2014年3月8日土曜日

悠久の倉敷小運河!             572

大原美術館前の堀割(高山正男・影)

高山Mくんから、A4判焼付写真三枚が届く。
先日、「未来の会」での話のなかで僕が倉敷出身と知り、彼は街並みを絶賛してい
たがその時、撮影した写真をいただくことになっていた。

伊部瓦、塀、船頭の法被と濠渠の積石の色彩構図が目に焼きつく。
水面に映る如何にも長閑な影、戦前から悠久につづいてきた風景です。
(倉敷は商業都市で空襲にあっていません)。よく撮れた感動的写真です。
写真には見えない手前に、ギリシャ神殿風の大原美術館本館があり、ロダンの彫
刻を見上げることになる。

あわせて、変わらないのどかな風景を証明する、40年前に僕が撮った写真があ
ります。
Gyoと従兄弟のトモトが、上の写真左に見える屋敷の角付けで、緑の蔦がからま
った美術館を写生している一枚のセピア色の写真です。
倉敷大原美術館には色んな想い出があります。




2014年3月6日木曜日

8%消費税からビットコイン、、、。       571

神田すずらん裏通り(2014・3・5影)


午前中、トーハンに立ち寄り。
4月からの消費税8%が迫り、3月中の処理を目指して駆け込む版元で仕入れ窓口
は先週から混雑している。
T取締役、S部長に挨拶、Mtさんと近況及び集英社馬場Kさんと(「出版猛虎会」)近
近一席を約す。他、消費税8%後の雑誌定価表示について、定価を丸めて本体価格
決めする版元が多数を占めていることがわかる。

正午に少し遅れて、水曜会へ。帯状疱疹を患い療養中であった白井君が久しぶりの
登場で賑わう。(三省堂書店亀井社長、持主、佐藤さんに遭遇)。

今話題の、仮想通貨ビットコインをめぐって、PCから金融に強い小沢、吉田君両人に
講釈してもらう。株はやらない、有価証券にも関心がない僕としては、流れるニュース
をなんとか理解できるようにと傾聴しました。先入観としてあったネズミ講的、あるいは
詐欺まがいのモノかと思っていたが、デジタル通貨として金を理想化したものらしい。
発行量の上限を決めた講のようなものか。
技術的な詳細を理解することはできないが、概念的な仕組みは少しわかったように思
う。
円~ドル現金交換(兌換)~兌換所(マウントゴックス社)に交換すべき蓄財が、何らか
の侵入者によって無くなった、、、!

帰りに、明大前、吉祥寺から柳A君を見舞う。


2014年3月5日水曜日

日常と非日常の狭間で、、、。         570

杉本Tさんの寄稿から──34

                           

 僕は旅が好きである。と言っても、下調べをしたり丁寧に準備をするといっ
た風ではなく、仕事で出かけた所のまわりを、少し足を伸ばしたりと言った事
が大半で、人に自慢するほどではない。
 しかし、年をとるという事はそういう事も結構重ねてきていて、また仕事柄
海外、特にアジアは行く機会も多く、中国・韓国・ベトナム・タイ・インド・
インドネシアの各地、と言っても多くは街の 路地裏や中古・骨董店をひやか
しながらの旅なのだが、これが結構面白くて楽しみになっている。
 5年ほど前に足を痛めてから、日本でも青森・岩手・秋田・山形・宮城の辺り
を車で数日かけながらゆっくりと廻り、馴染みの骨董屋や地の料理屋に顔を出
し地の酒を飲むのが楽しみになっている。
 多分、僕にとって人生は旅のようなものなのであって、仕事をし、旅をし、
その地のものを食べ、古い家具や骨董を探す事が日常であり違和感がないので
ある。
 長い間インテリアデザインと言われる仕事を続けてきたが、ヨーロッパ・ア
メリカの近代都市文化よりもアジアを軸とした僻地に強く惹かれ続けている。

 今思うと、そうした気分の第一歩が「でん八」だったように思える。
頻繁に「でん八」に出かけていたのは三越裏にあった、入って階段を登ったカ
ウンターの小さな店で、20代の後半から30代の前半の時であったか。
 今から40年位前の事で、そこで少々おでんとか日本酒をやって、兄貴となん
となく話をして、少し余裕があれば2丁目の方に歩いて「あきちゃん」のやっ
ていた「そのに」に寄る事が決まりのような日々であった。
 そこで大概知っている顔に出会い、その後ゴールデン街か2丁目に行くこと
も多かった。今考えると、僕はこういう風に過ごしたのだが、客は洋画家・日
本画家・彫刻家・建築家・音楽家・小説家・大手代理店に勤めていたり、編集
者であったり、カメラマン、僕のようなデザイナー志望であったりで溢れてい
た。この中で育ったようだ。
 と言っても特別な事はなく、人生も普通だったし事件も有ったわけではない。
敢えて言えば、デザイナーの卵として社会を少しずつ齧り掛けていた時期で、
その方では気を抜く立場ではなくあれこれ失敗したりぶつかったりしていたが、
「でん八」にある種の日常感を感じていたようだ。
仕事として向かい合っていたデザインは、ある意味「日常的ではない事」を目
指し、どうやってそこから抜けられるかを常に思考していたようだが、である
からこそ、その対極としての確実な、リアルな日常感が必要であったのだろう。

