2014年5月31日土曜日

漆掻きと轆轤と漆器職人           657


京都の奥丹後で轆轤を廻す漆器職人の友人・大益君がいる。
漆器職人は自ら山に入り漆の木を見つけて育てたり、「漆掻き」をしてこそ、本物の
職人芸に見えてくる。

前の東京での個展では、漆を掻く道具類(腰鎌→漆掻鎌→掻べら→漆壺)と、使い方
まで教わった。長い年月と重労働の末に、貴重な日本産漆樹液が採れることを知り
感動したものだ。彼の話しでは、中国産が多いなか、自家製は表面が丈夫で強く剥
げにくい特徴があると。住まいの工房近くの山だけでなく、千葉や新潟村上の山に
分け入り、漆の木を探して採集する職人魂はすごい。.
そんな素材から生まれる漆器を実用的に使うには、ちょっと勿体ないが、永久に使
える代物です。

輪島の特産品、輪島塗と、その専業「漆掻き職人」の担い手不足が深刻な現状をレ
ポートした記事をみて、彼の仕事ぶりを想い出した次第です。
ただし、僕は「漆掻き」を誘われても、残念ながら到底できません。子どもの頃、漆の
木に近づいただけで体中に発疹ができて高熱にうなされたことが、一度ならず二度、
三度ある。
(ブログ:2013・11・30「京丹後の友人と」/2013・9・17「丹後の仙人、友人を陣中見
舞い!」)

2014年5月30日金曜日

ハルの朗読。                656


声を出しながら文章を読むことを「音読」といい、「朗読」には、さらに感情を
込めて読み上げる要素が含まれると教えられてきた。
これまでも読み聞かせはしてきたが、とんと、朗読を聴くことから遠ざかって
いた。

ハルの朗読を聴いた。自宅で、朗読をくり返し聴いてもらうのが宿題らしい。
前に「太郎の友だち」の朗読を聴いたが、今回は「つばめの巣立ち」を読ん
でくれた。一段と、会話部分とか、擬声を一呼吸をいれての感情移入が上手
くなったように感じた。可愛さが先行して、少し甘いのかなと思いながら、、。

「親ツバメが虫のえさを口にくわえて帰って来ると、ヒナたちは大きな口を開
けて一声に、「ぴーぴー」、と鳴きはじめました。親ツバメはヒナののど深くに
押し込んでやります。~南の国へと長い旅に飛び立って行きます。」と、3分
余の掌編だが、澄んだ歯切れ良い声がなんとも心地良いィ。
孫ならではの、程よい距離感があるからだと思う。

2014年5月29日木曜日

秘境 きりたっぷ岬! 記憶の断層28    655

霧のきりたっぷ岬/つりがね人参&うみねこ(PEN)

厚岸の海岸道路を霧多布へ霧、霧、霧のなかを走る。
さすらい旅、北緯43度さいはての秘境きりたっぷ岬に立つ。
眼下には、太平洋の怒涛が打ち寄せる勇壮な海崖美が魅力的です。

じゃがいも、うどんを食べて、少し元気になったところで、岬の先端を散策する。
僕は花の名前に疎いながら、好きな花「白いつりがね人参」を発見して喜ぶ!
ほかに、アザミや、のげし、シャジン、フウロ、オトギリ草がいっぱい!
先端では、霧笛に驚き! そのまた先にうみねこの島がかすんで見える。

高速道路のような北太平洋シーサイドラインをひた走り、厚岸町に入ると霧は
みごとに晴れる。
東急インホテル内レストランで、やっとキチンと食事ができた。ビールも!

2014年5月28日水曜日

未だに悩み多きパソコン!          654


6月一杯で2年契約のイーモバイル(Wi-Fi)の解約に秋葉原にでかけた。
EMのカスタマセンターに電話して手続きはできるのですが、つながらなかったり、
専用用語を瞬時に理解できず面倒になり、直接契約店へ行くのが手っ取り早い
と思ったからです。
結局無駄な解約手数料を払わず完了するには、再度、7月早々に足を運ばざる
をえなくなった。
とにかく、契約期限を拘束されることと、解約を金銭で換算するとダメージが大き
いシステムになっていることに気付く。

秋葉から取って返して、水曜会に出ました。
ここでも、僕の方から、ワードの一タイトルが消えてしまったことについて、再登場
可能かどうかをめぐって、いろいろサポートしてもらったが。
初歩的問題は、バックアップしないで、次から次へ操作していることに起因してい
る。パソコン内ドライブ上のファイルのバックアップと、動かしてしまったもののバ
ックアップがあると言うし、、、。

他に、IT化がすすむなか、電子書籍の現況、加速するデジタル教科書の現状と付
随するタブレットの教育効果などの話を聞く。


2014年5月27日火曜日

京都高山寺の「鳥獣人物戯画」        653

高山寺・石水院と内部(右)(2000・12影PEN)

高山寺に伝わる国宝絵巻「鳥獣人物戯画」(甲乙丙丁4巻)の修理が2009年に
始まり、昨年3月に完了していることを、新聞記事で知った。

高山寺を訪ねたのは、修理に入る数年前です。
茶髪の若者が、黙々と雑巾がけををしていた姿が妙に印象に残っている。

栂尾山高山寺といい、当山は文化財の宝庫で、鎌倉時代を中心として国宝・重要
文化財は一万点余にも及ぶ。その、建築、彫刻、器物、古文書や、絵画のひとつ
「鳥獣人物戯画4巻」に惹きつけられた。
この絵は、平安から鎌倉時代の作とされ、作者や制作意図は不明だが、色々な
推理があって興味深い。
墨の線で擬人化したサルやウサギ、カエルなどの動物と人物が遊ぶ様子などが
描かれている。

