2014年2月28日金曜日

震災から丸三年を迎えるが、復興の槌音が聞こえるか!565

大槌町2014・1・20(「広報おおつち」から)

数日前の「日経新聞」に<復興の槌音>の見出しで、大槌町漁港の活気が伝わる
写真を見た。

震災で壊滅した漁業の再興に向けて担い手を増やそうと、体験「漁業学校」を開校
したことを町の広報で見ていた。
その受講生たちが真新しいツナギカッパを着込んで、漁船に乗り込み、見よう見真
似で定置網漁の網の引き上げに取組んでいた。
大津波にさらわれて漁師が三分の一に激減した大槌町が、新しい担い手を受け入
れる手立てとして、町長自ら発案して活性化に努めている。未だ研修参加者は少な
いようだが、今後、水産関連の仕事に魅力を感じ被災地の力になればイイ。
そして、町は長期研修制度も計画中とか。

海が好き、ダイビングに魅入られている僕にして、五十歳ぐらいまでであったなら、
「大槌の風」の活動の一環のなかに取り込んだと思う。



2014年2月27日木曜日

無聊、ぼそぼそ、そして石見         564

大谷Yさんの『新宿・でん八物語』(仮)への寄稿から──32




 1964年開業、そして50年、というのはすごい。わが青春のすべてより長い。
その青春のちょこっと、いやいやいっときの相当部分が「でん八」と重なる。

 ちゅうさんの時代、早い時間に店に行く。ちゅうさんがいる。まだ客を待ってい
る風ではない。カウンターに座る。ちゅうさんが話始める。泉南(?)の子ども時
代のことが多かった。「そうだったの!」とぼくが話始める。同じく子どものころの
こと、「田舎はね、島根の岩見地方……」と。

  「島根は東半分が出雲、西半分が石見。わが田舎は石見の東端、出雲に接
する大田市。当時は佐比売(さひめ)村。佐比売山という、出雲国風土記で国引
き神話にその名のみえる山があって、今の名前は三瓶山(さんべさん)。広い裾
野があり、戦争中は広島連隊や浜田連隊の演習場。子どものころはトーチカへ
上って遊んだりした。終戦直後、米軍が進駐、引き揚げ時に大量の缶詰や弾薬
を土中に埋めて放棄した。物資のない時代、埋める作業をした村人が掘り上げ、
もらった缶詰の豆をぼくも食べた。掘り上げた弾薬が爆発して死んだ先輩中学生
もいた。わが姉も、炎の上から振りかけると花火のようできれいだと、姉の友人
が持ち込んだ米軍の焼夷弾で火傷したりした」てなことを、くだくだぼそぼそしゃ
べる。何とはなく互いに無聊。時間が過ぎる。そのうち客が入ってくる。「じゃあー、
また」と、店を出る。次の飲み屋へ行く。飲み友に会うと一緒に次の店へ行く。そ
うこうするうちに、また「でん八」へ。そんなことがいくたびあったことか。

 最近この岩見地方が人気になってきた。大田市大森町の石見銀山(大森銀山)
が、2007年に世界文化遺産に登録されたからだ。この夏のある調査で、行き
たい都道府県の5位に島根がランクされ、行きたい場所に出雲大社、石見銀山、
隠岐の名が挙がった。石見銀山には、間歩(まぶ・坑道)や精錬所跡、銀を運ん
だ街道、銀積み出し港の船をもやった石杭、江戸時代の名残を残す街並みなど
などがあるが、見るには地味で、楽しむには訪れた人の想像力が試される。大
久保間歩は坑道内の生物環境を保全するため、1日の見学者数が制限されて
いたりして、観光客があまり増えるのも困るらしい。自然と共生して発展した銀山
の姿を、そのまま未来に残そうというわけだ。
 石見銀山と三瓶山は隣どうし。三瓶山の山裾にはひっそりと小屋原温泉。旅館
はただひとつ。天下一品の蕎麦を食べ、湯の華に覆われた昔ながらの浴槽にゆ
ったりつかれば、それはそれは至福!
                                   大谷Y(編集者)

2014年2月26日水曜日

西村佑子『不思議な薬草箱』を落掌。     563

書影(山と渓谷社刊)

