2015年4月30日木曜日
勝っても負けても猛虎とは! 994
今、1対1の均衡を破る上本の2塁打3打点で勝ち越し、4対1で勝利。
13勝14敗。3月27日の開幕戦から4月の猛虎通算成績です。
猛虎、開幕3連勝でスタートダッシュかと歓喜したのもつかの間、2戦連続し
でサヨナラ負けを記した時のことです。
最近になって、阪神タイガースの試合をTV観戦する機会が多くなりました。
これまで、夜のスポーツニュースか、新聞スポーツ欄の勝敗結果で喜怒哀楽
していたのが、今では、2、3時間通しで応援するようになり、負けた時のショ
ウモウ度は計り知れない。次の事に手を着ける気分になかなかなれない。
4月の試合の勝敗は、連日か飛び石で晴れ間の少ない気の滅入る日が多
かった。内心、オレが負けたのではない。場所(甲子園)も離れたところでプレ
ーする「猛虎」が負けたのです。年間7ヶ月143試合して、負けの確率が半
分あると云うのに、惨めな思いを毎度、オレがすることではないだろう、、、。
猛虎がすればい。こんな暗示で気を取り直そうと、ずっとこだわり続けてきて
いる。オレがダメ猛虎の責任を感じることなどないだろう、と。
にも拘らず、こりもせず今日は試合前から、絶対勝つ、と念じていた。
上本の気力の一打、鳥谷の飛ぶ勢いの攻守、選手でないオレがプレーして
いる気分にさせてくれる!
月一本、「趣味、タイガース!」のブログ打ちができてよかった。
2015年4月29日水曜日
ゴジラ再び! 993
第一作目の「ゴジラ」(本多猪四郎監督)は、1954年11月に封切られたが、
同年4月には黒澤明監督の「七人の侍」も公開されている。
そして、この年3月14日、焼津に帰港した第五福竜丸は、ビキニ岩礁での水
爆実験による「死の灰」をあびていました。
なんと、第五福竜丸事件の8ヵ月後に、「ゴジラ」が封切られています。
「反核」の声が燎原の火のごとく広がる時期と一にして、、、。
完成したゴジラのぬいぐるみは100キロあったと云うが、それが重厚感を出
すことになる。(核実験で)溶岩が溶け出すどす黒い山のような怪物が、東京
の街を蹂躙して行く様態を見事に演じたのは、怪獣役者・中島春雄でした。
(『中島春雄怪獣写真集』 洋泉社・刊)
ゴジラから初期のウルトラマンシリーズで育った世代から、その伝承で育つ子
どもたちまで、新らたな怪獣を待ち望む声が盛んになっている。
日本発の怪獣をリスペクトする米国人監督の「ゴジラ」が世界で、日本でも逆
輸入してヒットしたが、ここにきて、日本の怪獣映画ルネサンスの気運も一気
に高まってきているようだ。想像力をかきたてられる!
余談だが、「ゴジラ」第一作に始まって、学校のクラスにゴジラの愛称で呼ば
れる子がいたのを思い出す。
2015年4月28日火曜日
江藤勲さんを悼む 992
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| 江藤勲直筆原稿 |
末でした。
同年代のトミー・野澤さんと親しく一緒で、「でん八五十周年祝賀会」後の二次
会会場で同席になり、60年代の「ACBアシベ」時代のプレイヤーと一聴衆の
馴れ合いで盛り上がりました。その時、江藤さんは体調があまり芳しくないよう
でライヴもひかえている様だった。
ところが亡くなる前日24日には、横浜市内でライヴに元気で出演していたと。
5ヵ月後の突然の死です。71歳でした。
横浜といえば、ライヴはトミー・野澤さんと一緒だったのだろうか?
