後醍醐天皇が隠岐(島根県)に島流しになった話はよく聞くし『太平記』でも
読み取れる。
幼少のころ、津山院庄の「作楽神社」境内の桜の幹を削り詩を書きつけた小島
高徳の話を聞かされることがあった。
高徳は備前の武士で、隠岐に配流となった後醍醐天皇を遷幸途上で奪還しよう
としたことを記述した「太平記」で経緯を知った。
それによると、高徳は一族を集めて備前と播磨の境界にある船坂山にひそんで
一行を待つも現れない。遷幸の一行は山陽道を避けて、播磨の今宿(姫路市)
から美作へ向かっていた。それを知った高徳らは杉坂(作東町)でドッキング
しようと三石から山中のけもの道をはしりに走った。だがしかし、到着遅しで
すでに一行らは院庄に入っていた。落胆した一族は散っていったが、高徳だけ
はあきらめなかった。この地にも天皇に忠臣にして心の通じる武士がいること
を伝えたかったのであろう。変装して夜に院庄の御座所をうかがったが、警備
は厳しく闖入できず。仕方なく、御座所近辺の桜の幹に書き記したのである。
天 句践を空しうするなかれ
時 范蠡なきにしもあらず
(←ブログ:2024・9・10 「『太平記』を読む」4416)

0 件のコメント:
コメントを投稿