2020年5月7日木曜日

村上春樹『猫を棄てる』を読む    2830

書影
村上春樹の『猫を棄てる』、傍題に「父親について語るとき」をもつ新著を読
む。

本書は、村上春樹の父親(90歳)が亡くなって10年後あたりで書いた文章にな
る。身内について書くのは厳しいものがあるといいながら、いつかは取りかか
らなければならなかったことの実現。
導入部で、小学低学年のころ父親との日常の平凡な光景として、海辺に一匹の
成長した雌猫を棄てに行ったことが蘇ると。そのときなぜ家から2㌔ばかり海
辺に大きな猫を放って、あとも見ずにさっさと帰ってきたか不確かだとある。
が、自転車を降りて、玄関の戸を開けると、棄ててきたはずの猫が「にゃあ」
と言って、しっぽを立てて愛想良く僕らを出迎えた。そのときの父親の呆然と
した顔から感心した表情に変わり、最後にはほっとしたような顔になった、と
いう。この小事件のなかに最後まで導く謎ときが込められている。

さらには、父親は毎朝、朝食をとる前に、仏壇(菩薩)に向かって長時間、目
を閉じてお経を唱えている。一度だけ尋ねたことがあり父親は言った。前の戦
争で死んでいった人のためだと。
そしてつぎには、父親の生い立ちや、母親は大阪の船場の古い商家の長女だっ
たことが語られる。
俳句を嗜む父親が戦争体験のなかで苦悶する真意を彼の俳句のなかに探る部分
は大きなヤマ場で謎解きである。
それにしても、辺見庸が自著『1★9★3★7』のなかで近現代史の暗部であ
る日中戦争に焦点をあて、その渦中にいた自分の父親の秘密を自身の身体を賭
した叙述と、歴史の背景に類似するところがあるのに驚き。

僕の読書は『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』
など初期の小説読みでストップしたままだが、この父親について語った本書は
歴史の連続性と戦争へのこだわり、訴えるものがある。

2020年5月6日水曜日

人との間合いの取り方        2829

禁!接近(影:2020・5・6)
最近、間断なく気になるののは、人とのマアイである。
スーパーのレジに並ぶ足跡印で、ミーティングルームの相手の距離で、バス・
電車の座席位置で気になりだすときりがない。
足跡印のように距離感を表す図案が雨後の筍のように出てきた。

このトラウマは、新型コロナ禍による日常リズムの変調現象の意識化のような
ものだとおもう。
寄るな触るなといううことらしい。
確かパーソナルスペースということを聞いたのは半世紀ほど前で、その境界線
1㍍余りだったのが、このコロナ怖さから広げられているように思う。

「離れることがつながり続ける最良のすべ」だという。企業の商標やロゴに工
夫を凝らす試みが目をひくようになってきている。
「天声人語」も、「天  声  人  語」に替えているし。

立夏 こどもの日          2828

月が替わりしだいに暑くなってきました。初夏と呼ぶにふさわしい新録の立夏。

生気があふれるほどに勢いづく新録の樹木。
そのその香りを、自転車(チャリンコ)を走らせながらいっぱい吸い込めば、
元気がもらえる意気込みで、Gyoとハルは多摩湖~狭山湖一周へ出かけた。
途中でにわか雨にやられびしょぬれになって帰ってきたが、巣ごもり一辺倒の
連休を強いられるなか締めくくりとしては理想的な過ごし方であったと思う。
とはいううものの、前日まで5日間はキャッチボールとジョッキングをしての
レンちゃんの運動を見るにつけうらやましいかぎりで、僕のほうはぐったりと
疲れて傍観するのみ。

2020年5月4日月曜日

吉祥寺の埴谷邸の命運        2827

埴谷雄高さんが亡くなって23年たつ。
先日、自分が編集した日野啓三さんの評論集、『虚点の思想-動乱を超えるも
の』を読みはじめた際、埴谷さんに推薦文をもらったこと同時に、埴谷邸の応
接間に通されたことを想い出していた。