花田清輝の小説にこの絵を借用したとされる、戦国を生きた武将たちの懸命な姿
を擬人化した『鳥獣戯画』があるが、読み返してみたくなった。


2014年5月26日月曜日

柿の葉寿司で薀蓄!             652

新宿旧コマ跡地に建築中(2014・5・26影)

今夕の集まりに「柿の葉寿司」を持参しようと思っていたが、ちょっと鯖ネタが心
配でひかえたところ、ブログを見た人に案の定ご相伴にあずかれると期待してい
て残念がられた。

4人中4人が、食したことがなく、富山の鱒寿司の笹が柿の葉に替わった姿をイ
メージするようでした。
わが家の作法は、採りたたの柔らかい柿の葉に中型スプーンに一杯の寿司飯
を載せ、その上に自家製の締めたアジ、エビ、サケにアナゴをそえ巻いた一カン
を重箱重ねして、一昼夜寝かせて出来上がりです。
完全に一口寿司なので、普通でも二百個ぐらいはせっせと作ります。

葉ごと食べられるのか、シャリは葉の表裏どちら側に巻くのか、葉は塩漬けする
のか、とかとか質問が活発だった。
葉は新鮮な素葉の表に包み握ります。葉は海苔巻きのように食べられません。

2014年5月25日日曜日

最大の「砂嘴」、野付半島!記憶の断層27  651

ナラワラ&尾岱沼(PEN)
この時期、野付湾で捕れる北海シマエビを特注して、朝食でいただく。
納得、美味い!

依然、体調あまりよくない。
左はオホーツク海、右は尾岱沼の間の道路を先端へゆっくり走る。海水に侵され
風化した枯れ木、ナラワラ、トドワラが、立ち枯れ横たわる奇形を見ながら原生花
園に着く。ペンタックスカメラの電池交換。(レジカメではない。)
ハマナス、ハマフウロ、ツリガネニンジンを見ながら散策して体調がもどった気分
にさせてくれる。

途中根室駅前のスーパーで、りんご、昆布茶、ナイフ、タッパーを購入する。
風連湖を望みたたずむ鶴やウミネコを見ながら、納沙布岬へ。
北海道最初の「納沙布岬灯台」から、霧に霞む歯舞諸島を眺望する。
霧がどんどん濃くなってくるなか、白樺林、牧場、海がかすむ。
さらに、キリタップ(霧多布岬)への道中はつづく。

2014年5月24日土曜日

柿の葉寿司                 650

(2014・5・24影Ca)
庭の柿ノ木の他家に浸食部分を切込み整枝をした。
通常、甘柿は一年おきにできるとづっと思っていた。ところが、毎年成らせるに
は、花芽のある枝を木の半分ぐらいに減らすことが必要らしい。
ただし、この剪定は、1月から2月の作業らしく、花咲き始めた今に至っては時
遅し。Gyoの誕生木で40数年の中樹になってきているが、来年は少しずつ切り
戻ししたいと思う。

剪定の後、、、。
わが家の伝承食、柿の葉寿司を作るために幅広の大葉を採って水漬けしました。
今でも忘れられない「柿の葉寿司」の思い出がある。
洋泉社の第一冊目の埴谷雄高他著『「死霊」論』を刊行した見本日に、祝賀会が
あった。その場のテーブルに、自宅から持参した300個余の真っ青な葉に包ま
れた寿司が並んだ。食べたことのある人、初めて目にする人、葉っぱごとほうば
る人、それぞれが、美味を絶賛してくれた。



柿の葉寿司は郷土料理で、作り方、形状が異なり、主たるネタも様々ですが、わ
が家では 鯖、鮭、海老、穴子を使用しています。
作るのは年に一度、青葉の柔らかいこの時期だけの儀礼食です。

2014年5月23日金曜日

知床峠越え、羅臼へ 記憶の断層26    649     

ウトロの市街を抜けるあたりで、体調を崩す。町のはずれの鮮魚店で氷を手配。
店のおばちゃんが心配して、氷ブロックを袋詰めしてくれる。旅先での親切は身
に沁み、町全体が優しく感じられ、忘れられない土地となる。
ここより、相方Yuが運転を替わってくれる。

オシンコシンの滝


もらった氷で頭を冷やす。日射病かソフトクリームのせいか体調最悪に、、、。

知床半島の羅臼岳麓にさしかかる手前で「オシンコシンの滝」に出合う。頭上の
山襞から大量の水が末広がりにオホーツク海に落下する姿は勇壮!
知床峠より奇怪な羅臼岳、そしてすぐ近くに国後島が見える。知床半島を横断し
て下った所に羅臼町がひっそりと在る。病院を探すも見つからず、とりあえず、野
付半島の宿へ急ぐ。
「知床旅情」で知る羅臼の漁師町をゆっくり歩くこと叶わずでした。

尾岱温泉で体調不良を癒したいところが、一向に治まらず夜半まで頭、首を冷や
し続けるうちに、治まって眠りにつく。
朝、やっと漁港から水揚げされた海の幸に少しばかりありつける。