一級の魔女研究家である西村佑子さんから、自著・最新刊の傍題「魔女・グリム・
聖書」を持つ『不思議な薬草箱』を恵贈いただいた。

西村さんは大学時代からの友人で、主著でもある『グリム童話の魔女たち』を洋泉
社から、1999年に出版している。
また、彼女はグリムと魔女の研究から、実際に「ドイツメルヘン魔女街道」ツアーな
るものを企画して、毎年出かけている。今は亡き出口Y君も同行したことがあった。

評判の前著『魔女の薬草箱』に続く本書は、瀟洒でなかなかしゃれ本だ。
176頁の本文中、ほとんどの頁に写真・図版・挿絵がちりばめられ、それを捲るだ
けで、「異国」の不気味な森のなかをさ迷う気分にさせられた。
前著が、魔女と薬草という直截な切り口だったが、本書は、ヨーロッパ特異な聖書、
神話から魔女や「薬草」の絡みを説き、歴史・文化の深淵を探る好奇心旺盛な旅
へ誘う。
乾杯!

2014年2月25日火曜日

「未来の会」に出席する。          562

モネ展/国立西洋美術館(2014・2・25影)

今まであっても不思議ではない出版社・未來社のオールドの第一回の集まりがあ
った。場所は、上野「精養軒」。

集合場所が、上野公園口から程近い「国立西洋美術館」とされており、三三五五
馳せ参じた面々はxx人。来ることになっている、田口Eさんが待てど現われない。
昼食をとりながら、4時間余のロングランに及ぶ懇親会になったが、結局彼の登
場はなかった。
お開きになる時になって分かった事は、場所の勘違いで合えないまま遠方の住い
に引返していた。その背景は、連絡を取り合うにも今どきケイタイを持っていない、
会の案内葉書も持参していないから赤電話からアプローチすることすら叶わない
始末、、、。ときに、ケイタイを持たないことを自負する人がいるが、今生では必携
品で、コミュニケーションを成立させないことになってしまう。

出てこれなかった人の添え書きを拝見したが、多くが病気もちで、くも膜下で静養
中、脳梗塞で歩行が困難、腰痛、手足が極度に弱って出歩くことをひかえている
ことなどが記されていた。

僕は、未來社に1964年に入社し、1984年11月退職するまで20年間に及び、
出版の営業、制作・宣伝広告、編集に携わってきました。
今日参加した人たちとは、30年前に同じ職場だったのですが、会食の席に着くな
り一気に距離がちじまり、苦楽を一緒してきたことに話題の花が咲きました。

2014年2月24日月曜日

鰯とオルグの店・でん八。          561

杉山尚次さんから『新宿・でん八物語』(仮題)への寄稿から──31



 誰にでも大なり小なりテリトリー感覚みたいなものはある。店の常連になるとい
うことは、そういう感覚なのだと思うのだが、長い付き合いであるにもかかわらず
、「でん八」はいつまで経っても私のテリトリー外である。でも、居心地がわるいわ
けではなく、新宿で店選びで迷ったときは「でん八」と決めている。
(50周年おめでとうございます)。

 初めて「でん八」に行ったのは、たしか1981年。私の社会人年齢と一緒だか
ら33年も前になる。にもかかわらず「常連」感がない理由は単純。「でん八」は、
藤森さんのテリトリーだからだ。ご存知のように藤森さんとは、洋泉社の創立者に
して元会長、本書の編集委員のひとりの藤森建二さんである。
 ここに連れてきてくださったのも藤森さんだったし、84年の6月(たぶん)、彼に
「オルグ」されたのも、この店(歌舞伎町店)の上がり座敷だった。オルグといって
も政治の話ではない。「新しい出版社をつくるから参加せよ」という(語の本来の
組織化という)意味である。なぜそんな言葉を使ったかというと、藤森さんに名言
があるからだ。それは「出版社の営業マンの役割は、書店員のオルグ(組織化)
である」というもの。サービスとか誠意とかではなく「組織化」というのは、なんとも
格好いいし、その気にさせてもらった。これは今でも生きている考え方だと思う(い
かにも□○だが)。

