2012年6月19日火曜日

出口米次郎君・追悼

在りし日のキャパ・出口君

中央公論社を辞めて赤鉛筆一本で独立し、校訂までできる屈指の校正者として、
著者・作家らの信頼は絶大であった。その後、生涯、サラリーマン生活をすること
はなかった。山が好きだった彼は、一時期、蓼科、八が岳山麓にペンションを建て
る事を夢見たこともあった。
5月21日の金環食を見た日、佐倉の空模様は晴れているかな~と、なにげ
呟いたところ、気になったら直ぐに と女房に急き立てられて、佐倉市民病院
舞に行ったのだった。
佐倉では、金環食は完全には見られず、雲の隙間から復元する太陽の姿だけ
だったようだ。
先日、大槌町へ行っているのを知っていて、メールで町の復興状況を知らせてほ
しい要望をもらっていた。焼けた江岸寺、鉄骨むき出しの町役場、吹っ飛んだ灯台
蓬莱島(ひょっこりひょうたん島)、道端に咲く菜の花の写真を見ながら、彼は、
10ヶ月前に岡弁護士らと行ったときと何ら変わってないな と言葉少なに言った。

それから、20日後(6月10日正午)に亡くなったのだった。


6月3日に鼻からの出血が激しく、危篤状態になり、3,4日後には早く眠りたい と
が混濁した様態だったらしい。
16日昼過ぎに、娘さんのももこちゃん(後に節子さん)から他界の知らせがあり、
明朝にと思っていたところ、再度、節子さんから「ももこが今日中に来てほしい、、」
との電話を受け船橋薬円台に急いだ。ももこちゃんが車で津田沼まで迎えにきてく
れた。
35年も前になろうか、出口君夫妻と2,3歳だったももこちゃんが我が家を訪ねて
くれたことがあった。再会したももこちゃんは本当にしっかりした娘さんになっていた。
1月に入院してから毎月、見舞力を渡してきたのである。が、弱い抗がん剤の一
断とともに、簡単にくたばりたくないので、可能性ある治療に挑戦してみようと
もう と言っていた矢先での、悔しさの残る急逝であった。
最後の校訂・校正の仕事は、奥本大三郎翻訳『完訳ファーブル昆虫記』であった。
古くは『折口信夫全集』(中央公論社)から「アエラ」(朝日新聞社)など、多くの作品
を手掛けた出口米次郎は斯界では有数の校正者であった。
新宿の酒場(でん八)には、聖書研究会を終えて寄った出口君がいた。飲むほどに
らつな咆哮に接しつつも、根っからの心優しさに負けてしまう。
42年前に出口君に貸したまま忘れていた埴谷雄高の『姿なき司祭』を昨秋になっ
て返してくれた。心急ぐのか本などの身辺整理をしている様子がうかがえた。

祭壇には阪神タイガースのコップに缶ビールが供えてあったが、熱烈な内なるファ
ンであったらしい。また、車好きで長距離ドライヴを楽しんでいることもよく耳にした。
最後は真っ赤なスポーツカーで全国を走るんだとも、、、。
遺影は、真っ赤なTシャツに短髪の柔和な顔だった。
マルクスは、赤が一番好き、と言ったという。さて、内村鑑三は、、、。

50余年來の友である出口君が去っていくのが悲しい。






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