2012年5月26日土曜日

大槌行き3日目(5・11)


今回は、<大槌の風>の会員で広報担当の一人、S増田さんの大槌町安渡での聞
き書きをお届けします。
被災地の、こどもたちとその父母へ読み聞かせと、自由に読書ができる森の図書館
が 大槌町波板にオープンした。その開館したばかりの佐々木さんの私設図書館を見
に出かける僕に、同行の要請があってお供したのが増田さんです。
11日、午前中の仮設住宅における雑穀普及&試食会の後、午後から約2時間半に
わたる、大槌町公民館安渡分館長・関Y氏の聞き取りを増田さんがした。僕はもっぱ
ら質問役だった。
関さんが自家用車に寝泊まりしながら、フル救援活動に献身的に係わった様子を話
す臨場感溢れる言葉に圧倒された。

関Yさん
        
聞き書き・被災地からの風「大槌の風」1    2012.5.9~12

「命の釜  800人救われた  岩手・大槌」
このタイトルは2011326日の朝日新聞夕刊に載った見出しである。ここに載った岩手県大槌町の「命の釜」の話を聞きたくて、この記事を後生大事に保管し、大槌町の安渡地区を訪ねたのは震災後12カ月がたった2012年5月11日であった。

「命の釜」の存在
 安渡の「命の釜」は安渡二丁目の自主防災部の人たちが行ったもので、新聞記事でも触れている「三年前からの炊き出し」訓練は毎年3月3日に行っていた。チリ津波をきっかけに避難訓練がこの日だったからである。この日から数えて9日目に東日本大震災が起こり、大津波に襲われ、町は高台とその周辺を残して全滅した。避難所となった小学校は高台にあり、現在は幼稚園と公民館分館になり、校庭に第二仮設住宅がある。
 安渡二丁目の「命の釜」で被災当日に炊き出しが行われたのは30キロの米であった。「命の釜」は一度に炊ける米の量は30キロであったが、15キロずつ二度にわたって炊いた。最初は「メッコメシ」になった。二回目はうまく炊けた。15キロという大量の米を炊くには技術が必要なのだが、一回目は大量の米を炊くのに慣れない人たちが炊いたかららしい。二回目のときには給食センターの職員がきて、大釜の中の米をかき混ぜながら炊いたので、柔らかくうまい飯になったという。(増田注:昔、大勢の人たちが集まって食べるときには大量の米や雑穀を炊く必要があったが、その時の炊き方は穀物の芯が残らないよう、一様に炊き上げるには、かき混ぜながら炊くか、沸騰した湯のなかに穀物を入れて炊く湯立て法の炊き方をした)
震災前から毎年炊き出しの訓練を地域で行ってきたにもかかわらず、二度に分けて炊いた炊き出しの第一回目がうまく炊けなかったのはどうしてかわからないが、防災部の炊き出しの代表者であった黒沢○子さんが震災で亡くなっていたこともその一因であろう。ここには教訓の第一がある。
 炊き上げた飯をたこ焼きほどの大きさに握り、避難してきた人たちに配った。ここに避難してきた人は約800人といわれていた。安渡だけではなく、隣の集落はもちろん、
大槌の町や釜石の町からの避難者もいた。飲み水は近くの清水から汲んできたが、一人に配付される水の量はわずかで、ある所ではペットボトルのふたに1杯の水であったという。
「命の釜」は安渡小学校(現公民館分館)に保管されていた。ガスボンべ付きの羽釜である。米を保管していた倉庫もその安渡小学校敷地内にある。倉庫の鍵は常に小学校のそばにある町内会長の佐藤さんの家に置いてあった。ここには災害時のすべてが備えられていた。高台で避難所である小学校という公共の場に、食料保管庫と鍵と炊飯用釜がそろっていた。災害があればみながここに集まっていた。また、小学校には調理室もあり、炊飯ができた。この釜は宝くじの補助金によって買ったものである。他に大きな鍋も寄付されて
両方を使うことができる。