昨秋、世田谷のライヴハウス「PACO1977」に一度、と誘われたのが、訪ねな
いまま最後になってしまった。
一度は、江藤勲さんのために製作されたベースでビッグな弾きによる独特の
トーンのジャズセッションを聴いてみたかったな。
東日本大震災の被災地支援のため、倒壊してしまった南三陸町の寺院の柱
材を使用したギターも製作されたそうです。
合掌。
(←ブログ2014・2・18 「克美しげるとロックメッセンジャーズの頃」)
合掌。
(←ブログ2014・2・18 「克美しげるとロックメッセンジャーズの頃」)
2015年4月27日月曜日
あれから55年集団的自衛権行使に! 991
ネパールのマグニチュード7・8大地震が大きく報道されるなか、日本で大きな
変化などなかったように、「安保法制」の与党協議会に政府見解が提示された。
という事は、自民、公明は法案の主要条文と合わせて実質合意することで、次
に関連法案を閣議決定し、今国会で突破の流れが決定的である。
第一次安保闘争から55年、集団的自衛権の行使容認に180度舵を切ること
になったのだ。
新たな安全保障法制のめざすところのものは
*集団的自衛権行使を可能に
*他国軍の後方支援を随時可能にする恒久法の制定
*その法案に基づく後方支援は国会の事前承認が必要
*国連以外の人道復興支援への自衛隊派遣を可能に
*日本周辺以外でも自衛隊が米軍などを後方支援
これはもう臨戦態勢にはいったようなもの。
これまで自衛隊の活動範囲を事実上、日本周辺、朝鮮半島有事を想定してい
た政府答弁の制約を継承しない方針を示したことになる。
これまでの「禁欲的」だった活動範囲の制約や想定をも反故にして、行動を可
能にする。
自衛隊活動の他国軍後方支援の「歯止め」については、国会の事前承認を「義
務付ける」が緊急時は事後を認めると、何をか言わんや。
悪夢の次のステージに進んでいるのは間違いない。
2015年4月26日日曜日
ゴジラタワー! 990
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| 雄叫びをあげるゴジラ!(2015・4 影:Pen) |
というので、ハルをコマ劇場跡地に完成した新宿東宝ビルに連れて行った。
Gyoは「ゴジラ」の70年代初頭に公開された封切作品を、倉敷の弟に連れ
られて、旧コマ劇場地下にあった新宿東宝で観て以来、映画好きのルーツ
つになり、今日までゴジラファンのようだ。
その影響がモロ、ハルに及び小さい時から図鑑やDVDによで知識が豊富で
「ゴジラ博士」になりつつある。
上の「ゴジラヘッド」は、1992の作品「ゴジラvsモスラ」のゴジラ、通称「バド
ゴジ」をモデルにしたもの。
ゴジラファンのハルにすればは、顔が細いの、首が長いのとこだわりがある
らしい。
この新名所「ゴジラ」の監修者・川北紘一(特技監督)は、「下から見上げた
ときに、ゴジラの目が見えるように」ということで、頬を少し調整したものだと
説明する。(川北監督は、昨年12月に亡くなった。ゴジラヘッドの仕上がり
の確認が最後の仕事と言われています。)
ハルは、今から2016年の、本家・日本のゴジラからしばらく目が離せそう
もない。
(←ブログ2014・10・20 「洋泉社に寄る。ハルのゴジラ感想文」 800)
2015年4月25日土曜日
世界最長小説は羽村から生まれた!989
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| 禅林寺・中里介山の墓(2015・4 影:Can) |
多摩川へサイクリングの途中、竹林の先に佇む飾りっけのない周囲の自然に溶け
込む介山の墓石に手を合わせた。
禅林寺は臨済宗の古刹ですが、何代目かの現住職はGyoの小学校時代からの親
友です。
暮れの年越しには、彼等幼馴染が都心から、町から境内に集り除夜の鐘を打つの
が長く続く慣わしになっている。
また禅林寺は、多摩地区の自由民権運動にかかわった歴史が二代もさかのぼれば
昔話語りで聞き取りができたと、聞いたことがあります。
1964年に刊行された色川大吉著『明治精神史』に、この辺の多摩騒擾のことが触
れられている。
『大菩薩峠』の作者・中里介山は、1885年に現・羽村市の農家に生まれる。
1913年に都新聞で「大菩薩峠」の連載を開始し、毎日新聞、読売新聞などに引継
ぎ連載された41巻におよぶ。
2015年4月24日金曜日
能登半島③ 記憶の断層62 988
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| 輪島朝市とミニキリコ(影:Pen) |
ないフットワークを羨ましがられた。
だが、直近のドライヴではなく数年前の旅であることを断った。
北陸新幹線開通に引っ掛けて、風景の記憶の断層を掘り起こすことは、いま変わ
ろうとするモノの原初を辿ることななる。
関野鼻海岸から、クルマでは道路がなく行かれない猿山岬を見て、琴ヶ浜へ。
泣き砂は鳴かない。
そして輪島の朝市を一巡して、新鮮な食材による魚定食にありつく。
伝統ある朝市は、暖流と寒流がで合う日本海の海の幸が、所狭しと並べられ、掛
け声が行き交う。
また、下地の工程に丹念な特色がある輪島塗の工芸品も見ることができました。
輪島市内の「キリコ会館」でキリコの展示を見たが、珠洲に抜ける山中の火宮神社
祭りに出会ったミニキリコがほほえましかった。出ている人は男ばっかり!