2014年5月22日木曜日

「ふるさと」とは、どんな場所、、、。     648


幼少の自分が過ごした故郷もそうですが、そこだけでない記憶する精神の拠りど
ころとする古里がある。
子どものころの感性に先祖がえりしているのかナ。

岡山県北部の城下町・津山から我がふるさと奥津温泉へは、クルマで小一時間。
僕が過ごし通った小学校は、温泉街から吉井川沿いにすこし下った所でした。
中国山系「人形峠」を源流とする吉井川が「奥津湖」に入りこむ辺りです。
この湖が紆余曲折の末に完成するには、数十年かかりました。ですから、今では
津山から奥津湖にさしかかると胸騒ぎします。観光客がいても、のどかな田園風
景は消え生活者の姿が見えないからです。

清々と流れていた川のほとりの畑の片隅に、枝ぶりの見事な甘柿が立っていた。
上にうえに木登り遊びするのに恰好な木だった。枝が折れやすく、ポキンと折れて
ドスンと落下したこともあった。柿の木周辺には、真っ赤に輝く曼珠沙華が、春先
に彩りを添えてくれていた。鮮やかに浮かぶ子どものころの風景がよみがえる。

もう一つ忘れられない風景がある。奥津温泉手前に、四季色とりどりの山肌が迫
り眼下に巨石を削る清流が輝く絶景、「大釣渓」がある! そこでロケした、吉田
喜重監督の「秋津温泉」がある。僕が上京して間もない頃の映画で、岡田茉莉子
が初々しく、芥川也寸志から途中交代した長門裕之の演技も冴えていた。
いまだに、8月の敗戦の日に繰り返し観ている大好きな映画。

2014年5月21日水曜日

焼酎 タイガー!イイね!          647

82014・5・21影)

御茶ノ水ビアホールで芋焼酎「タイガー、、、」に出くわした!
恒例の「水曜会」から流れて、白井T君と御茶ノ水ビアホール」で、グラスビ
ールで乾杯して、焼酎オンザロックに切り替えてグィグィ、グラスを重ねた。
未だ、昼まだと云うのに、若い男女からシニア世代まで地下のテーブル席
は埋まっていた。
指定した焼酎、「タイガー&ドラゴン」は、ラベルが阪神タイガース好みで惹
かれた。種子島の芋焼酎で、すごくまろやかで芋の甘味がいい感じで実に
キレがあって自分好み。

御茶ノ水駅から帰路についたが、彼と中央線が一緒なので車中でも話が
弾み、さてさて、立川駅で途中下車することに相成ってしまった。
場所は常連のたまり場、酒亭「玉河」に決まり。
ロングランになってしまって、帰宅すると「白井さんに迷惑。歳をわきまえな
さい」と一言!

2014年5月20日火曜日

流氷の大回転!               646


TVで、オホーツク海で流氷が大回転するスペクタクル映像を見た。
先に、サロマ湖に行ったときオホーツク海の沿岸から沖に向かって泳いだ快感を
記したが、その海を想いながら魅入った。

アムール川やサハリンからゆっくりたどり着く!宗谷岬からサロマ湖まで広がる
広大な海域に、東京23区がすっぽり入る流氷が渦まく幻とされた自然現象。
なぜか、反時計回りに渦巻く現象として現われる。それは、宗谷暖流と地球の自
転に関係すると言う。
この壮大なドラマの空撮を見てていると、宇宙のアンドロメダ星雲を観ているよう
でもあった。

直径50メートルぐらいの渦巻きが、次第に集積して数十倍(20キロ以上)の流氷
大回転に巨大化する光景は圧倒的だった。この底知れぬ奇跡の光景の下で、生
命の爆発があるという。大回転しながら栄養を送り出す、、、。流れているのは氷
の粒、植物プランクトン、アミ、クラゲ、魚の群れが集結してくる。

かつて、オホーツク流氷館で、結構リアルな流氷体験をしている。流氷下の魚た
ちの生態をダイビングしている臨場感で見られた。特に、クリオネを見ることがで 
き、「流氷鳴り」を実際に聞くことができたのだから幸運だ。
流氷の神秘な世界をミクロとマクロで体感したことになる!

2014年5月19日月曜日

柚子の白い花と匂いに誘われて        645

柚子の花(2014・5・19影Ca)

遅いユズの剪定になってしまった。と云うより、深い緑の葉の茂みに見え隠れす
る白い花に誘われて眺めているうちに、隣家と上に向かって伸びすぎている梢
が気になってきた。

ユズの剪定作業は、花芽が出て開花する前あたりがベターなのに、今日になっ
てしまった。まァ、いいか、昨年もこの時期にずれ込んで、収穫200個余あった
から。
わが家の柚子は、ハナユという小粒で小庭にむいている種類。主幹は高さ2m
に切り詰められるが、3mぐらいに伸びている。
今日のところは、込み合っている枝や他家に侵入している枝を間引く感じで切り
込んだ。内部への日差しもよくなって、爽やかになったと思う。

田舎の裏山に柚子の古木があって、御祖母ちゃんが「ユズの砂糖がけ」をおや
つに作ってくれていたが、その木は百年以上の歳月を生き、黄色が陽のように
光り、香りを漂わせ続けているはずです。

