくれた。
藤波晋太郎、3年連続2ケタ勝利、江夏以来46年ぶり。
7対3でタイガース勝ち!

8月6日の広島球場でカープに勝って以来、一昨夜はまさかの坂、昨夜は秋山、
Gyoが神宮球場で応援したこの夜は江越が。若い駒が日替わりで躍動してきた。
4コーナーをまわって直線にさしかかってきている。
油断大敵! 一気に走りぬけろ!

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2015年8月13日木曜日

盆開き                 1099

菩提寺境内の槙
今夕、「盆開き」をしました。

田舎では、お盆と正月というようにお盆は一年の中で大きな行事です。
旧暦の時代は、7月15日を中心とするものでしたが、田舎では月遅れの8月に
行なう風習でした。東京でもこのしきたりに従って、きょう簡素化した「精霊棚」で
迎えました。
昔のように山から採ってきたオミナエシやキキョウはないがユリが活けられた棚
でお線香を焚きました。
夏休みで倉敷に行き帰京したハルも羽村に帰ってきて、さっそく真面目顔で手
を合わせていた。

遅ればせながら明日、野菜で作ったナスとキュウリとトウモロコシの馬や牛を飾
ってやろうと思う。
幼少の頃、菩提寺の「千年槙」を囲んでにぎやかに盆踊りに興じた日を想い出
した。

(←ブログ2013・8・13 「お盆の風景」)
(←ブログ2014・8・13 「お盆の入り」 731)
               「も少しお墓参りについて」 732)

倉敷市は広い!           1098

鷲羽山から下津井港を望む(影:Pen)
倉敷市といっても、エリアは広大です。
「倉敷」エリア、水島、玉島、児島、船穂、真備六エリアがあり、僕が十代に
過ごした頃は、「倉敷」以外、それぞれ独立の市であり群の一部でした。

1967年に旧倉敷市・玉島市・児島市が新設合併して、新たな衛星都市「倉
敷市」となった。
こうして地域別に見てみると付き合いに濃淡があり、生活したのがわずかに
もかかわらず、印象に残っていることは多い。

旧倉敷は言わずもがな、玉島は中学校の隣町で友人と映画館通いをしてい
たし、海水浴場や、好きな「ままかり」や「アミ塩辛」の海鮮問屋があった。

また、わが家のあった船穂町(柳井原)の果樹園の丘を越えると遣唐使吉備
真備ゆかりの地で、金田一耕助を初登場させた横溝正史が執筆したところ
の真備町でした。柳井原にも「横溝」姓が数軒あったナ。

弟たちが住んでいる水島は24時間輝きつづける一大コンビナート。戦中は、
軍需産業の拠点で米軍の空襲にみまわれ焼け野原と化す。

そして、児島は1960年代半ばに国産ジーンズの製造がスタートして現在で
は、デニムの聖地になっている。僕も「桃太郎ジーン」を買った。
むかし下津井海鮮問屋で栄え、いまは漁業と島めぐり遊覧船港町でもある。

2015年8月11日火曜日

美観地区の濠渠と白壁       1097

山陽本線倉敷駅(2015・8 影:Can)
倉敷の街散策のつづき。
僕が船穂町(現、倉敷市に編入)に居たころは、「倉敷大原美術館」周辺をまだ、
「美観地区」と呼んでいなかった。

いまでは、重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
木造洋館の倉敷館(旧倉敷町役場)、倉敷民藝館、日本郷土玩具館、倉紡記念
館、倉敷アイビースクエア、オルゴールミュゼ・メタセコイア、倉敷考古館、有燐荘
(非公開)、大原家住宅(非公開)、、、。中国銀行倉敷支店倉敷本町出張所の、
ステンドグラスの窓が美しくて見惚れる!

濠渠といっていい倉敷川の畔から、「鶴形山」南側の街道沿いに、なまこ仕様の
白壁の屋敷や蔵や塀、古民家が密集し、天領だった時代からの街並みをしっか
り残している。
このあたりは、江戸~明治の頃は倉敷川の荷揚げ場の中心で、当時からの石段
が残っている。対岸には、かつて行き交う船を照らした常夜灯がそのまま鎮座し
ている。
倉敷の町家、古民家の典型は、白漆喰壁に腰板張、主要部に瓦となまこ目地、
倉敷窓に倉敷格子戸で、どこのお家も統一されているから見事です。

10代、20代の頃は、倉敷の町のよさを美術館だけで素通りしていたが、いまは
違う。時間さえあれば何度周遊してもあきることのない広がりと深みがある。
倉敷中心街は空襲に遭遇することなく、いまがある幸せをかみしめたい。





