2017年6月8日木曜日

「憲法公聴会」から遠くまできたもんだ1764

書影(童話屋・刊)
1962年9月に、「憲法公聴会阻止」をかかげて国会近くの「清水谷公園」で気勢を
上げた行動を鮮明に記憶している。

その時から55年余の今、多勢に任せて増長を続ける安倍さんは、「2020年を
新しい憲法が施行される年にしたい」と、公言してはばからない。国会で真意を問
いただされると、「議論を活発化するため」などと答えたが、自身の改憲について
の考え方を披瀝しようとはせず、多重人格者のごとくはぐらかしけむに巻く姿勢が
常態化している。
こんなことはいまさら言いたくないが、国会のトップは憲法を遵守、擁護すること
こそが役目のはず。

敗戦から2年後に、「日本国憲法」は国民の多くが疑うことなく晴れやかに民主主
義憲法として受け入れた。
そして70年、僕たちが憲法を感じるのは、ある具体的な事柄や事態について合憲
か違憲かなどの憲法判断が問われる種々の訴訟裁判の場合である。
かくして、憲法は憲法としての本来あるべき機能がほとんど停止状態に成り下がっ
てしまっていると云ってもいい。セミの抜け殻みたいなものか。

今国会を見てもわかるではないか。国会になっていない、民を愚弄、公私混同が平
気で罷り通る現政治権力の下では、改憲大津波、絶対御免被りたい。
さて逃げ道をどうする、、。

2017年6月7日水曜日

波打ち際 疾走できる砂浜      1763

(影:Pen)
能登半島海岸線を一周したときにどうしてもドライブスルーしたい場所があった。

それは清張の「ゼロの焦点」にも出てくる能登、羽咋市の全長8㎞にわたる風紋
のある砂浜・「千里浜なぎさドライブウェイ」です。
砂場をランクルする程度の場所なら酒田市の最上川河口の一部海岸もあったが、
波打ち際を思いっきり走行でき、フルシーズン楽しめる海岸は日本で唯一。

恐る恐るゆっくりと、愛車「トリヴュート」を砂場に突っ込んだが、硬く引き締
まった均一の角ばった砂によって立ち往生することなく、よくもまぁ走行できる
ものだと感動している。

(←ブログ:2016・2・22 「記憶の深層/東京で最初の川苔山登山」1293)
(←   :2016・2・25 「犬吠碕へ/記憶の深層2」1297)
(←   :2016・6・18 「関の五本松/記憶の深層3」1410)
(←   :2016・6・26 「悠久の多胡の碑/記憶の深層4」1418)
(←   :2016・7・2  「由緒ある場所/記憶の深層5」1424)
(←   :2016・7・12 「洛北の寂光院~三千院/記憶の深層6」1434)
(←   :2016・7・13 「猊鼻渓舟下り/記憶の深層7」1435
(←   :2017・2・18 「小諸なる古城のほとり/記憶の深層8」1654)
(←   :2017・2・25 「その昔<東京荘>があった/記憶の断層9」1661)

2017年6月6日火曜日

倉敷水江に喜久屋書店あり      1762

喜久屋書店倉敷店(2017・5・12影:Tab)
5月のゴールデンウイーク明けに郷里岡山に帰り、倉敷の弟の家をベースにして
10日間ばかり滞在していた。

行ってみたかった瀬戸内の島(六島)でのんびり過ごしたり、海から離れた中国
山地の出雲街道山陽側起点になる津山市の奥にある菩提寺をたずねたりした。
さらに、いろいろ動き廻った行動のなかで、目的の一つもクリアーすることがで
きた。中学半ばから高校時代に過ごしたのは、倉敷郊外でさらに高梁川も渡った
「柳井原湖畔」だった。
当時は予想だにできなかった、一級河川高梁川を渡し舟で渡った土手の向こうが
田んぼや畑の広がる牧歌的風景の場所(水江)だったが、いまでは巨大「イオン」
が進出している。

その中に喜久屋書店は在った。なかなか魅力的な棚構成とゆったりと落ち着ける
書店でうれしくなった。
十数年かわらず地元に馴染んでいるセザキ店長の対応も素晴らしく、全国の喜久
屋書店直営グループの規模やキーマンの話も聞かせてもらった。
充実した郷土史コーナの棚に、「岡山文庫」も200冊余り揃っているなかから
『大原美術館』(藤田慎一郎編)を購入した。