(←ブログ2015・4・21 「能登半島② 記憶の断層61」 985)
2015年4月23日木曜日
船戸与一死す 987
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| 書影 『満州国演義1』(新潮社刊) |
与一さんの記事を読んだばかりだった。余命短しの記事でもあったのだろう。
先の柳田A一周忌の集いに出ていた前朝日新聞記者のキノシタさんが、カワ
シマヨシコの話に引っ掛けて、今こそ、「満州国」を見つめなおす好機と語り、
船戸歴史小説の完結を喜ぶスピーチをしていたが、今日改めて納得した。
満鉄、満映の話は、自ら幼少の頃に満州で過したことがあるか、親や親族に
満州へ渡った人がいることで、戦後の歴史的追体験として登場することが多
いように思う。そして具体的には、植民地支配による加害者と被害者の関係
から、どこまで深く関わっていたのか、関心の追求になっている。
勿論一方に、満州開拓民として大陸に渡り苦労の末の引揚者もいます。
船戸さんの本は、『砂のクロニクル』しか読んでいなかったが、ここで、満州国
の興亡をテーマにした全9巻の大河小説読破に挑戦してみようと決めた。
戦後70年がプロパガンダとして居丈高に言われています。
僕らの世代以降の人は、戦争体験が殆どないわけだが、揺り戻しに対しては
ともかく批判と異議申し立てはしてきた。
ところが、最近の安保法制、原発、沖縄への強権に接するにつけ、表現・言
論・報道の自由は、目に見える抑圧を実感するまできている。
2015年4月22日水曜日
水曜会の断片から 986
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| (影:Can) |
ヒジカタさん下山、トドキさん野良仕事を休閑、ヨシダくん庭の剪定を終えて、、
皆さん悠々自適に日々過しているのに感心させられる。
「昭和の森」での年一回ゴルフコンペに出てきたついでに、、、
日常食の夏野菜の植え付けを、150坪の畑に終えて、、、
健康管理上、自らを鼓舞しつつ少しでも外に出て歩く一環として、、、
奥会津に出かけようと思ったが、まだ積雪多くて、、、
気になるところあって、検査診療に通ったが大したこともなくて、、、
甲斐駒ヶ岳を朝夕に観られる山房居人からは、別れ際、梅雨時に新味噌の天地返
しを忘れないようにと、くぎを刺される。
一番のトピックス、KADOKAWAが4月からアマゾンジャパンと紙の書籍・雑誌の直
接取引を開始した衝撃については、また。
2015年4月21日火曜日
能登半島② 記憶の断層61 985
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| 巌門&ヤセの断崖(影:Pen) |
宿は「渤海使」の来たまち、ヴィラ「渤海」に。
この地はあまり知られていないが、能登半島の西岸で唯一深い湾入りのある天然
の良港、福浦港で、古代王朝国家・渤海国と交流が盛んだった歴史があります。
記憶が曖昧なのだが、60年代の後半に、未来社の社員旅行で福浦の港に寄った
デジャヴがある。
翌日は、「巌門」で洞窟を潜り、「増穂浦」では桜貝を拾い(鎌倉、紀の浦とここが三
大小貝の浜)、ヤセの断崖へ。
映画「ゼロの焦点」で新作、旧作で何度も観た、日本海に突き出した寂寥感漂う断
崖に立つ。高所恐怖症の僕は足がすくんで突端には行かれなかった。
崖の周辺には、ハマゴウの花が咲き、ススキも穂を開いていた。
(←ブログ2015・4・16 「金沢と能登半島① 記憶の断層60 」 980)
2015年4月20日月曜日
『戦後精神の探求』を読む。 984
本棚から梯明秀著『戦後精神の探求』を抜き出し、久々に頁をめくる。
未来社から「梯明秀経済哲学著作集」が出ているが、この単行本の一冊の方が、
かつて読んだ記憶が甦り、新たな発見もある。
(序文は、昭和24年8月、岡山にて、と記されている。)
梯は1930年(僕の誕生10年前)の検挙体験に触発されて、はじめて『資本論』に
接近する。梯の独自の哲学的立場は、社会の現実的諸問題の解明に理論と実績
で向かっていったところにある。そして、戦後は強靭な思弁力をもって、戦後精神
の内在化をはかっている。
何故、今こんの本をもち出すのか。
過日は、エンドウさんと満州事変とサイパン玉砕と戦後について話すことがあった。
