![]() |
| 八ケ岳山麓清里高原・「伊予ロッジ」 |
倶楽部」へ。(1350m)
白樺を中心に種々雑多な樹種が生える雑木林がが芽吹きをまっていた。軒下
の残雪から蕗のとうが顔を出し、枯れたように見える枝先に冬芽がついた膨ら
みを見た。
ラウンジで、果物たっぷりの紅茶をおかわりしながら、一時を過す。
つぎに、八ケ岳山麓清里高原の敷地2000坪のなかにあるロッジへ。少し早め
に到着。
今でこそ清里は四季を楽しむ美しいリゾートとして、若者や家族連れでにぎわっ
ているが、100年ばかり前は熊笹が茂る未開の原野だったそうです。
そこに、1940年(昭和15年)、二つの教室しかない分教場が建つ。
開拓を担ったのは、東京市民の水を確保する水甕のため小河内地ダム(現奥
多摩ダム)建設のために出て行くことを余儀なくされた丹波山村と小菅村の運命
をともにし、新天地を求めて入植した人たちでした。
開拓を始めたが、苦難の連続でした。
そして分教場が開設でき、数年後に開拓も成功した。
しぼりたての牛乳と採りたて野菜のふんだんの料理は大満足でした。
の残雪から蕗のとうが顔を出し、枯れたように見える枝先に冬芽がついた膨ら
みを見た。
ラウンジで、果物たっぷりの紅茶をおかわりしながら、一時を過す。
つぎに、八ケ岳山麓清里高原の敷地2000坪のなかにあるロッジへ。少し早め
に到着。
今でこそ清里は四季を楽しむ美しいリゾートとして、若者や家族連れでにぎわっ
ているが、100年ばかり前は熊笹が茂る未開の原野だったそうです。
そこに、1940年(昭和15年)、二つの教室しかない分教場が建つ。
開拓を担ったのは、東京市民の水を確保する水甕のため小河内地ダム(現奥
多摩ダム)建設のために出て行くことを余儀なくされた丹波山村と小菅村の運命
をともにし、新天地を求めて入植した人たちでした。
開拓を始めたが、苦難の連続でした。
そして分教場が開設でき、数年後に開拓も成功した。
しぼりたての牛乳と採りたて野菜のふんだんの料理は大満足でした。

0 件のコメント:
コメントを投稿