2021年11月29日月曜日

追悼 荒川 了            3302

荒川了さんの訃報を娘さんから知らされショックを受けている。

今年、5月25日に、了了庵謹製(手作り)黒ニンニクに、近況報告の手紙が添
えられ届いたばかりでした。
学生から出版社に就職して編集者になった荒川さんとはほとんど無縁であった。
彼と僕の交流を語るキーマンは、白水社の営業部長だった白井君と、古くから
の親友、故門倉との出版と政治党派、酒に行きつく。
荒川さんが現代思潮社の編集者からサンマーク出版の取締役に転出し、その出
版営業の指南役だったのが白井君。
門倉君との接点は驚いたことに、W文学部でセクトを異にしながらずっと交流
が続いていたようだ。そんなわけで、門倉君が亡くなる直前に、彼から「辺見
庸を読め」と言われ、熟読したことを吐露されたこともあった。僕も、辺見の
ことは熟知していることから、不思議なつながりに通底するものを感じたので
した。

最後に会ったのは、昨年6月の安保60周年記念講演会のあった憲政記念館でだ
った。そして、このコロナ・ウイルスかのなかで6人の同級生・知人・友人が
この世を去りましたが、一度も葬儀に参じることができなかったことを不如意
と話してくれた。
どちらかと云うと、僕のほうが刺激ある活力をもらっていたので、残念でなり
ません。
甘くてちょっぴり酸味があってコーヒーの味がする「黒ニンニク」の一片を頂
きながら、壮士・荒川了を偲ばせてもらいます。 合掌。

2021年11月28日日曜日

裏ワザ同期会            3301

コロナ禍になる数年前だろうか、郷里が倉敷で中学と高校が錯綜する一緒の三人
だけの「同期会」を、東京駅地下「酔心」で開いたことがある。

当初、僕と中学が同窓の二人だけで飲む機会を作っていたところに、僕とは初対
面である彼の高校同級生と「一緒に飲もうや」と誘われ、その気になった。
その一人は、僕が東京へ出るまで住んでいた柳井原から倉敷の街に出る場合に渡
る高梁川の対岸の「酒津」の出身であることが話題のなかで判ったのである。
因みにサカズは、酒津焼と桜の名所。出会いとは奇なものである。

もう一人の彼は、中学転校直後から仲良くなり社会人になってからもずっと自然
体でつきあってきている。中学校時代のことだが、意に反することがあれば先生
でもストレートに理屈で論破するタイプで、弱者とつきあえる。
僕は親父が教師の手前、抵抗力をそがれるところがあったが、内心では同じだっ
たのかもしれない。

会を催すときは電話するのが、最近は今夏。新型コロナウイルス禍が1年半も続
き、先が見えないときだった。「××!  二人でだけでヤリたいな」。
東京の同期会には二人のおんな友達がいるが、コロナで避けて敢えて「二人で」
と強めのノボちゃんの声を聞くだけで安心する。

2021年11月27日土曜日

南洋庁の歴史とサイパン小学校のこと①3300

サイパン小学校最初の校舎
(大正14年)
親父が赴任していたサイパン小学校(国民学校)について、視点を変えながら
ではあるが往還することで、これまで重複した追求・記録になっているきらい
がある。

このことは致し方ない。親父のサイパン島での教師時代の光と影を追い始めた
のが2014年のことで8年が経過している。新しい資料や聞き書きも出てくると
単純に時系列で簡略化できず、思考が停滞し整理し直しを迫られることになる
のである。

1922年(大正11)3月に、日本政府は総理府の下に「南洋庁」を設置し海軍か
ら事業を引き継いだ。また24年には総理府から外務省に所管が移され、本格的
な民政を開始した経緯がある。
日本海軍は、ドイツが占領していた南洋諸島を占領し、軍政をひいた。日本は
第一次大戦終了後の領有を前提として、この南洋群島に軍政をひいて東南アジ
アへの経済進出と軍事上の拠点作りに邁進したのである。(植民地化政策)
南洋諸島は二千を超える島が散在し、その面積は東京都とほぼ同となる。
教育機関に限って言えば、「島民学校」を作り、「未開無知」の人を教化する
ために日本化教育(日本語教育)をほどこした。
トラック、サイパン、ヤップ、パラオ、ポナペ、ヤルートの各島に小学校を設
置。教科書は「南洋群島国語読本」を編纂し、占領政策としての日本語教育に
力を注いだのである。
(→後日②に続く)