そんなとき埴谷さんの著作に関心のある未知の読者から、吉祥寺の自宅を訪れ
たが表札の名前が違っていたことと、映画「全身小説家」で見た家と違って見
えたことを確かめるため、埴谷邸に触れた僕のブログを見ていてメールをもら
った。

僕がむかしの道程を思い出しながら訪ねたのが5年前で、そのときすでに庭木
や松が大木になり垣根も朽ちて郵便受けは傾き加減で、侘しくなってしばらく
呆然とたたずんでいた。表札はかかっていなかったように記憶しているが、所
有者は出版社で管理は近所の委託者ではなかろうかと思ったりした。
たしか、埴谷邸跡として遺そうとする動きがあったと思うが、立ち消えになっ
たのが残念。

(←ブログ:2012・2・29 「埴谷島尾記念館が原発被災地区で劣化か」44)
(←   :2015・6・25 「埴谷雄高邸を訪ねる」1050)

2020年5月3日日曜日

リサイクルセンターは長蛇の列    2826

2020・5・2 影:ncan
食料品や雑貨を買い出しに行く途中に、粗大ごみ処理の持ち込み場所がある。
門からはみ出して車道に車の長蛇の列が続くのをみて、今までない風景なので
怪訝に思った。が、皆さん巣ごもりで大掃除に精出してゴミ持ち込みでの待ち
車だと納得した。

さて当方は、キッチンの外に備えているエコキュート(給湯器)に不都合が生
じ、メイカーのメンテナンス作業の立ち合いで二日間費やした。
キッチンや風呂など給湯の役割全部をこの大きな器具に10年来お世話になって
いる。その生命線を僕が構造から機能まで理解しておかないと、機能遮断時に
対応すことができないからである。

メンテナス員の対応はよくて、作業内容とそれに伴う説明は平易で親切だった。
でも、ポンプ側器具のカバーを外した中の周辺の配線や配管、コンピューター
基盤は複雑で、トラブル発生部位を確定するのに、彼は苦労していた。
大雑把に言って、自動車の定期整備のような工程であることが解かった。

補遺④               2825    

1961年室戸台風で橋流出~筏で
田舎のわが家から正宗橋を渡ったたもとに新興の土建会社があった。
当時、失職中の父はその土建会社が休みの日や雨の日に事務所で催す麻雀大会
に誘われ出かけては勝って賞品を持って帰ってきていた。

師範学校時代に覚えたと思われるが、抜群に強かったのだろう。
サイパン島から帰国後しばらく、日常生活では生気が見られなかったが、囲碁
やマージャンの集まりに出かけるとなれば嬉々としていた。

親父は僕が大学4年の秋突然亡くなった。
バイクで帰宅途中に県道から外れて河原に落ちて、打ちどころが悪く即死状態
だったと祖母から聞かされた。狭心症という病名だった。
運転中急に心臓に異変をきたし意識がなくなった状態だったと想像している。
結局は、サイパン島体験について自ら多くを語らないまま、終わってしまった。
開通したばかりの新幹線で東京からその日のうちに駆けつけたが、未だ聞けて
いないことを気に留めてなかった。

2020年5月1日金曜日

血のメーデーから68年 メーデー中止か 2824

今年のメーデーはウェブ開催か、中止になった。

1952(27)年5月1日、第23回メーデーは皇居前広場(当時人民広場と呼ばれて
いた)に入ったデモ隊を警察官が襲い「血のメーデー」となった。
このとき僕は小学校高学年で、早稲田大学建設者同盟で活動していたおじさん
(従弟父)が連座しており、田舎の縁者で話題になり強い印象としてずっと残
っている。

こうしたことがあって、5月1日を一つの節目として思い出す。
また上京して2ヵ月後には、国鉄新宿駅「二幸」(現アルタ)前での、激しい
メデー行進を見学した。
労働組合の赤旗や大学のサークル旗が林立するなかでの総括集会、アジテーシ
ョンを目にしたが、初めての経験でした。その時の一人がwメーデー実行委員
長だった平井吉夫さん(昨年5月24没)だったことを知る。
そしてその翌年、安保闘争さなかのメーデーには、ほぼ同じコースで演劇専修
クラスの数人の仲間と参加しているのである。