そんな時、Tがペリリュー島に行き慰霊碑に白菊を供える映像が流れる。
また、日本は敗戦70年をしっかり学び記憶に留めるどころか、現政権の豪腕を持
ってする「安保法制=戦争法案」で危険な緞帳が上げられるは、、、。
自身、こうした状況に置かれることで、うかうかしておれないぞ、と思ったり、戦中、
戦後の必死の精神を活字で辿ってみたくなったのです。
埴谷、大岡、武田、梅原、原、、、の著作を。
yuは、Gyoがとりあえず戦争を避けられたことを善しとしているが、そうだろうか。
黒い点の目をしたメダカが死んだ! 983
昨秋、ハルが外国へ出かけるとき、「メダカの学校」で飼育していた5匹のアオ
メダカを、我が家で預かった。そして、ほぼ10ヶ月になる。
ハルから引き継いでいる手前、室内の水槽で生態を観察しながら慎重に飼っ
ていたが、今朝4匹しか見当たらず、よく見たら水面下に硬直して横たえていた。
金魚も飼っているが、室内の飼育容器でメダカを一緒にすると身体が触れあい
メダカのほうが衰弱するらしいので、別々にしている。
金魚鉢を別にしたり、メダカの数も5匹で多からず、明るすぎず、振動もない静
かな場所に置いていたわけで、自然の寿命だったのだろう。
ハルに話したところ、「夏から冬を越して、一匹居なくなるのはしかたないよ」と、
サラッと言ってくれたが、、、。
井伏鱒二の『山椒魚』は、サンショウウオとカエルとメダカが登場する。
小説ではみなを擬人化して、なかでもメダカは仲間と群れをなして自由に回遊
できて微笑ましく思える。小さいが、強い生命力を感じる。
たかがメダカ、されどメダカ!
2015年4月18日土曜日
やっと見られた遅咲き枝垂桜! 982
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| 金剛寺門前(2015・4・18 影:Can) |
しかしタイミング時季がずれて、一度も満開を見たことがなかった。
の150年以上になるベニシダレザクラを見て感動した。
その後も、3月末から4月の第一週に咲く両寺の姉妹桜は観桜してきたが、何故
か金剛寺門前の新しい枝垂桜の満開は2週間遅れで観られなかった。
その満開を今朝観た。細かった幹が古木に見えるほど太く成長しているが、紅色
に染めた八重の花びらは初々しく見えた。
これから100年の先まで、咲き続けることを想い、自然への回帰をイメージして、
しみじみとなった。
歩いて数分の距離にある、この両寺に惹かれる理由がある。
田舎の菩提寺・上野寺と青梅の古刹・梅岩寺が同じ真言宗という事と、建造物と
風景が極度に似ている親近感からです。
2015年4月17日金曜日
骨折! 981
80歳を過ぎたMaさんが骨折して、緊急入院の知らせがありました。
昨秋にも転倒して、足の骨折で3週間近く入院した時、リハビリ中を見舞った。
今日、留守電に入っていた経過の知らせでは、痛みが大分やわらぎ大事に至
っていない様子。週明けに病院の結果が出るので、次の処方に準じるとのこと
とだった。
老人と骨折はよくあることだが、これが元で一気に日常の活動や行動が制限さ
れ、致命的になることがままにしてある。
40年ばかり前に祖母が上京して我が家に長期にわたって滞在したことがあり
ます。
ところが、晩秋の寒い日に玄関先庭に出たときに、段差に足をとられ転倒して
しまった。腰の部分を複雑骨折した。そのまま寝たきりになることを危惧して、
急遽、慣れ親しんだ岡山の田舎へ一緒に付き添って帰郷しました。
祖母が、周囲に友だち、知人が全くいない東京で、身動きとれず孤独な暮らし
に陥ることを恐れたからです。
新幹線での移動中も大変激痛だったようで、弟の家にやっとのおもいで着いて
直ぐに倉敷の病院で応急処置を施してもらった。その時の記憶が甦る。
さて、僕自身、足の筋肉が落ちてきているのにあわせて、全身の持久力やもの
忘れも生じてきており、なんらかの折り合いをつけなければならないと思うよう
になってきている。
2015年4月16日木曜日
金沢と能登半島① 記憶の断層60 980
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| 金沢港(Pen影) |
金沢は縁深い。
祖父が電気技師で、金沢の「路面電車」を施設する仕事で長期滞在をしたことを
通じて、兼六公園や城下町の街並みを幼少の頃、祖母から聞き慣らされていた。