2021年11月26日金曜日

千両、万両、山茶花 咲く       3299

マンリョウ
マンリョウの実は葉の下に垂れるようにつける。
年々、下葉がなくなり幹が伸びる。
山茶花
母の記念樹で、ヒサヱサザンカと称す。
センリョウ
センリョウは株立ちになり上を向いて真珠のように輝く。
縁起木で正月飾りに使う。
(2021・11・26 影:ncan)

年末に欠礼の葉書を拝受すると    3298

年賀欠礼の喪中の葉書がぼつぼつ来る時期になっている。

出す年賀状の枚数も年々少しは減らしているが、この欠礼の挨拶状は年ごとに増
すようにひしひしと感じる。
お互い歳を重ねることで、喪中の対象者は両親であったりしたのが、近年は兄弟
姉妹であり、さらに驚かされるのは当人の死を縁者から知らされることです。
それだけ年を取ったと云うことだろう。
死者が心理的に近しいものになっていく。

年末になると、だれ彼がすでに此岸に存在しないことを、思いめぐらす。

2021年11月25日木曜日

仮想 por tintin でくつろぐ     3297

今日は、「por  tintin」(ポル・ティンティン)は私の店と言ってはばからな
い、由利さんに会った。
彼女は、僕の祖母の弟が父親にあたり、僕の親父とは従妹どうしの間柄(従叔
母)になる。

由利さんは、店の10周年記念の冊子で感謝の気持ちを記している。
「幾つもの視線が眩しくて、顔中こわばり、水割を作る手元が緊張気で震えた。
胃炎で倒れ、人だかりのなかを救急車で運ばれたこともあった。
 店の前を通りがかった人が、奇妙な横文字の看板を見つけては、<一体何だ
ろう」と不思議に思ったそうだ。当時、あたりはまだ店もまばらで人気が少な
く、街はひっそりとしていた。
 それから、カウンターを囲んで夜ごと沢山のドラマが繰りひろげられてきた。
(中略)
 代々木上原の街も、すっかり様変わりして賑やかになり、わがtin  tinはもは
や古株になってしまった。
 あんなに殺風景だった空間が、近頃、色とりどりに模様をつけ、温かいたた
ずまいに見えるのは、変わらず足を運んでくださった人々の心が深く残されて
きているからなのかも知れない」、と。

実のところ、これは前ぶりで由利さんの兄上(従叔父)が夏の終わりに脳梗塞
で倒れ緊急入院して3ヶ月になるとの知らせがあって、急遽直接会うことになっ
たのである。 

2021年11月23日火曜日

酒を間に置くからこそ交流できる   3296

年齢のせえとコロナ禍が相まって、家飲みばかりの日々を続けていると、外飲
みとの落差を感じるようになった。
これだけ家飲みを長く経験すると、世間様(友人、知人、縁者)との差しつ差
されつ交流するのがいかに大切か、あらためて知らされた次第。

20代半ばからの若い頃は、出版社務めという職業柄、新宿のエディターやクリ
エーター、そして演劇人の集まるところで飲んでいました。もっぱら、居酒屋
からスナックのたまり場だった。
そのうち、博覧強記のマスターを知ることとなり、三日を開けず通いつめるよ
うになりました。わが家のように落ち着きを覚えました。
その店(でん八)の主人たち、兄弟経営者とエル字型カウンター越しに会話し
ながら飲めるのが至福の時と言っても過言でない。だから、長く一人でも暖簾
くぐっていた。
こんな居酒屋はもうない。