| 仮設住宅で、吉田Sさん |
一度遭った事はまたある事であって、3・11から多くの事実を聞き書きで残し、災間に備えることの大切さを教えられた。
僕の義御祖母ちゃん(94歳)からも昭和8年の三陸大津波について聞いたが、それが伝承され、余裕の時間をつくるな、山に向かって急げ、引き返すな、リュックサック一つに絶対必要不可欠なものを入れ寝所に置く、など等…であった。
大きな被害を出した大槌町だが、津波に対する備えは相当いきわたっていた
ようだ。にもかかわらずである…。
| 安渡の仮設住宅 |
「自分で命をつめるな」
関洋次さんがここの仮設住宅に住む人たちにいってきたのは
「津波で助かった命だから、自分で命をつめるな」という言葉だった。
この言葉を発するまでどんな思いで関洋次さんは運命をともにした人たちのこと、その暮し、その将来を思ってきたのだろう。
関洋次さんは「自分で命をつめるな」となにげなくいうが、聞いた者は言葉を失ってしまう。「命をつめるな」という言葉に、この1年余の間に、関さんが見たこと、聞いたこと、体験したこと、思ったこと、考えたことの丸ごとを凝縮してきたにちがいない。
「だから、ここでは3月11日の大震災後に亡くなった人は病死2人だけだ。自殺した人はいない」という。関洋次さんが今一番心を砕いているのは、仮設住宅で暮らしている人たちと自分の家屋に住むことができている在宅の人たちのことである。関洋次さんは、「仮設住宅の人たちも在宅の人たちも被害者として同じだ。生活に欠かせないライフラインも物資の購入も同じで、利便さも不便さも同じなのだから」という。だか、在宅の人たちは避難せざるを得なかった人たちに「遠慮している」という。さまざまなことで、いっしょにやろうと呼びかけても遠慮が先に立っているという。
関洋次さんは「今の問題は、在宅の人たちの遠慮や差を取り除くことだ」といっている。
「津波で助かった命だから、自分で命をつめるな」という言葉だった。
この言葉を発するまでどんな思いで関洋次さんは運命をともにした人たちのこと、その暮し、その将来を思ってきたのだろう。
関洋次さんは「自分で命をつめるな」となにげなくいうが、聞いた者は言葉を失ってしまう。「命をつめるな」という言葉に、この1年余の間に、関さんが見たこと、聞いたこと、体験したこと、思ったこと、考えたことの丸ごとを凝縮してきたにちがいない。
「だから、ここでは3月11日の大震災後に亡くなった人は病死2人だけだ。自殺した人はいない」という。関洋次さんが今一番心を砕いているのは、仮設住宅で暮らしている人たちと自分の家屋に住むことができている在宅の人たちのことである。関洋次さんは、「仮設住宅の人たちも在宅の人たちも被害者として同じだ。生活に欠かせないライフラインも物資の購入も同じで、利便さも不便さも同じなのだから」という。だか、在宅の人たちは避難せざるを得なかった人たちに「遠慮している」という。さまざまなことで、いっしょにやろうと呼びかけても遠慮が先に立っているという。
関洋次さんは「今の問題は、在宅の人たちの遠慮や差を取り除くことだ」といっている。
仮設住宅に暮らす
関洋次さんが心がけてきたのは、「顔の見える仮設の人たち」だった。そのためには閉じこもりの人がいないようにいろいろな集まりをもってきた。ただ、男と女の集まりがちがう、という。私が参加させてもらった生協ふれあいサロンは女性ばかり10余人の集まりだった。生協の職員による全身の簡単体操、たとえば足や関節のリハビリになる屈伸運動と歩き方・立ち上がり方など、毎日している動作を中心にした体の保全であった。そのあとには、弁護士の方が、被災したことによって生じた財産・負債・相続などの話で、ふだん考えたこともない私たちに、暮らしを守る法律をわかりやすく説明してくれた。たとえば、私的財産の整理ガイドラインの制度は、まず生活費として500万円を手元に残しその後にローン返済などに充てるという現在の生活第一義の制度、また破産や自己破産などでは保証人に責任を負わせない制度などの説明などである。ふれあいサロンの人たちを見ると、落ち着いた生活をしている様子がうかがえるが、この1年2カ月という歳月を仮設住宅で暮らす人たちは多いのだ。安渡の世帯数は約800戸で、人口は約2400人であった。現在、あちこちに移転しているが、48ケ所(仮設住宅)に散らばっている。私が訪れたのは第二仮設住宅で、34戸100余人が住んでいる。そのうち、若い人と同居しているのは6戸である。
仮設住宅は軒を連ねているので、ちょっとの用事であっても、すぐに会うことができる。
粟や黍の五穀飯を食べる時でも、紹介の労をとってもらった吉田新一さんや公民館の館長である関洋次さんをすぐに呼んでもらうことができた。
関洋次さんは「各地にみんなが散らばって暮らしているが、みんなで安渡に戻ることを前提にいろんなことをしている」という。
関洋次さんは「各地にみんなが散らばって暮らしているが、みんなで安渡に戻ることを前提にいろんなことをしている」という。
明治29年・昭和8年の大津波の聞取りの教え