祝い事で走る電車が花と豆電球で煌びやかに飾られた「花電車」の絵葉書とか、
桐箱に納まった九谷焼の器とかが家にあって、幻の金沢を想像してみたこともあ
ります。
そして、70、80年代には、仕事で北国書林香林坊、片町うつのみや書店、福音
館書店や金沢大学を二度ばかり訪問している。
ドライブで能登半島周遊の旅をしたときは、勿論、兼六公園を散策して、近江町
市場で獲りたての魚を握ってもらい、市内を起点にして長い海岸線の内灘(内灘
基地闘争)経由で羽咋(清張の「ゼロの焦点」)、輪島へ向かったこともある。
2015年4月15日水曜日
料理とワインで始まって、、、 979
御茶ノ水に開店したばかりの「アンコーラ」で催された会で聞いた出席者の言葉
の断片から。
この店のアドバイザーKsさんから、この日の料理メニューとワインのレクチャー
がまずあった。
最初に出た新鮮な生牡蠣は対馬産とか、とまと煮込みも酸味と甘みを生かした
何々とか、ちょっと高級そうなワインの説明など、講義があった。
われわれの年齢にもなれば、居酒屋ばかりでなく、美味しい料理でワインが楽
しめる場所で過ごしてみてはと、語りかけられているように受け取った。
果樹酒が苦手な僕は、ハイボールで杯を重ねるしかなかったが、、。
雑談のなかから。
70代前後の友人が毎年、数人亡くなっている。
Hyが、死ぬのは、ちゃんと考えれば当たり前なんだが、折角ここまで生きたん
だから、無駄に死に急ぐことはない、と。
だが、年下の人が死ぬことは大変淋しいことです。
僕より一学年上のShは、
「彼」とは学生の時は一度も合っていないが、41、2年前にKkが連れて来た。
PRマンとマーケッターの自分とでは、仕事の視点が違ったが先見性の優れた
男だった。独特の雰囲気があったんだろうな、、、。
二人のそれぞれの社は、その頃大変親密でなかが良かったようで、出版業界
にいた僕とは肌違いで解りづらかったコトを知らされたように思った。
政経800分の8の女性ymは言った。
イイ人ほど早く死ぬ。私たちに明日はない、早く会わなければ、と思うようにな
って、こうして来ている、と。
2015年4月14日火曜日
高岡駅と新高岡駅 記憶の断層59 978
3月14日に開業した北陸新幹線の終着駅・金沢駅の手前に新高岡駅がつくられ
た。
新高岡駅は、従来のJR高岡駅と離れた場所に位置することになった。
その新高岡駅は、当初の予定から外れていたらしく、北陸新幹線の新駅が詳らか
になった段階で、市の強い要請でなんとか停車駅を確保したという経緯らしい。
かつて、東海道新幹線の駅で「政治家の名で揶揄された駅」ができた噂もあった
が、似たようなものとか、、、。
高岡市は能登半島内浦への入口、氷見に最も隣接したところです。
また、内陸に向かうと白川郷合掌の里へ行かれる起点の町です。
むかし仕事で、高岡駅前の老舗書店・文苑堂を訪ねたこともある。
現在では、「文苑堂書店TSUTAYAと」なっているおり、時代の流れを感じる。
(←ブログ2015・3・15 「北陸新幹線八つの駅と周辺」 946)
2015年4月13日月曜日
震災から4年 定点観測 977
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| 城山から(2015年・3・23 影:「広報大槌」) |
震災から4年。
1284人が犠牲になった大槌町の現在を、城山から観測した物悲しい嵩上げの
風景です。
3月11日の午後2時46分には、大槌町町内にサイレンが鳴り響き、追悼集会
が開催されたことが広報に載っていました。
そのなかで、消防団員の父親の遺族が代表として話されていた。
その父親は、ホテルの料理長を、もう一人の団員と救助しようとして津波に巻き
込まれて亡くなった。
僕が大槌に行き浪板海岸の民宿に泊まった時、主人が重い口を開いて、「消防
団員の息子が、一人を救助して、次にロープを伝って救助に向かったが、巨大
な波のまれて返ってくることはなかった。」 と。
再建したばかりの民宿の、穏やかな浪板海岸が見える庭にテーブルが出され、
その上には牛乳瓶にひまわりの花が挿され、缶ビールがのっかっていました。
(←ブログ2014・4・16 「大槌町3・11から3年1ヶ月」 612)
2015年4月12日日曜日
湯島聖堂へ 976
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| 湯島聖堂(2015・4・11 影:Can) |