2014年5月18日日曜日

玉島駅と新倉敷駅。              644


ノボちゃんと半年振りの一献。毎度同じの、東京駅の「北の浜」で始まった。

お互いの健康談義から、彼が商社時代によく通って飲んだ大手町、新橋の居酒
屋の話題に及ぶと、僕はもっぱら新宿の呑み屋談義に発展していくという具合な
のである。
しかし最近では、飲むのはいいが、出かけるのと帰りがおっ苦になったと、、、。

僕は、津山市奥の田舎から中学二年の夏に倉敷近郊(船穂)に転校編入してい
るので、彼とはその時以降の長い付き合いになる。だが、席を同じくしたのは、た
った1年半ばかりの僅かにもかかわらず、年に数度会って親交をあたためる関係
が、すこぶるイイ。

今日も、いろいろな話題に飛躍して、その一つ、倉敷駅と新倉敷駅と玉島駅の歴
史と名称の変遷について語られ、新しい発見があった。
今の新幹線「新倉敷駅」は、新幹線開通前の1975年までは「玉島駅」だった。
船穂町と隣接の長尾にこの駅が設置されたにもかかわらず、何故「玉島駅」名に
なったのかについての薀蓄を聞かされた。
駅から少し離れたところの、北前船も寄航した「玉島港」が良港として知られてい
たため、「長尾駅」ではなく「玉島駅」となったようだ。
「ままかり」の水揚げも盛んな漁港。
僕が知る頃の田園風景は今やなく、津山に在った作陽大学・芸術大学がこの地
へ移り、学生らの通学駅として1日約8000人の乗降客があり、学園都市駅に変
貌している。

6月には同期会があるのだが、ぼけ防止のため一ヶ月に一回ぐらいは会おうと。

愉しくも、厳しい35年でした。        643


又村さんから、『新宿 でん八物語』(仮)のトビラに使用する挿絵が届いた。
遅れながらも、最終段階にきていることを報告申し上げます。

『新宿 でん八物語』に、船越Hさん・インタビューから──38

三年前までは店長としての責任が大変だったが、今はそれがないだけ精神的に
楽ですよ。
それと、その当時は、息子二人と一人娘の教育費にかかる負担が大変でしたが、
今は、やっと二人が自立して、娘もも少しのところまできている。

ぼくが、18歳で高校を卒業して沖縄(カキノハナ)から東京の兄を頼って上京した
のが、1976年4月7日でした。沖縄が復帰して、、、。
映画が好きで、調布にあった日活映画学校二期生になりました。一方で、東京に
出てきた以上働かざるを得なかったので、アルバイト探していた。
4月30日には「でん八」の応募に応じていました。
それから35年、53歳まで「でん八」の縁一筋、公私にわたって波乱万丈でした。

ぼくは、最初の「でん八」と「そのに」は知らないんですよ。
最初に務めた、「その三」の時の店長は、里木さんがいました。
(今は仙台に住んでいると思う。)
結局、店を大きく展開し始め、ビジネスに向かって転換、飛躍し始める時から関
わったことになるのかなと思います。

社長(アニキ)が登戸の慈恵医大に入院の時は、毎土曜日に見舞っていた。
社長が亡くなった時には色んなことがあったが、やめるわけにはいかない想いと、
イヤだったんですね。長くお世話になって、ハイ、辞めますとは到底言える事では
なかった。
社長とマスターには、多くのことを教わり人生の師として、今でも尊敬しています。
(2014・5・16 東京駅八重洲中央/「初藤」にて)     
                             船越H(前、「傳八」銀座店店長)

2014年5月17日土曜日

船Hクンを訪ねる!             642

八重洲中央口の「初藤」(2014・5・16影ケイ)
昨日は、前々から予定している倉敷(船穂町)時代からの友人と夕刻から会食の
約束があって都心に出た。

その時刻まで、トーハンで一件用事を済ませて、東西線で東京駅に向かうが、更
に一時間ばかり余裕があり、急に、東京駅八重洲地下街の料理屋に勤務する、
旧知の船Hクンに逢ってみたくなった。
丁度タイミングよく休憩時間にあたり、小一時間、「久しぶり、元気でやってる、探
したよ、ここ」。 「ここに来て3年」。

何年か前まで彼が店長の店で、常連客と一緒になって見慣れたメニューを見なが
ら、カウンターかテーブルに座って、会話を交わしたものだ。
また、彼の盛大な結婚披露宴では、主賓として挨拶させられたことがあった。さら
に、奥さんの名前が僕の母親と同名であったりして、一層親しみをました。

彼が大志を抱いて沖縄から東京に出てきたのは、1976年のことです。それから
調布の日活俳優養成所二期生として通いながら、「でん八」の募集に応じて新宿
歌舞伎町店でアルバイトを始めたとのことです。
18歳上京して53歳まで、35年の長きにわたり「でん八」(「傳八」)の現場に携わ
ってきた歴史には重みを感じる。

2014年5月15日木曜日

ワッカからウトロへ 記憶の断層25    641

オホーツク/中央点遊泳中(右)&サロマ湖汽水側(右)
サロマ湖ワッカを正午前に発つ。きれいに舗装された道路からせり上がる牧場の
干し草ロール(直径3メートル位)が幾つもいくつも転がっている風景は圧巻!
続いて見えるジャガイモの緑のなかに咲く白い花のじゅうたんは壮観!
しばらく走ると、トーフツ湖にたたずむアオサギの陰影が映える。

