2019年2月17日日曜日

昭和戦前の結核は死にいたる病だった 2384

母の発病は、敗戦の年だった。

二人の弟が生まれてから間もなくして結核発症とわかり、母は嫁ぐまで自分の旧
庄屋だった家に里帰りして、離れ(二階)で療養生活に入りました。
その後、このままでは駄目だと云ううことで入院したのは、僕が小学校4年生の
ときです。津山市近郊にあった「津山皿山療養所」。

そこは、吉井川の清流川筋にそって田圃が広がるなかに、白い平屋の病棟が川に
向かってたたずんでいた。
兄弟でバスと電車(佐良山駅下車)を乗り継いで病室を見舞うのだが、母はすぐ
にコートを羽織って川の砂洲に連れ出して、差し入れの果物を食べさせてくれた。
(子どもに伝染するのを恐れたため。)
そして、家の祖父母のことや学校の様子を話す小一時間をあっと云う間に過ごし、
淋しく帰途についた光景がよみがえる。

後に、中野療養所院長だった伯父さんは、「思ったより病竈が拡がっており早い
手術を勧める」も、遠距離東京であることと、若さゆえの治癒力だよりがネック
になって後手になったと聞いている。
それから4年後に片肺全摘出の大手術で此岸にかえってきたのですが、、。

昭和20年に初の治療薬としてストレプトマイシンが開発されたが、高価で苦労
したエピソードもある。
さらに母から、入院患者内の話とか、読書にまつわるロマンとか、後に聞くに及
んで、この病には何か切羽詰まったものがないようにも思えるから不思議。

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