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| ラスト・コマンド・クリフ(影:Pen) |
太平洋戦争関係の本を読んでいて、またまた父親のサイパンからの引揚げの時期
と思考回路にこだわって、「歴史」の深みにハマってしまった。
太平洋戦争は、昭和6年(1931)の満州事変の勃発から、昭和20年(1945)の
ポツダム宣言受諾までに刻まれたエポックになる「戦争の痕跡」をたどれば、大概
を知ることができる。
僕が知りたいのは太平洋戦争15年のことよりも、父親が昭和12年に教師として社
会人の一歩を踏み出して間もない16年には、サイパンの小学校へ赴任した事実で
す。
引き上げて郷里に帰ってきてからの父は、母や祖母、そして幼少の僕にサイパンに
ついてほとんど喋らなかった。
昭和18年(1943)9月30日、南太平洋で敗勢濃いいなかで「絶対国防衛圏」とし
てマリアナ南洋群島を設定。
11月24日、ギルバアート諸島の守備隊玉砕。
昭和19年(1944)19年2月23日、マリアナ諸島が初の大空襲。
3月30日、連合艦隊の本拠地パラオも空襲。
当時サイパンは、陸軍兵力2万5500名、海軍兵力6200名余りが守備していた。
このとき、一般人として教育者たちは引揚げ船で本土に帰えらされた。
父親の乗船した船が最後の帰国となった。
6月11日から12日、アメリカ機動部隊1100機をもってサイパン空爆開始。
13日から14日には、艦砲射撃も加わり18万発の砲弾が撃ち込まれた。
15日、西海岸南部に上陸。計6万2000名が上陸。
18日には、飛行場が占拠され、日本軍はタポチョ山から残存兵力で抵抗線を敷い
た。
死者軍人3万人、民間人1万人とされる。
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