北海道の道路は、幅広くまっすぐに長く延びたところが多くて運転が楽しい。
しばらく、起伏のある路を走り、小清水原生花園に到着。路傍の放牧場で屯する
放牧馬と遊びしばし休憩。

斜里でソフトクリーム。
ウトロ手前で、遅い昼食。かにピラフにかに雑炊を、美味しい。


2014年5月14日水曜日

遅れて読む新聞も、ありがたや新聞!     640

庭先の芍薬。毎年5月15日にピッタリ花開く花時間が不思議!
(2014・5・14 朝影Ca)

今日、出版業界の情報二紙を数ヶ月遅れで一気読み。

勿論、必要に応じて店頭で購入したり、図書館で閲覧するということもたまにあ
るが、概ね便宜を計ってもらっている一括読みですませている。
3、4ヶ月遅れで目にして驚きもあるが、いろんなことが知れて、やはり活字は
イイとつくづく思う。

例えば、その二、三をメモッテみると。
昨年、10月に『谷川健一全集 全24巻』(冨山房インターナショナル刊)が8年
の歳月をかけて完結したが、その編集担当者と巻末対談者の大江修が谷川さ
んを巡って対談しています。(「図書新聞」2013年11月23日掲載)
僕はここで、谷川健一の学問と思想を語りたいのではなく、この壮大な『全集』
の編集責任者が友人の増田政巳君であったことです。
日頃会って聞いていたのは、出版社の校閲・校正の仕事をしていることで、この
大事業に全身でかかわっていた事を知らなかった。(スミマセン!)勿論、かつ
て、『日本庶民生活史料集成』(三一書房刊)の編集者であったことを思えば何
も不思議なことではないのですがね。

次に、訃報記事です。天野祐吉氏が昨年10月に死去されたのは知っていたが、
飯島耕一さんも同時期に亡くなっていたのを、今日届いた古い新聞で知らされ
ました。
飯島さんは、岡山出身であること、また詩人で、シュルレアリスム関係の翻訳者
と云うことで、以前にお会いしたことがあります。

さらに、遅れて読む川上賢一君の連載「地方・小通信」は、身辺雑記を導入部に
業界のことだけでなく多義にわたる見識あるコラムで、楽しませてもらっている。
新宿御苑裏で創業のときから知っているミニコミ・自主出版物専門書店、「模索
舎」の五味正彦さんが昨年秋に亡くなっていることを知ったのも、当「通信」から
です。
近くに、大島渚さんはじめとする映画人が屯していたスナック「ユニコーン」(後に
「おかだ」「AGE」)があって、途中、必ず「模索舎」に立ち寄っていたものです。

大槌町3・11から3年2ヶ月          639

3箇所の嵩上げが見える。(「広報 大槌」)

城山からの定点写真を見ると、少しずつ変貌していく大槌の姿が見えてくる。

変らない緑の山と青い海の自然に比して、3箇所の嵩上げや、埠頭魚市場の新し
い建物が目に付いてくる。旧庁舎のむき出しの鉄骨は取り払われ遺構だけが残さ
れているのも分かる。

広報誌を見ると、大槌町観光協会が名称を「観光物産協会」に改めて活動を再開し
た記事とか、大槌湾に浮かぶ蓬莱島(ひょっこりひょうたん島)に虹がかかるデザイ
ンのポスターで夢と希望を抱かせる発信がなされている。
吉里吉里海岸や浪板海岸で泳いだこともある僕としては、被災地の皆さんのなか
には海に対する鎮魂覚めやらずの思いがあるでしょうが、早い時期に海水浴の賑
わいを取り戻して欲しいと思っています。


2014年5月13日火曜日

その時、県立大槌病院は!          638

311被災直後と一年後。(Ca影)
病院に当たった瓦礫の山からファミリー写真の一部が。

友人三人から、メールや留守電に3・11当日の「大槌病院で何があったのか」、
TV放映するから見ろ、とのメッセージをもらっていた。
10時55分から、大槌病院の准看護士佐々木さんの3・11インタビュー放映!
彼女のことは前にも、何かで知っている気がしたが、、、。

大津波に襲われ、県立大槌病院の周囲2階まで海になっていた。この日は、もう
外には避難できない恐怖の一昼夜になった。屋上に足の踏み場もないほど患者
を寝かせる状態だったと。目の前に漁船が迫り、漏れた重油で火の海に。家が
漂流し窓に突撃して来る。医師と看護士は外を見る恐怖を遮断するように、患者
の世話に一心不乱だった報告されている。

雪降る翌日は、病院からすこし離れた高台にある県立大槌高等学校(娘卒)に移
動した。ただ一つの高校に千人余りの被災者が押し寄せた。患者を必死の思い
で移動して、食事の用意から物資の運び込みに参加。

僕が二ヵ月後に高台の大槌高校に行って見たのは、自衛隊が運動場に駐留し
ている風景だった。子どもたちがグランドで野球やサッカーが自由にできる日は
何時のことだろうと思った。

病院とS家(青上)/菩提寺江岸寺(青中)/大槌駅(青下)

2014年5月11日日曜日

北海道/サロマ湖 記憶の断層24      637



サロマ湖の夕陽(6時45分)に、間一髪で間に合った。
湖面にゆれる炎は刻一刻と表情を変え感動させてくれる。
(冬は雪で被われた白一色の湖面を望むことができる。)

