| 在りし日のキャパ・出口君 |
中央公論社を辞めて赤鉛筆一本で独立し、校訂までできる屈指の校正者として、
著者・作家らの信頼は絶大であった。その後、生涯、サラリーマン生活をすること
はなかった。山が好きだった彼は、一時期、蓼科、八が岳山麓にペンションを建て
る事を夢見たこともあった。
はなかった。山が好きだった彼は、一時期、蓼科、八が岳山麓にペンションを建て
る事を夢見たこともあった。
5月21日の金環食を見た日、佐倉の空模様は晴れているかな~と、なにげなく
呟いたところ、気になったら直ぐに と女房に急き立てられて、佐倉市民病院へ
見舞に行ったのだった。
呟いたところ、気になったら直ぐに と女房に急き立てられて、佐倉市民病院へ
見舞に行ったのだった。
佐倉では、金環食は完全には見られず、雲の隙間から復元する太陽の姿だけ
だったようだ。
だったようだ。
先日、大槌町へ行っているのを知っていて、メールで町の復興状況を知らせてほ
しい要望をもらっていた。焼けた江岸寺、鉄骨むき出しの町役場、吹っ飛んだ灯台
の蓬莱島(ひょっこりひょうたん島)、道端に咲く菜の花の写真を見ながら、彼は、
10ヶ月前に岡弁護士らと行ったときと何ら変わってないな と言葉少なに言った。
しい要望をもらっていた。焼けた江岸寺、鉄骨むき出しの町役場、吹っ飛んだ灯台
の蓬莱島(ひょっこりひょうたん島)、道端に咲く菜の花の写真を見ながら、彼は、
10ヶ月前に岡弁護士らと行ったときと何ら変わってないな と言葉少なに言った。
それから、20日後(6月10日正午)に亡くなったのだった。
6月3日に鼻からの出血が激しく、危篤状態になり、3,4日後には早く眠りたい と
6月3日に鼻からの出血が激しく、危篤状態になり、3,4日後には早く眠りたい と
意識が混濁した様態だったらしい。
16日昼過ぎに、娘さんのももこちゃん(後に節子さん)から他界の知らせがあり、
明朝にと思っていたところ、再度、節子さんから「ももこが今日中に来てほしい、、」
との電話を受け船橋薬円台に急いだ。ももこちゃんが車で津田沼まで迎えにきてく
れた。
明朝にと思っていたところ、再度、節子さんから「ももこが今日中に来てほしい、、」
との電話を受け船橋薬円台に急いだ。ももこちゃんが車で津田沼まで迎えにきてく
れた。
35年も前になろうか、出口君夫妻と2,3歳だったももこちゃんが我が家を訪ねて
くれたことがあった。再会したももこちゃんは本当にしっかりした娘さんになっていた。
くれたことがあった。再会したももこちゃんは本当にしっかりした娘さんになっていた。
1月に入院してから毎月、見舞力を渡してきたのである。が、弱い抗がん剤の一時
中断とともに、簡単にくたばりたくないので、可能性ある治療に挑戦してみようとお
もう と言っていた矢先での、悔しさの残る急逝であった。
中断とともに、簡単にくたばりたくないので、可能性ある治療に挑戦してみようとお
もう と言っていた矢先での、悔しさの残る急逝であった。
最後の校訂・校正の仕事は、奥本大三郎翻訳『完訳ファーブル昆虫記』であった。
古くは『折口信夫全集』(中央公論社)から「アエラ」(朝日新聞社)など、多くの作品
を手掛けた出口米次郎は斯界では有数の校正者であった。
を手掛けた出口米次郎は斯界では有数の校正者であった。
新宿の酒場(でん八)には、聖書研究会を終えて寄った出口君がいた。飲むほどに
辛らつな咆哮に接しつつも、根っからの心優しさに負けてしまう。
42年前に出口君に貸したまま忘れていた埴谷雄高の『姿なき司祭』を昨秋になっ
辛らつな咆哮に接しつつも、根っからの心優しさに負けてしまう。
42年前に出口君に貸したまま忘れていた埴谷雄高の『姿なき司祭』を昨秋になっ
て返してくれた。心急ぐのか本などの身辺整理をしている様子がうかがえた。
祭壇には阪神タイガースのコップに缶ビールが供えてあったが、熱烈な内なるファ
ンであったらしい。また、車好きで長距離ドライヴを楽しんでいることもよく耳にした。
最後は真っ赤なスポーツカーで全国を走るんだとも、、、。
ンであったらしい。また、車好きで長距離ドライヴを楽しんでいることもよく耳にした。
最後は真っ赤なスポーツカーで全国を走るんだとも、、、。
遺影は、真っ赤なTシャツに短髪の柔和な顔だった。
マルクスは、赤が一番好き、と言ったという。さて、内村鑑三は、、、。
50余年來の友である出口君が去っていくのが悲しい。
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