 いかん、「でん八」の話である。私が洋泉社にいた89年『魚の美味しい店ガイ
ド』という本をつくった。これはひとりの著者が魚を美味しく食べさせる店をタイプ
別に紹介する本で、ビジュアルなしだが結構売れ、年度版もつくった。
 また脱線するが、書いたのは森下賢一という物書きである。いまでこそ居酒屋
を批評するライターは多いが、この仕事からもわかるようにその先駆的存在だっ
た。『いい酒の、いい飲(や)り方』『銀座バーフライ物語』などよく売れた本もある。
残念なことに、昨年11月に亡くなられた。
 やはりというかさすがというか、その森下さんは、鰯の店として「でん八」を知っ
ていた。ならばということで、「でん八」も小さく載せることにした(お手盛りは自粛
して小さく紹介)。《歌舞伎町コマ劇場を正面に見て、名曲喫茶「スカラ座」の通り
を右に折れ、スカラ座の正面のビルの2階。 、、、鰯のすり身を鍋に文字どおり
つみ入れるつみれ鍋は逸品(冬場)。》とある。そうなのだ、冬になるとここのつみ
れ鍋を食べたくなる(ただの白味噌の出汁ではないはず、レシピをこっそり教えて
ほしい)。鍋の雑炊のつくり方は、当時の店主(「あにき」氏)から教わった。 火を止
め 、、、卵を流しいれ、ネギを加え、ふたをし、じっと待つ。ふたを持ってこない店
を私は認めない。

 その「あにき」氏も亡くなり、「スカラ座」はラーメン屋に替わり、私は藤森さんの
会社を抜けて15年以上経つが、いまだに藤森さんとはお付き合いがあるし、「で
ん八」にも寄らせていただいている。古い付き合いなのに、あまり知った人と出会
わず、余計なことをしゃべらなくていいお店は、案外使い勝手がいいものである。
                                                     杉山尚次(言視舎・ダイナマイツ監督)

2014年2月23日日曜日

昨年、刊行30点の出版活動!         560


言視舎に、今年初めて寄る。社主で編集長は杉山尚次。

僕が1985年に出版社を創立した時のメンバー三人の一人に杉山くんがいました。
その彼が4年前に独立してつくったのが言視舎です。辞書に、社名の「言視」という
字源は見あたらないが、使っている頻度で安定して、知名度があがってきています。
うれしいことです。
未だ、本づくりは彼の匙の投げ加減によるが、年間の刊行書籍は30点(月、3点
弱)に達している。一点一点に手抜きがみられないのだから、凄いの一語に尽きる。
なかでも、『群馬の逆襲』に始まる、県別<逆襲シリーズ>が評判良く、他に、シナ
リオ作法など、実用書の定番化に成功しているようだ。
「逆襲」のなかに「岡山」をやってないようだが、地方出版の「吉備人」あたりにいい
書き手がいるはず、と提案する。

杉山くんの編集者魂は一流で、鈴村和成さんも自著の後記に書いている。
「1985年、『未だ/既に──村上春樹とハードボイルド・ワンダーランド』(洋泉社)
を世に問うて以来、およそ三十年におよぶ伴走者として、ひとかたならぬご恩誼に
あずかった、まことに今の世に貴重な信念の出版人・エディターであります。」と。
願わくば、これまでの一途な持久戦に報いる長打が飛び出すことを切望するところ
です。

1月に刊行した新刊で、人文書としては初動の良い『橋本大三郎のマルクス講義』
をもらう。書名が白地に墨の文字を基調とする菊地信義装丁で、懐かしい本を手に
した感じ。

2014年2月22日土曜日

「でん八」と「コメディアン」

市川Tさんの寄稿から──30




 私が初めて「でん八」に飲みに行ったのは、47年前、26歳の頃でした。
 古きよき第一の友人森本氏と行った店はジャズ喫茶「ACB」の裏の細い路地裏
の二坪ほどの店、一階にアニキと若衆のコンちゃんが、二階に細い階段を上がる
とカウンター6~7人の席で中にアキちゃんが、おでん鍋の前で「いらっしゃい」と明
るい笑顔で声が大きく背が高くヒゲを生やしてた記憶があります。客はバンドマン
や若い女性で一杯でした。

 その後、私は「でん八」の近くの新田裏に、その頃はまだ都電が走っていました。
その通り沿いにスナック「コメディアン」を開店しました。店に毎晩来て下さったのが
「でん八」のお客様でした。「でん八」は12時頃閉めますので、アニキやアキちゃん
はお客を回してくれました。まるで「でん八」の姉妹店かと言われたことがありました。
 しばらくして「でん八」が区画整理とかで歌舞伎町店を出しアニキが、さらにしばら
くして、アキちゃんが青山店をオープン、そして現在、、、。

 私は17年前に三十年の店を閉めましたが、「でん八」は私の一生に大きな力を
与えてくれたことになります。アニキ、アキちゃんありがとうございました。
                            市川T(元「コメディアン」店主)