朝、ホテルの湖畔を散策。サロマ湖の水は塩からい。水辺には帆立貝の殻がた
くさん打ち上げられている。

オホーツク海とサロマ湖を隔てる砂州に広がる最大の海浜植物の群落地・ワッカ
原生花園を自転車で一周する。旅して海を見ると泳ぎたくなる習性があって、オホ
ーツク海でも泳ぐ。視界一杯に広がるこの海は雄大だった!
ハマナス、エゾナデシコ、エゾフウロ、シャジン、シシウド、ヒメクルマユリ、サンゴソ
ウなどの多数の固有の草花が自生し、色鮮やかに花を咲かせていた。
その美しさに誘われて、ハマナスの赤い実をカジって、下痢をもようし大変な目に
あってしまったが、、、。
ここワッカの地は、水の湧くところを意味しています。


2014年5月10日土曜日

さよならを 二度と言えない さようなら!  636


飯田橋で降りて、Hグランドパレスでのオープニングの時間まで余裕があったの
で九段下まで歩いて向かった。
3年前の3・11の14時46分には地下鉄飯田橋駅出口を出たところの「珈琲館」
に居たが、今日はウインドー越しにそのとき座っていたテーブルを横目に見て、
プレバックしながら通り過ぎた。

柳田君の死から30日目、今日は代表であった彼の会社が、創業者を偲んぶ宴
を催うした。
葬儀が、家族とごく身近なひとのみで執り行われた密葬であったため、4月30日
のWを中心とする「柳田君を語り合う会」が既に行われており、さらに今日の社の
「柳田を偲ぶ会」と度重なる対応となったようだ。

故人の一生は家族や親族だけの一生ではない。家族が思う以上に、交友が広
かったりするので、会葬者の幅を限定したりすると、後々返って負担が増幅する
ことがありそうなきがする。
1月14日の緊急入院から、時々病院に通って一声を残して退出するくり返しなが
ら、日頃付き合ってきた以上に身近に感じるものがあった。
4月7日が最後の別れになり、通夜・密葬に参列、そして「柳田君を語り合う会」、
そして今日の「柳田昭彦さんを偲ぶ会」で最終章。 さようなら。

2014年5月9日金曜日

『内田百閒文学散歩』を手にする。      635

書影・皓星社刊

文芸書最新刊棚に並んでいた、寺田博著『文芸誌編集長実記』と、備仲臣道著の
『内田百閒文学散歩』を手にとって、結局、百閒を購入した。
4年前に他界した寺田さんにはお世話になっており、1960年代の名文芸編集者
の回想録を読んでみたい気分になったが、後回しにした。

内田百閒は岡山生れということは知っていたが、最近『ちくま日本文学・内田百閒』
を読むまで未知との遭遇だった。名前から受ける印象だったのか、古い文士的作
家とおもっていた。
百閒というペンネームも郷里岡山の百閒川(旭川の分流)にちなんだものと知り、
身近に感じるようになった。
また、帯文に岡山出身、阪神タイガースファンの小川洋子が寄せていることにも、
惹かれてしまった。そして書かれている場所が、小石川、高田、早稲田となればな
おさらだ。
とにかく、百閒はこの世の風習とか民俗の気になったコトを一つ一つ珍しがって記
述している。随筆小説とでも云うのであろうか。

2014年5月8日木曜日

北海道/網走 記憶の断層23         634

羽がグレーのアオサギと網走湖(左)&網走監獄

今回の車旅の記録は、女満別空港でマツダ車をレンタルして、網走からサロマ湖
周遊の風船ドライヴ。

網走監獄:正門~通称「赤レンガ門」と呼ばれる網走刑務所正門は、重厚で威風
堂々としており、どこかの赤門にも似ている。最果ての監獄と呼ばれ恐れられた時
代の威厳を誇示しているかのように感じさせられた。吉村昭の『破獄』と重ね合わ
せて、しんみりと散策させてもらった。

→オホーツク流氷館→網走港(ロシアの船)→能取岬・能取湖→サロマ湖の落日
に間に合った!(サロマ湖温泉ホテル泊)

オホーツク流氷館より知床を望む。
流氷館にかわいい天使のクリオネ!
流氷館の最上階展望台からの、オホーツク海の広大な眺めが圧巻でした。
さらに、網走市街から遠くは知床連峰までが眼下に広がる眺望!

網走港/ロシアの船影がゆれて

2014年5月7日水曜日

不定期雑誌の場合、、、。           633

(2014・5・7影)

十数年前、年一度5月半ばに開催される「静岡のボビーショー」に出かけたこと
がある。
この展示会には、多種多様のRC(ラジコン)関係の電動ヘリやマルチコプター
やグライダー等の最新モデルも並べられ、いち早く見られるのが魅力になって
いる。

僕は、ラジコンについて門外漢であるが、縁あってこの関係の雑誌のサポート
をしています。創刊に立会い、本誌は定期雑誌として読者層を拡げ順調に推移
して、15年目になります。
この流れのなかで、不定期雑誌(ムックコード)に挑戦する話が出て、取得のプ
ロセスをレクチャーした。

昔、雑誌を持たないでムック・コードの申請をする過程で、エラク苦労した経験
を思い出した。ムックは、定期雑誌から派生したもので、別冊特集の不定期刊
行物という不文律が当初あった。今日でも、申請する際の原則は大して変って
ないはず。

余談。
石川県の白山山麓1800メートル付近に位置して、落差は約90メートルの「百
四丈滝」にマルチコプター(小型無線操縦へりコプター)が旋回して、氷結の滝
壺を空撮したトピックス写真は斬新だった!


