2020年4月25日土曜日

補遺③               2818

僕は長男で弟が三人いました。
祖母は戦中は大日本婦人会の会長(村)でしたが、山間の田舎という土地柄の
せいかいたってのんびりしたものでした。ショウコン油(大戦中の航空機燃料
として)を搾油する工場や、サツマイモ堀りの畑に連れられて行き、部落の婦
人たちに可愛がられたのを覚えている。玉音放送はこの共同菜園できいた。

父親は教師であったがゆえに戦死することなく昭和19年に帰国し我が家に帰っ
てきたが、何もすることなく夢遊病者のようだった。そうこうして半年後には
敗戦になるわけだが、戦争協力者としてしばらくは復職できず失職状態になっ
てしまった。同じ時期に母親は肺結核になり生家に帰り療養生活に入る。
家族崩壊状態で祖母が踏ん張り、母方の祖父が陰ながら支えてくれる厳しい生
活のなかで、新スタートの6・3・3制小学校へ入学。一学級18人でした。
軍国主義から一転民主主義への急転向となったわけだが、違和感を感じるほど
の経験をしていない。

(←ブログ:2020・4・17 「補遺②」2809)

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