きました。
JR御茶ノ水駅ホームからも湯島聖堂の漆黒の塀が見えるし、神田明神にも行
ったことがあるが、聖堂の門をこれまでくぐったことがなかった。
大正12年の関東大震災により、木造建築「入徳門」と「水屋」を残し、全てを消
失してしまったと記されている。
孔子廟「大成殿」前の庭では、気功を行う集団がいた。
入徳門の手前に名木「楷の樹」が高く聳えていた。
枝や葉が整然としているので、楷書の語源となったといわれています。
この場所は、学問所のイメージが強いようだ。
(東京)高等師範学校(東京教育大学をへて現在の筑波大学)や東京女子師範
学校(現在のお茶の水女子大学)の発祥の地ともなっている。
観桜会から偲ぶ会へ 975
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| (2015・4・11 影:F&Can) |
を語り、偲ぶ会があった。
一言と献杯
本日、ともあれ、1960年代から半世紀を優に越え、政
治運動で、その後の仕事で間断なく付き合いのあった仲間
がこうして集まって、彼岸の人と入り混じって語り合える
のも、亡き柳田君の趣向のように思えます。
今宵は、石井慎二、塚田勝俊、久世喬平、川辺紘一、門倉
弘君もいます。そして、もう一人2012年に亡くなった
出口米次郎君も加えさせてはいただき、一緒に偲びたいと
思います。彼は面識ない方がいらっしゃるかと思いますが
長年「中公闘争」を担い、亡くなる十ヶ月前に、3・11
の被災地大槌町から仙台まで三陸沿岸を、「どうしても見
ておきたい」と、歩いてきました。
こうしてみると、2010年から昨2014年まで、友人
達7人が毎年、彼岸に去って行ってしまい、お別れしてい
るのですね。
ハタと、胸中迫るものがあります。
皆さんともども、彼岸の向こうと、こちらが接近する老齢
になってきています。
ここに居られる皆さん、もう少し、「くたばらないぜ」の
こころ生きで、近況などを語り、友を語り、過しましょう。
大いに飲んで、食べて語らう、そんな会です。
そちらに、柳田晴美さんもお見えになっています。
うれしいじゃないですか。2015年4月10日金曜日
柳田昭彦君一周忌 974
明日、一周忌の集まりがあるが、昨年十日の亡くなった日を想った。
やはり、新小学一年生が目立つ桜吹雪が舞う日でした。
もやもやしたまま一年が経ってしまったが、時間の流れは早い。
柳田君が僕と同じ神田駅を使って、それぞれ会社に通勤していたが、君が病気療
養するのと機を一にして、都心に出るのが減った。
そんな時から、あの黒の山高帽をちょっとかぶり、今の時季ならあの黒のロングコ
ート姿で、神田外語通りをゆっくり歩き、「やー。どうー」右手をいっぱい上げ、にこ
やかな顔で、出版業界のこと、仲間のこと、被災地大槌のこと、yuやGyoのこと、
そして情報となる本のことを、テキパキと語りかけてくることはなくなった。
だが、こうした日常だったことを鮮明に想い出せるということは、時間の流れる早さ
がなせることなのでしょうか。
2015年4月9日木曜日
サイパンのこと 973
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| 4月の雪!(2015・4・8 影:Can) |
柳田君の一周忌を前にして、雪のなか神田でコーヒーを啜りながら話し合いま
した。
その話のなかで出てきた、彼の1970年代の南洋への旅で、サイパン行きがあ
った。早速、翌日に話足らずを補足する文が届いた。
父上が戦前のサイパンで教鞭を執っておられ、
藤森さんも彼の島を訪ねたというお話に興味をそそられました。
帰ってから、サイパン関係の本をひろってみたら10册ほどありました。
ほとんどが戦争関連のものです。
戦前の島の事情を記録したものは特に所蔵していませんでした。
1972年に発行された素朴な観光英文パンフレットがあります。
翻訳和文が手書きで印刷されており、改めて見ると珍しい。
40年以上も前、こうだったんですね。
(遠藤さんは、サイパンが観光化される前に意識的に行っているのだから驚き
です。)
根本進のノンフィクションは、改訂されて岩波から数年前にも出ました。
よく書いたなあと思う本ですが、暇がなくて読み直していません。