2014年5月6日火曜日

海の幸を生業にする人々と巨大防波堤。   632


大槌町の記事をよく見かける。最近では、東日本大震災で10メートル超の津波
に襲来され1200人以上が犠牲になっている大槌町の、100年に一度の津波を
防ぐ防波堤のの高さをめぐって町民の意見が割れている現況をしった。

第三者が防波堤について意見を挟むのは気が引ける。しかしながら、3・11直後
から何度か大槌湾ふ頭に立って思うことがあります。
コンクリートの塊をより高く15メートルにしたところで津波の浸水を防ぎきれない
のではないかと思う。リアス式海岸の特性を考えて、際限なく高さを求める設計計
画を立てるのでなく、2011年10月に県が提示している14・5メートルの半分程
度に縮小するのがベターと思っているのだが、、、。
海の幸を生業にする町民の住・食は、高台と山よりに嵩上げで速やかに保障して、
沿岸部は漁業生産基地などの労働の場所とする。高台への移動を確保するため
の高速交通網を整備する。

震災から三年経つにつれて、巨大防波堤の見直しを求める住民の声は高まって
きているようです。海とともに生きてきた人々がコンクリートの城壁の中で一代も二
代…の先々まで生活する景観としては耐え難い。また、漁業は朝晩の海と天候を
みながら自然の予兆を察知して調和してきたのではなかったのか…。さらに、防災
目的とはいえ巨額工事への疑問視と、未だ立ち上がれないでいる被災者への親
身な支援と云う優先順位の問題がある。高さの問題を見直したら復興は遅れると
言うが、子どもたちの世代まで、海とどう向き合うか正念場にきていると思う。
外部に居ながらに気持ちのつながりを持続していきたい。

ハワイでのダイビング。           631

ハナウマビーチ&ウミガメ

ハワイ帰りのシライT君からの話で、今回はゴルフ仲間との旅であったようだが、
ゴルフは勿論のこと、観光もナイトショーなどのイヴェントもコトのほか愉しかった
様子が伝わってきた。

その話は、近々の集まりで詳しく披瀝してもらうとして、僕の嘗てのハワイ体験を
風景で思い出しておこう。
ハワイのダイビングはいかなるものかとあまり期待しなかったが、海の透明度が
深く、泳ぐ魚も多様で素晴らしい海中だった。

フォーパドル(左)&ダイヤモンドヘッド
宿泊のフォーバトルからサンダル履きビーチスタイルで、シェラトンのワイキキビ
ーチまで5分余で行かれた。

2014年5月5日月曜日

こどもの日 ハルと遊ぶ!          630

(2014・5・5影ケイ)

ハル、おたふく風邪(流行性耳下腺炎)で登校できず、週末からわが家で静養す
る。
大事にならないですみ、元気で体をもて遊び気味でアウトドアーしたがるのを許
し、一緒に公園でバッティング、サッカーする。

昨年のこどもの日は、ハルを多摩川・羽村の堰でびしょ濡れになって魚獲りをし
た。彼がその時、素手で獲ったギギ(名前は後で判明)は、庭の小池で厳冬を越
してまる一年、生き延びています。5センチだった身長が10センチまで成長。
決して可愛い魚というよりは、棘があったり口ひげも蓄えておりグロテスクに見え
る。だが、一匹だけが残り体をくねらせて元気に泳いでいる姿は感動モノ。
ハルも掌に恐々のせては、目を輝かせて魅入っているのだから、なんとも貴重な
収獲といえる。
今年も、頻りに川へ行きたがったが、さすがに病気上がりを理由に断念させた。




2014年5月3日土曜日

藤や牡丹や芍薬の花が咲く季節です。    629

(2008年9月影)

この連休は、東北の海岸線を走る予定でした。

上の写真は、3・11被災前に降り立ったJR釜石駅(左)と三陸鉄道釜石駅です。
わが田舎、美作津山の駅に向かうように、この地に何度足を踏み入れたことか。
古くは学生時代、次は1966年の夏、、、この写真の時1209年の秋、被災4年
前にも訪ねているのである。
釜石駅前に賑やかさはなく、1960年代をのぞいて、いつも人がまばらで、うら寂
しく静かな街になっていた。松尾率いる釜石ラグビーと共にの感あり。

釜石は日本最古の釜石製鉄所と共に歩んできた歴史があって、1960年を全盛
に62年以降は鉄鋼不況によって衰退の一途だった。
この駅で待ち合わせて、3・11後の被災地支援と聞き取りの活動で、松尾Aさん
やS増田さんらを迎えて、瓦礫のなかを大槌町へ車で移動しました。
(サンルート釜石で一泊)

2014年5月2日金曜日

「語り合う会」続篇             628

西本願寺あきる野(2014・5・2影)
出席者は、30余人でした。ツカさん、カワベさん両夫人と両子どもさんも参加され
ており、柳田君の子どもに対する優しさに深く感じ入りました。