2015年8月10日月曜日

久々の倉敷散策           1096

現在は「ぶっかけうどんの<ふるいち>」(2015・8・2影:Can)
かつて、中学生半ばから高校時代よく遊んだ倉敷の街なかのことなど。

さきに、よく通った旧映画館についてふれたが、ここでは倉敷駅を背にして交差
点から倉敷戎(えびす)通りから本町通りを歩いてみる。
ロータリーの脇に、まだ「古市」の懐かしい看板があった。高校下校途中、いま
の時季なら山が崩れるほどの小倉アイスかミルク金時を、寒いときになると小倉
あんいっぱいの太鼓焼きをよく食べたものだ。
(現在は、<ぶっかけうどん>発祥の「ふるいち」になっている。)
このときの名残か、東京に出てからも高田馬場駅近くの焼きそば屋の大盛小倉
アイスを好んでたべもした。

美観地区に入ると堀割に沿って柳並木が現れてすぐに、「大原美術館」本館の
玄関部分が目立つ。
伝統の古式家並みのなかでは、ギリシャ神殿のような本館玄関は一見唐突に
見えるが、倉敷文化そのものである。
「倉敷紡績」の大原孫三郎の下で、画家の児島虎次郎が西洋や中近東、中国
の美術収集したはよく知られている。
美術館入口となりの喫茶店「カフェエル・グレコ」は退館して一服する処。
絵画はもとより、建築から彫刻などいつ来ても見飽きることはない。


2015年8月9日日曜日

倉敷の白桃              1095


僕は中学一年の夏に岡山の山間部から、船穂町(現倉敷市に合併)に転校した。
その後、東京に出るまでの6年間、倉敷で過した。

住んでいた野山の一面が果樹園で埋まっていた。両親が教員だった関係で四季
折々の果物や野菜を隣近所からご相伴にあずかりました。
山奥から、一気に「都会」に出てきて食生活文化が一変したように思いました。
今頃であれば、畑に転がったスイカを手刀で割っていただいたり、桃やぶどう房を
もいで手渡されたのを、その場でごうかいに口に頬張った日のことを想いだす。

なかでも、岡山の「白桃」は「水蜜桃」ともいわれ天下一品です。桃が店頭を賑わ
す時季になると倉敷の田舎をかならず思いだす。
岡山は赤リンゴ以外なら何でもありの「フルーツ天国」といわれ様々な果物が食べ
られる。
アレキサンドリア・マスカットも知られているが、超美味しいのは瀬戸内独特の気
候によって熟成した「白桃」である。
旬のなかの旬の時期の選りすぐりの白桃を姪っ子が届けてくれ、皮を手でつるん
と剥いて食べた。

菩提寺へ                1094

上野寺下の清流吉井川と県道(2015・8・7影:Can)
美作津山の奥に在る一番の菩提寺に、一週間早い「お盆」参りをしてきました。
倉敷からは、「瀬戸内道」にのり「中国自動車道」を経て県道に下り、さらに山間
を走って一時間半ばかり墓参に要します。

僕にとっては、「盆と正月」という季節の儀礼が残っているぐらい、子どものころ
から欠かせないやすらぎの事だった。
父と母との生活が希薄で、祖母と過した日常の残滓がよきにつけあしきにつけ
こびりついている。

先祖とか、子孫の霊魂を信じるわけではないが、「お盆」を通じていまは亡き人
たちを想える死者儀礼になっています。

2015年8月8日土曜日

夜のアナゴ釣り            1093


ウナギとならんで夏の定番つり魚、アナゴ。

弟たちはGyoやハルたちをつれて、夕方から潮の満ち引きを計りながら、倉敷
水島港湾の埠頭で夜釣りを楽しませてくれた。
つりの腕前を見せてやるとばかりに張り切っていたが、大型船が入港したり潮
の関係などから、なかなか派手なパーフォマンスができなくて悔しそうだった。
坊主になる最後の瀬戸際で、30センチ長の太いアナゴをゲットでき、やっと面
目が保たれた。

埠頭に釣り上げたアナゴが、針を外されると勢いよくクニョクニョ這いずり回り、
ハルは捕まえるのに大興奮していた。忘れられない夏休みの体験となったと
思う。
その場でさばいた一本を、家に持ち帰り白焼きにして一切れずつ肴にしたが、
ウナギに比べて脂肪が少なく最高に美味でした!

ウナギと同じで、近年、産卵の時期や場所といった謎につつまれていた生態
が解明されつつある。


年寄りの冷や水            1092


飛込み/瀬戸内海六口島(2015・8・3影:Can)
六口島へ。
8メートルの断崖から飛び込む!
逡巡すること30分以上、ハルのカウントダウンで決死のダイヴだった。

倉敷下津井港から沖合い3キロの「六口島」。
周囲1キロの小さい島は、降りた近くに民家一軒と海水浴の民宿があるだけ。
島民は、かつて80人余りいたが、いまは7人だけ。

夏のいまだけ、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる島になる。
都会からのGYOやハルを迎えて、甥っ子がチャーター船をしたてて瀬戸内海の
島でのバカンスを計画して待ってくれていた。
砂浜でめいっぱい遊び海水浴を楽しみ、食事は生け簀のタコやメバルに貝類を
さばいた料理で昼飯だ。 
このスローライフいいなァ!