(僕は、自分が読んだ『海の果ての祖国』の著者・野村進と、根本進を混同して
しゃべっっていたようだ。)
サイパンで聞いた現地人の話に(みな流暢な日本語でした)、ミクロネシアには
島々を結ぶ定期船というか、巡回する船があり、地元の人は行き来に昔から、
その船を使っている。
(僕の父と同時期に、中島敦もサイパン経由で、パラオの南洋庁書記官として
赴任。定期便の話などが「南島譚」に収録されている。また、中島は満州にも
行き、植民地主義批判も展開した先駆的な作家として再評価されてきた。
遠藤さんも、満州とミクロネシアの北と南に関心を抱かれているようで、お互い
リンクしますね。)
船が発着する港では、遠くの島にいる親戚への伝言や届け物を見ず知らずの
人に託すために大騒ぎだとか。
「〇〇島に行くひと~、うちのおばあちゃんにこれれ渡してくれ~」とか、
「こっちはみな元気で、かくかくしかじかだから心配するなと伝えてくれ」
などという頼み事請負みたいな習慣、ミクロネシアン宅配便があった。
何とものどかな、70年代にはまだ残っていたんですね。
いまは電話と飛行機でそんな話もないでしょう。
この話に憧れて、3ヶ月くらい、船でミクロネシアの島々を経巡ってみたいとい
う夢を持っていたのですが、実現するどころか、70年代はJALをはじめ観光
関係の仕事で食うことに精一杯、追いまくられていたことを思い起こしてます。
一人でサイパンを訪ねたとき、暗闇の海岸に打ち寄せる波が海ほたるの輝き
で光っては消え、光っては消えする光景をぼんやりと眺めていたことを忘れて
いません。
島と戦争のこと、今日も新聞記事に触れつつ、大陸の思い出と合わせて関心
が途絶えないのですが、ただ茫茫として老人の頭の中を駆け巡っているだけ
です。
今度また、サイパンの話を聞かせてください。
遠藤H
(←ブログ2012・10・7 「石垣島からサイパンのこと」)
柴田信さんの書店50周年を祝う会 972
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| 書影 |
4月の雪は、2010年4月17日以来5年ぶり。
柴田信さんの書店人生50年を祝賀する会に出席するため、都心に向かう。
会場は明治大学の紫紺館。
今でこそ、椿山荘が上階に入り、色々の会合や会食に利用されているが、昔は
校舎で学生自治会室もあり喧騒交じりの活気で満ちていた。
本の構成は、岩波ブックセンターの代表・柴田信さんに三年にわたる密着取材を
かけた、対話を軸にした文とエピソードの挿入で構成されている。
柴田さんは85歳で、著者とは40の年齢差があるようだが、なかなかの突込み
である。
柴田信さんの挨拶に、生涯書店人生の心意気が表されている。
「本を売るという本屋の役割をわきまえながら、地域の中でゆるやかに精進を重
ねていきたいと思っています。」と。
2015年4月7日火曜日
『夢を売る男』を読む! 971
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| 書影 |
著者は百田尚樹で、話題作『永遠の0(ゼロ)』も『海賊とよばれた男』も、実は未
だ読んでいない。
本書は、小説の態を取っているがノンフィクションとして読める。
僕の古くからの友人が、アリス清川の名で文芸社から8年前に一冊の書下ろし本
を出したことがある。
書名は、『碧眼の阿修羅』。
彼は広告業界で30年以上、やり手の営業マンとして活躍してきたので、小説家
デビューの困難さはわきまえているはずにも拘らず、若い時からの夢に拘泥した。
中小の出版社では、小説は出版できない事情がある。出せるのは、伝統的に文
芸物に強い蓄積のある大手出版社になる。それは、文芸誌をもち、雑誌作りで培
われた編集者の資質と、宣伝・広告戦略のノウハウの差である。
何でこんなことを言っているのか。
最近ではソフトになってきているかに見える「自費出版」を手掛ける出版社の内実
を、『碧眼の阿修羅』の出版までの過程で相談を受け、経緯を知り尽くしているか
らである。
2015年4月6日月曜日
新学期、桜吹雪のなかを! 970
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| あきる野とーきゅー桜並木(2015・4・6影:Tab) |
途中、小学校通学路に黄色い旗を持ったシニア層が目立った。
真新しいランドセルを背負ったり、親が持つ脇を、ピカピカの一年生が嘴やぎな