柳田くんも長い旅に出たということで、王維作の送る詩吟を吟じます。(スノ)
ユニ・プラのアルバイトが新聞社に就職して大いに役立った。(ツカさんジュニア)
若い20代の頃、彼の歯切れのいい声が好きだった!(Kスズ)
タバコはやめられたが、酒は止められないなと、、、。(ミゾ)
柳田くんと、意味のない、何もない、無為の時間を過す中野会をやってた。(エン)
53年のつきあい。人と人とを結び付ける人だった。(イズミ)
友人というのは面映い付き合い。面長な顔にパナマ帽が似合ったな。(サト)

終宴と世話人の一言。
中の会で飲み歩いた姿とWの会での彼とは、ちょっと違っていたなと云う感じを受
けました。良い悪ではなくて彼の立ち居地があったと思う。生と死の区別がつかな
かったが、今日の皆さんの追想を聞いてちゃんとお別れできるかな、、、。(クワ)
最終局面で、、、。初めて聞く出自の話から、剣道は有段でバスケもやっていたと
言うし、英語はトップクラスだったが、高二からは本ばかり読んでいたと、級友の言
葉から、内々のコトはほとんど知らないことばかりだったなぁ。さよなら!(エフケン)

柳田夫人の挨拶。
結婚して49年になるが、私以上の付き合いのあった方々がいらして、今日ここに
主人が嬉々として居るのではないかと思われるほど、羨ましいと思うと同時に感謝
の気持ちで一杯です。

別れの一本締め唱和で終わりました。


鈴村靖爾さんから『生命(いのち)のつぶやき』627

書影(集英社・刊)

K鈴村さんから、ジャン・ドーセ/鈴村靖爾訳『生命のつぶやき─HLAへの大
いなる旅』をいただく。カバーを捲ると鈴村靖爾と署名されていた。ありがとう。

鈴村さんを紹介してくれたのは柳田君で、早稲田の喫茶店で始めてあった頃
を思い出した。
それは、彼の弟、鈴村和成さんがユニークな「ランボー論」を持っているので、
会ってみてほしいと云うものだった。結果、一年後には『ランボー叙説─イリュ
ミナシオン考』として出版できたのであった。

ところが、靖爾さんとここ数年会うこと叶わずで気にかかっていたところ、柳田
君の訃報を知った奥方からの電話で話すことになった。彼もまた、脳梗塞を患
って、歩行困難に陥り入院リハビリ中の様子を知らされる。

この本は、今注視のまととなっている研究活動の問題に真摯に対峙させてく
れる。
ノーベル医学賞のジャン・ドーゼが、免疫システムの発見(HLA組織適合抗
原)からヒトゲノムの解読の試みに至るまでの研究活動を語る科学的かつ個
人的大冒険の人間味溢れる賛歌!
「人間一人ひとりを唯一無二の存在とするメカニズムの解明」の半世紀を回
想する。



2014年5月1日木曜日

故柳田昭彦を語り合う会           626


柳田君が亡くなって三週間が経つなかで彼を語り合う会が、昨日催された。
未だ、彼の不在を実感できないまま、夕刻の雨で濡れた中野駅前の舗装を歩いて
会の場所に向かいました。会場の店先の生簀の魚は勢いよく回遊していた。

途中、柳(リュウ)の青青を一瞬見た気がしたが、、、。
さあ、ヤナギダ君、ここで杯をとってもう一献。もう共に酒を飲み交わす友もいない
だろうから。
こんな情景を想わせる詩吟を、スノさんが吟じてくれた。

サイちゃんの司会で始まった。正面に、数年前に日光朝霧高原に行った時の写真
が飾られ皆で、「彼を偲んで」黙祷。
献杯は、僕がさせて頂きました。

「淋しい。残念でならない。
振り返れば1961年、今の季節、早稲田の銅像横で、初めて、<高校で「弁研」(弁
証法研究会)に出ていた柳田だよ。>と先輩の二見に紹介された。それから半世紀
余り、途切れることなく、「同志的」付き合いだった。
学生運動もそう、仕事もそう、何らかの立場を真剣に実践したとき、逆に現実の状
況の中にあっては、くるりと立場を反転したように見えることがある。
変ったようで換わらない親友関係は、1960年代という時代風潮のなかに僕たちの
立ち位置があったからだろう。
長身の背筋を伸ばし、端正な顔の君が近づいて、右手を軽く上げたように見えた!
献杯!」

司会・進行は、サトミさんと、イズミさんが担当で進められた。

さよならできないでいる。(中・高の同窓イシダ)
紳士でした。その一人がヤナギダくんで、もう一人はツカさんです。(ヒラ)
情勢分析で信頼できた。(マス)
「上京」したとき、偶然、なぜか柳田さんと神田駅ホームであった。(ケイ)
東大駒場に、強引にも泊り込み集会に誘われた。(カワ)
彼のことを、ヤナギダ、チョウジュウロウで、チョウさんと呼んでいた。(クラ)
とにかく、颯爽としていましたね、服装は別として。(フク)
池田書店時代は、将棋をよくやっていた。強かった!(ムラヤマ)
彼が30歳、ぼくが28歳のときに独立、早稲田人脈を大事にしていた。(タカギ)
柳田さんは本が書ける人だと思っていたが、、、残念です。(ワタナベ)
嚥下障害の話を聞いたとき、直ぐ駆けつけられなかったのを悔やむ。(マツ)
──以下、後日に→