 その後、時々思い浮かべる「兄貴」や「あきちゃん」の顔は、なぜか今でも
優しいのである。
                              杉本T


*本文中にある、杉本さんのクルマで東北地方をゆっくり回って楽しむスタイ
ルは僕の風船ドライヴと称するぶらり旅と通じるものがあります。
これまで、関越道で新潟に出て、海岸沿いに秋田、青森(十三湖経由)、津軽
半島、下北半島から太平洋側を下りて石巻、仙台を経て東北自動車道で帰るコ
ース。
また、東北自動車道を一気に北上して、弘前経由で八戸から太平洋側沿岸を出
入りして福島から常磐道で帰るコース。
加えて、九州を除く各県各地の海岸線は走破しています。
僕の場合、クルマを運転すること自体が趣味ですが、他に地の海鮮料理と地酒
と、異郷の人に接する未知のワクワク感がたまらなく好きです。
風船ドライヴの軌跡は、一部、写真紹介を始めています。




2014年3月4日火曜日

「大井淑子書展」でかな草書の強さを知る!  569



今日、友人・大井Kさんのご母堂の回顧書展を銀座鳩居堂で見る。

これまで、絵画展は多数鑑賞してきたが、書の展覧会にはほとんど出かけたこと
がない。
僕も中学校まで、大字を楷書で筆する習字は上手いほうだったが、小字、中字を
草書体で書く段階で諦めてしまいました。

Kさんから案内をもらった添え書きでは、ご母堂は四十歳半ばから書道教室に通
い始め、毎日書道展の入選から、かな部門の最上位に選ばれているまでになら
れたようです。以来、五十年、米寿の回顧展でした。
展示されている作品を観ると、帖仕立て、屏風、巻物に、源氏物語絵巻に見るよ
うな小字で色彩豊かな紙に強弱しなやかな筆使いで跡されている。

言葉のなかに「人間にも旬があります。米寿を迎えた現在、もう厳しく冴えた細線
は書けなくなりました」と。
消え入るような細字にこそ、強靭な気概が込められた強字なのだと、書道の所以
を感じることができました。

作品書目が収録された豪華な本を署名入りで頂き、感謝します。
中身の濃い本です。そのなかに封じ込まれた美意識に感動しました。


2014年3月3日月曜日

柳君のこと。                568


彼のことについていろんな方から電話やメールをもらう。
ここで話せることは、限定的だが遠方の友への報告に代えさせていただきます。

遠藤さま
柳A君の病状への想いを記したメールをありがたく拝受。
先だっての4人で行った最初の見舞いから数回激励に訪ねているが、奥さんの話
を聞く限り、僕に「日赤は救急患者受け入れだけで、専門科医は診ないのかよ
?」、と云う思いがあった。どうも信用できない歴史が過去にあるようだが、著名人
例えば埴谷雄高さんや丸山真男さんなどもお世話になった話も聞いていたので、
転院してより酷くなっても困るな、と思っていました。
貴君も病院側の適切なガイダンスがないことに疑問を呈していましたが、僕も同
じようなことを考えていました。

そこに、先ほど同送のメールが渡辺さんからありました。ベストの転院先が出てきた
知らせで、まずは、良いほうへの一段階を踏み出すことに、ほっとしています。
 以下、渡辺さんへの返信。
渡辺さま
柳A君の状況をヴィビットに知らせて頂き、ありがとう。
多忙のなか、病院通い、晴美さんとの調整と心労多いことでしょうが、大事
な局面に思えます。できるだけのサポート惜しみませんので頑張ってくださ
い。
これまで病院に五回訪ね、日ごと一進一退の様子を見ながら激励こそすれ、
何もできないことで、先も見えない気持ちになっていました。
知るところによると、東京医科大学病院には口腔外科がしっかりあるようで、
その面でもベストの病院が見つけられたのではないでしょうか。
ただ気になるのは、柳君本人が意識的に嚥下訓練をすることに、積極的で
ない、あるいはそのことによって復活できる認知が薄れているように見受け
られところが心配です。
お知らせの、転院することで環境がよくなり、自立に漕ぎ着けられることを
期待しています。