12日からの食料補給
備蓄していた30キロの米を震災当日に炊き出して使ってしまった安渡二丁目の自主防災部ではその食料補給に忙殺した。その任に当たったのが関洋次さん(大槌町公民館 安渡分館長)で、12日の動きから見てみよう。
 安渡地区の裏山から峠越えで金沢経由土坂峠を越え、立丸峠を経て遠野市に入った。スーパーニトリで米600キロを店長決済で買って安渡にもどった。安渡に近づくと、左右の山は火事で、町のあった下を見ると真っ暗闇とごみ・ガレキの山であった。600キロの米を積んだ車は後ろが沈み、運転席は上に持ちあがっている状態で山を下りた。
 13日に大槌町の生涯学習課長とともに岩手県庁に行き、関さんの車を「緊急車両」にしてもらった。震災の前日10日にガソリンを満タンにしていたのも幸いして動くことができたか、ガソリンなどの物流が悪い中で、常に満タンすることができた。大槌のガソリンスタンドは津波で全滅していた。13日・14日は北上市盛岡市に行って、電池やろうそくなど生活必需品を入手した。必要物資を手に入れるのにもっとも苦労したのは、女性の必需品であった。これは女性店員に頼み、見つくろってもらった。第一日目から三日目までは食と住環境をなんとかすることに夢中であったが、四日目からは衣類の調達が必要であった。15日・16日と駆け回って生活物資を調達した。自衛隊がやってきたのは17日、18日であった。つまり、約一週間は自分たちですべてをやってきたのである。

高い防災意識はどこから?
 私が昨年326日の新聞記事を読んでもっとも関心をもったのは、地域で3年前から防災訓練をして、炊き出しをみんなで実際にやっていたことにたいしてであった。大量の米の煮炊きは実は大変な苦労を伴うものである。それをやっていたということは、防災意識の高さを地域住民が持っていたからこそできるものであろう。その高い防災意識はどこから来たのか、このことこそ大切なことだと思ったのである。
 日本には災害にあったときの備荒貯蓄の思想とそれを実際に行う備蓄倉庫があった。古代からあって、中世、近世、近代とさまざまな形で存在した。公的なもの、また地域の自治組織による備蓄倉庫などである。近代では「郷倉」「御倉」などと呼ばれ、昭和十年代まで機能していた。「郷倉」の建物が福島県などのように現存している地域もある。安渡二丁目の人たちの防災意識の高さは、近代の「郷倉」の意識を継承したものか、と私は考えて、関さんの安渡の話を聞いていた。昭和9年東北大凶作後の昭和11年には岩手県内で約1131庫の「郷倉」が存在したという。その先人の意識を受け継いで公的建物である高台にある小学校に備蓄倉庫を作り、米を30キロ保管し、毎年の訓練も怠りなくしてきたと推測していたのである。
 私のその推測を関さんにぶつけると、思わぬ返事が返ってきた。
 「郷倉は農村地帯のもので、大槌は漁村なので、備荒貯蓄の倉はない。昭和8年に大津波があっても、漁村には備荒貯蓄の(政府の)施策がなかった。これは農業よりも漁業が一段低くみられているからだ」「だから、漁業者は自治体をたよらず、自分を自分たちで守れ、と言ってきた。ブラクごとに守るわけで、だから結束が強い」
郷倉をめぐって、漁村と農村の政府・自治体による差別を的確に指摘されて、言葉にならないほどの衝撃を受けた。
 安渡二丁目の地域はもともと自主的な地域活動を行ってきた。そのための自主的リーダーの育成もしてきて、災害時の炊き出しの訓練も食生活改善協議会の会員を中心にやってきた。
関さんは「津波が来ると思って訓練しないとだめだ。本当に来る、と思ってしない訓練では行事になってしまう。いつも本気で訓練してきたから、今回、少しの時間も無駄にしないで行動することができた」という。
安渡二丁目住民の防災意識の高さは、このようにふだんの生活の中にあったといえる。                                (S増田・記)


命の大釜
             

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