がら片手を高々と渡る姿を微笑ましく思った。守られているという安心感が漂っ
ていた。
昔、田舎の小学校へは小一時間かけて登校していたが、車の量が圧倒的に少
なかったし、犯罪らしいことも起こらなかった。親が見守る必要もなかったのだ
ろう。
今の子どもたちは、ICタグサービスを携行したり、自動メールで居場所を発信す
るシステムの普及に預かっている。スゴイ管理の時代とも言える。
ハルは、初めてのクラス替えを楽しみにしながらも、戦々恐々だったが、仲良し
の友だちと一緒になれて喜ぶ電話があった。
2015年4月5日日曜日
白エビを目指して富山湾へ 記憶の断層58 969
「富山湾の宝石」と紹介された白エビ料理を食べたくて、いても立てもいられな
くなり、クルマを蹴って富山に行った。
サクラエビや甘エビは好んで食べているが、白エビは新聞の旬漁スポット記事
を見るまで知らなかった。
白エビブームになる前から、高級料理として提案し続けている、富山湾岩瀬浜
近くにある老舗料亭「松月」で、コース料理を頂いた。
昔は北前船の停泊宿として栄えた名残が、屋敷や調度品に刻まれていた。
岩瀬漁港から、沖合2㌔、水深250㍍前後のポイントに網を滑り込ませる。約
20分後に引き上げると、体長7㌢ほどの大きさのシラエビが網の中で躍る。
立山連峰から流れ込む栄養豊富な冷水が好環境をつくっているのだろう。
このポイントは、漁師たちの長年のカンと技術によって引き継がれている。
品書きがある。切り子硝子に山盛りされた刺身は70匹分の剥き身。それも、
料理人が手で丹念に剥くという。生で食べて、次にショウガ醤油で味わったが
美味い!
極め付きは、シラエビ200匹を叩いて団子にして、竹串にさして炭火で炙って
秘伝の醤油だれで口にすると、香ばしいエビのうま味と食感が素晴らしい!
北陸新幹線富山駅が誕生して、富山港の新鮮な魚食べ歩きを目指す人で賑
わうだうが、「シラエビ」はあまりにも高級魚になって、刺身などは箸を付けられ
ないかも。
2015年4月4日土曜日
会席と難聴と滑舌 968
3月は同窓会や偲ぶ会や観劇会など、お酒を飲む機会が圧倒的に多い月だった。
お酒はほどほどに飲んで席が楽しく盛りあがるにはいいが、呑むほどに相手にひ
つこくなったり、醜態をさらすことは避けたいと自覚していながら、最近はそうでな
くなっているのではないかと、思い始めている。
10代の頃、父が教師でありながら酒を飲むと梯子酒するのがトラウマになって残
った。そのせいか、学生時代は意識的に酒席になっても飲まなかった。20代半ば
前から、堰を切ったように飲み始めたのである。
ずっと後のことだが、こんな僕の傾向を見て、馴染みのお店の今は亡きアニキは
健康を気づかう振りして「酒量、ほどほどに」と、醜態をさらさぬよう戒めてくれて
いたのかもしれない。
実際に、この年になって、相手の話す声や周囲の雑音が聞き取りにくくなってきて
いる。そのためかと思うが、話す声が一段と大きくなっている。「聞く耳もたず」状
態になっているとしたら、困ったものです!
「もう、彼奴とは飲みたくない」、と言われないように、成る年を考えて爽やかに飲
みたいものだ。
2015年4月3日金曜日
黒部宇奈月温泉駅 記憶の断層57 967
2015年4月2日木曜日
何だかんだで50年! 966
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その日、築地「中央会館」に、いとう、さかて、やなぎだ、へんみ君、、、に、国立
中野療養所医長なかい、都立大久保病院眼科医長や間組おおばやし、築地の
問屋柴崎さん等が集ってくれた。「盛会」から50年。
その前年、1964年に、未来社に就職している。(在職、20年)
1984年に、「洋泉社」を創業する。
40周年の時には、Gyoの薦めでオーストラリヤのケアンズにダイビング旅行に
行っている。
2011年には、3・11被災地、大槌町へ足を踏み入れる。
50年という歳月の流れのなかで、多くの知人、友人が鬼籍に入ってしまった。
僕自身、今は元気であることを幸いに、未だ、歩を進めざるを得まいと思ってい
ます。
2015年4月1日水曜日
羽村の堰・花祭り 965
梅岩寺と金剛寺の姉妹桜 964
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