2014年3月2日日曜日

つらつらと記憶を掘り起こし、、、。      567

伊﨑さんの『新宿・でん八物語』(仮)への寄稿から──33



 えっ! 50年、ウーン?そっかぁ、そうだよね、私も既に高齢者の一員だからな
ぁ~。五十周年おめでとうございます。

 初めてクリーニング屋の角を曲がって直ぐの、提灯が在ったような、無かった
ような、暖簾を潜り引き戸を開け、「でん八」に入ったのは学生時代。
 学園紛争が起こるすこし前の平和な時期、高校時代の後輩で当時売れっ子の
モデルをしていたウチダ君の案内でした。店に入って直ぐにアニキと目があった
ね。板前の格好のうえ無愛想な顔で睨んでいた。東京の田舎者にとってはどう
みても違う業界の人だと疎んじていたら、ウチダ君が狭い階段を二階に引っ張り
上げてくれた。カウンターの中から優しそうな笑顔で我々を迎えてくれたのがアキ
ちゃんです、ホッとしたね。もっとも直ぐにアニキの顔にも慣れ一階の奥(非常に
狭い)で話ができるようになり、アニキが「そのさん」に出る頃からはアニキの武
勇伝を聞いたり、こっちの愚痴を聞いてもらったりと、いろいろな話をさせてもらい
楽しいひと時だったなぁ。

 さて、「でん八」の二階は7~8人?入れば一杯になってしまいそうな、かぎ型
のカウンターだけのシンプルな店でした、同世代の男女が楽しそうに飲んだり食
べたり、堅気の職業の人はあまり見かけなかったような気がしますね。
アキちゃんは我々にとっては何でも話せる兄貴のような存在で、店の雰囲気は
アキちゃんの人柄がにじみ出て、居心地の良い雰囲気を醸し出し、お陰でお客
同士も片意地張ることも無く、好き勝手が言えて且つ言い争うことも無く、お金が
あっても無くてもひと時を楽しく過すことができる最高の場所でした。
 バイトの帰り、スキーツアーの打ち合わせ、デート?等々、よく「でん八」に通い
ました。学園紛争が激しくなり学校へ行くことは減りましたが、「でん八」にはきち
んとよく通ったね。友人達と企画したスキーツアーでは、当時馴染み客のマドン
ナ的存在だった和ちゃんも誘って、いろいろ手伝ってもらううち、私どもの先輩と
一緒になってしまったね。ついでに言えば私も奥さんを確保し、アキちゃんには結
婚式に列席してもらい、何かあったときの後始末をお願いしました。

 「そのに」が末広亭の近くに開店したのは私が社会人になる少し前でした。「で
ん八」で飲んでから「そのに」に行くか、「そのに」に寄ってから「でん八」で飲むか
選択肢が増えました、もっとも両方とも混んでいて外で待たされたり、といったこ
とも何度もありました。
 「でん八」では日本酒におでんが定番でしたが「そのに」ではウイスキーに中華
風のつまみになり、人生初めてボトルキープ(サントリー角)をし、少し大人の仲間
入りをした気分を味わいました。「そのに」では、お店に入ったら飲むより先に、ま
ずジュークボックスの曲をセット、一曲目は、<唐獅子牡丹>二曲目は<人生劇
場>これは定番、次は当時流行っていた由紀さおりの<手紙>とかをセットし、
それから飲み始めましたね。

 この頃よりのみ仲間も友人達から仕事関係が増えていきました。そういえば「そ
のに」で忘れられない出来事がありました。4~5人で飲んでいて最終電車も無く
なり始発まで飲み続けようということになり、飲み過ぎというか、興に乗ったという
か何故か踊ろうと衆議一決しテーブルを端に寄せスペースを確保し踊り始めたと
ころ、アキちゃんが渋い顔をして半ば諦めた顔をして眺めていました。後にも先に
もあのような顔は見たことがありません。この機に紙面をお借りしてお詫びします。
ご免なさい。今更遅いか!
 いろいろ話題は尽きませんが枚数を既に越えているようなので、それは百周年
の時にします。
                                         伊﨑H


2014年3月1日土曜日

写真                    566


「未来社 木造社屋時代OB会のお誘い」の葉書で呼びかけてくれた幹事は、
高山MとM植村の両人だった。幹事の一人、高山君から早速、その時撮った
集合写真と会の名簿が送られてきました。この事後処理のスピード感、幹事た
る人の見本か! ありがとう。

写真のことをちょっと、、、。
僕は、子どもの頃に少年雑誌の付録として添えられていた、レンズのほかは厚
紙でできた「カメラ」で被写体に向かってから、シャッターをきりつづけてきた。
その回数は計り知れない。
人物、花樹木、風景、動物、海中写真に到まで様々無数の出合いを写してきた。
60代で始めたダイビングで、海中写真を撮り初めて一層カメラに興味を持て来
ているが、あまり撮影技術のほうは進化していない。
だけれども、写真を撮るチャンスには、必ず楽しんでいる自分がいる。イメージ
した通りでも、偶然のショットの一枚であっても、メカを使って何らかの意識でフ
レームのなかに切り取ることが楽しいのだ。

高山君は、年賀などに添えられる花や風景写真を見るにつけ、そうとう腕を上
げているはずです。