安渡二丁目の人たちはふだんから防災にたいする意識を養ってきた。そのひとつが明治29年の大津波と昭和8年の大津波について、経験者から聞き取りをしていたことである。明治29年については体験者はいないので、昭和8年の大津波の経験者で、90歳以上の人たちが対象であった。たとえば、
安渡二丁目の人たちはふだんから防災にたいする意識を養ってきた。そのひとつが明治29年の大津波と昭和8年の大津波について、経験者から聞き取りをしていたことである。明治29年については体験者はいないので、昭和8年の大津波の経験者で、90歳以上の人たちが対象であった。たとえば、
★「一回きたものは二回、三回と来る」
★「山さ、逃げた」
★「山さ、登った人は戻るな」
★「津波は大きかった」
今回聞いた話はこの程度であったが、ゆっくり話を聞けば、親から聞いていた話などもっとたくさんの話が聞けると思われる。ここの人たちは口が重いので、なかなか話を聞くことが容易でなく、津波や災害の伝承が少ないのだという。青森などはそういう伝承活動が盛んな地域もある。(増田注: 体験者からの津波の話を聞いていた地域には被害が少ないといわれている。その参考文献には、山口弥一郎著『津波と村』三弥井書店、川島秀一著『津波のまちに生きて』冨山房インターナショナルなどがある)また、こうした体験話を聞いても、一般の人は「受け身で、ただ、90歳以上の人から話を聞くだけ」であった。しかし、関洋次さんはじめ、町内会のリーダーたちは、津波が来ることを現実的なものとして受け止め、体験者の話を真摯な思いで聞いた。その時のために備えること、その時、どうするか、常に頭に描いていた。そのことが今回、活きた教訓になった。訓練は津波が来ると思って訓練しないと行事になってしまっては、活きてこない。とにかく、時間を無駄にしないで、逃げることが大切であった。
しかし、明治29年の伝え聞いた伝承も、昭和8年の伝承も参考にして地震や津波の災害を想定して、防災に取り組んできたが、マグネチュウド9以上の地震は想定していなかったという。今回の経験で危機管理の重要性がいかに大切かを学んだという。
大槌町 の防災日の訓練もふだんからの防災意識を養っていた。昭和8年3月3日の大津波を記念して、防災日を3月3日に指定して訓練をしていた。だから、平成11年の3月11日の東日本大震災が起きた時は毎年の訓練を終えたばかりであった。
「命の釜」は町内会の「自主防災部」
「命の釜」は町内会の「自主防災部」
「命の釜」を管理・活用してきたのは「自主防災部」と名付けられた安渡二丁目の町内会であった。実は、災害があったときのために自分たちで防災活動をしようと動き出したとき、隣の町内会にも呼びかけたが、賛同は得られなかった。防災部は吉里吉里など他の地域にもある。防災部ができたとき、国の宝くじによる補助金から120万円を受けた。そのお金で「命の釜」を買ったり、防災ズキンを作ったりした。安渡二丁目の地域はもともと自主的な地域活動を行ってきた。そのための自主的リーダーの育成もしてきて、災害時の炊き出しの訓練も食生活改善協議会の会員を中心にやってきた。関洋次さんは公民館活動をし、町内会副会長としての活動もしていたが、震災後は町内会一本にしぼって動いてきた。関洋次さんは「津波が来ると思って訓練しないとだめだ。いつも本気で訓練してきたから、今回、少しの時間も無駄にしないで行動することができた」という。安渡二丁目住民の防災意識の高さは、このようにふだんの生活の中にあったといえよう。
第二仮設住宅そばにある防災倉庫は現在2棟あり、以前からの倉庫には道具類が保管され、新設されたもう一つの倉庫は食料庫として活用している。アルファ米や缶詰などで、震災後に自衛隊が持ってきたものを今も保管している。
津波のあとの村
津波のあとの村
昔は津波がきて、それが終わったら、まず、海岸に近い元の場所に納屋を建て、それを拠点に漁業関係の仕事などを始め、そのあとに母屋を建てていた。しかし、今回の地震・津波のあとで元の家のあったところに納屋や家を建てようとする人はおらず、高台移転を希望する人たちが多い。安渡の町は今回の地震で50~100センチの地盤沈下した。海面よりも下に排水溝があるという状態で、町の道路はいたるところで湧水のように水が吹き出ており、冠水している道路も多い状態である。もともと安渡の町はアジア・太平洋戦争後に埋め立てた地域で、海苔の干場に使っていたところであったが、それが住宅地になり、今回の災害ではここの被害が大きかった。家屋の土台になっていたコンクリートをはがしたのは波の力だった。建物は形をとどめているものはなにもない状態までやられた。大槌町 役場が浸水区域には建築制限をかけるという話も住民には伝わってきているので、戸建か集合住宅かはわからないが、高台移転になる可能性が多いという。私が滞在している間にも、他の人から高台移転の希望が進んでいるという話も聞いた。そういう地域の移転は早期に着工され、完成も早くになるという。安渡の高齢化率は50パーセント以上だという。こうしたことも移転問題を複雑にしているのであろう。
関洋次さんは現在公民館のそばの仮設住宅にお住まいであるが、東日本大震災後、7月14日まで自分の車で寝泊まりしていたということであった。
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