2015年8月7日金曜日

地下壕に戦争の痕跡         1091


トンネル入口(2015・8・4影:Can)
弟の住いが倉敷水島地区にあって、近くにカメの形をした小山、「亀島」がある
ことは知っていた。
この高さ80メートルの山の下に「全長2000メートルにおよぶ、航空機製作の
軍需地下工場」があり、地元の高校生が調査の先鞭をつけた、との記事を見て
いた。この夏の滞在中に是非、亀島山の周辺を歩くことを計画した。

今回は、管理者に前もって申し入れしていなかったので、砂岩をくりぬいた入口
から中を覗くことしかできなかった。
飛行機を製作する広さを有する規模からして全国でもめずらしい大きさのモノ。
鍵がかけられた鉄門のちかくに住む男性の話だと、碁盤の目のように幾重にも
トンネルが走っていて、戦後はその中で遊んでいたと、、、。
トンネル内を見ることができたら、生々しい掘削跡やトロッコの枕木跡や機械の
残骸などから、当時の厳しい労働環境を語る無言の力を感じただろう。

いまでは、自動車生産や製鉄知られる倉敷水島の一大工業地帯になっている
が、ルーツの始まりは小山にあるようだ。
車で走っていてわかった事だが、カメの形の尻尾の部分はバイパス道路でぶっ
た切れていた。

2015年8月6日木曜日

8月6日は暑い夏の日        1090

故郷(2015・8・6影:Can)
昭和20年8月6日の日の出は、午前5時24分、朝から暑い夏の日でした。
70年後のきょうも朝から猛暑です。

倉敷の弟宅に来ているが、ずっと続けてきたように8時15分になると首をたれて
黙祷しました。
アメリカ軍が、テニヤンから飛び立ったB29で広島に人類史上初の原子爆弾を
投下した日から70年の節目と、岡山県倉敷で「山陽新聞」や中央紙の地域版、
テレビを朝から目にするせいか、大半がヒロシマ特集になっていました。

戦争を体験していない人が多くなってきた今日、若い10代の子が「体験はないが
伝承されるものから想像することはできる」と、戦争の悲惨な死の原因に目を向
けることは大切だと思います。

(←ブログ2012・8・8 「67年目の<原爆投下>」)
(←ブログ2014・8・6 「8・6<広島平和記念日>におもう。」724)

2015年8月3日月曜日

倉敷駅前をあるく。          1089

倉敷東映跡(2015・8・2)
倉敷は僕にとって第二の故郷です。
中学と高校を過ごしたところですが、色々の思いでがあります。

倉敷大原美術館によく行っていたことはこれまで何度か記したが、映画館にも入
り浸っていた。倉敷駅前に洋画封切り館「三友館」があり、センター街に「倉敷東
映」、さらに戎通りにっ「大映」があった。

2015年8月2日日曜日

写真/サイパン熱帯植物園*木と花④1088

サイパン熱帯植物園は、天井がない自然園で、人もほとんどいなくて開放感一杯
でGood! この日は曇り空で、外遊にはすこぶる快適だった。

(影:Pen)
【タコノキ/タコノキ科】上左
木根をタコ足状にのばすことから名がついた。株はパイナップル状の実をつける
が、食用になるものは少ない。葉をロープや籠などに利用する。

【ビンロウジュ/ヤシ科】上右
マレーシア原産。緑色の実は熟すと赤か黄色に変わる。南洋の島ではこの実に
石灰とタバコを混ぜて、ガムのように噛む習慣がある。

【ツンベルギア/キツネノマゴ科】下左
西アフリカ原産の低木。サイパンではラッパ型のむらさきの花を一年中つけ、垣
根などに使われる。

【パンダ/ラン科】下右
東南アジア原産で白のほかピンクや紫など約30種類ある。木根をだして他の木に
着生し、空気中の水分だけで成長する。

(←ブログ2015・6・28 「サイパン熱帯植物園にて」1053)
(←    2015・6・29 「写真をめぐる/「サイパン熱帯植物園/木と花①」1054)
(←    2015・7・7 「サイパン熱帯植物園/木と花②」1062)
(←    2015・7・16 「サイパン熱帯植物園/木と花③」1071)

2015年8月1日土曜日

古代縄文ハス             1087

縄文ハス/羽村市根がらみ(2015・8・1影:Can)
早朝6時に、羽村根がらみの蓮池に立つ。
既に何人かが、朝陽を浴びて花開く「大賀ハス」の姿に魅入っていた。

ハスの葉に酒を振舞われると、キラキラと輝く水玉になる。
のど越しとともに、2000年前に咲いた太古のロマンが甦る気分に浸る。
「泥より出でて、泥に染まらず」。

ハス田の近くに割烹旅館「玉川苑」があり、庭園で野点ての最中だった。
外人が浴衣姿で赤い縁台に座りお茶を点ててもらっている様がユーモアたっぷり
に映った。屋外なので作法が簡略化され気安く処せるたまものか。

この天上の蓮を見たくて、倉敷への帰郷を一日延ばした。

(←ブログ2014・8・10 「水田に咲く太古の<大賀ハス>」