(←ブログ:2017・1・9 「さて今年の出版業界はどうか」1615)
(←ブログ:2017・1・16 「書店のキーマンと」1622)
(←ブログ:2017・1・31 「書店の出店、閉店は」1637)
(←ブログ:2017・2・17 「アマゾンが取次をしのぐ勢い」1653)
(←ブログ:2017・2・21 「書店人ビブリオバトルってなに」1657)
(←ブログ:2017・3・6 「「TIBF」中止だって」1671)
(←ブログ:2017・3・9 「紀伊國屋書店・出版社と直取引・買切り」1673)
(←ブログ:2017・3・9 「いよいよ時限再販にも、、」1674)
(←ブログ:2017・3・24 「二大取次の傘下に入る書店の未来は」1689)
(←ブログ:2017・4・11 「ブックスルーエのサカモト店長と」1706)
(←ブログ:2017・4・21 「名古屋本店を1000坪でオープニング」1717)
(←   :2017・5・8 「名古屋三省堂書店本店による」1734)


2017年6月4日日曜日

ショウスケさん「サイパン・グアム記」1761


先日、戦前のサイパン島体験のあるショウスケさんと京都で懇談した際に、尊父の
サイパン・グアム島の戦地体験を記録した、原稿(400w)にして60枚余りを読
ませてもらえることになった。

尊父(リュウゾウさん)は、敗戦前に帰国した教師だっ父と違って敗戦後1946
年(昭21年)に復員している。
リュウゾウさんは、昭和17年に発足した南洋庁サイパン島の民生部に書記官とし
て勤務する。
そして戦火を避けられず多くが亡くなり、「私が戦傷を負いながらも復員したこと
は、不幸戦没された同僚に誠にすまない気持ちで、、」、と記す。

教員の赴任ではIさん(男)18年2月、Aさん(女)12月にそれぞれあったと。
戦局の悪化に伴い、各村の学校も閉鎖同然の様そうになる。
人気は全くなく、死の町と化していた。
7月4日頃、防空壕を撤退して自然洞窟に移転することになった。
防空洞窟の様子がリアル。
海岸付近の椰子の木は一本残らず焼けただれて裸となり、、。

職員や家族の内地疎開についても記されている。この方針辺りで親父たち教育者
が対象になったようで、来船した玉鉾丸の名前なども出てくる。
リュウゾウさん自らの「私は記録と云うものを大切にする性分であった」ことが、
僕の関心を一歩も二歩も深めてくれる。

2017年6月3日土曜日

活字の魔力/新聞斜読から      1760

書影
「新聞」の書評欄に限らず、文化欄やコラム、広告からも気になった書名を抜き
書きして、後日に行きあたりばったりの書店でまず手に取ってみるのが、僕の読
書法の一つ。

その引っかかる密度も、その日ごとの新聞を捲るスピード感によってまちまち。
新聞の1ページ目から順番に最終へと読み進めるのが普通だが、今朝はなぜか、
テーブルに置かれたママの裏面文化欄から読み始めた。
それは、韓国の「1970~80年代舞台の小説翻訳」出版相次ぐのコピーでした。
読み進むうちに、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(斎藤真理子
訳、河出書房新社16年刊)が目にとまる。韓国では、増刷を重ね130万部と読み
継がれているとレポートされている。

目に留まったのはベストセラーのことより、翻訳者の斎藤真理子さんです。
数年前に仕事を一緒したことがあり、韓国に強い関心を寄せていたことは知って
いた。その探求心が翻訳の動機になって一冊の翻訳書を上梓したところがスゴイ
なと思った。早速、購読します。(くまざわ書店八王子店で購入)

他に、新宿の居酒屋「AGE」で面識のあった車谷長吉さんの回想記『夫・車谷
長吉』(高橋順子著、文芸春秋)と、唐十郎の近畿大学での講義を演劇評論家の
知人西堂行人が聞き手で編んだ『唐十郎 特別講義』(国書刊行会)をチェック
した。

2017年6月2日金曜日

ロータリーエンジンRX₋7疾走   1759

愛車だった2代目RX‐7(影:Pen)
先日、鎌塚さんは、僕が江戸時代に「鉄砲洲」と呼ばれた所に関心を持っている
と知るや、貴重な蔵書から『東京風土図Ⅰ・Ⅱ』(社会思想社/1961刊)を探し
出し、贈ってくれた。この「現代教養文庫」については、後日改めて記してみた
いことがある。
そして今日は、全然本や出版とは関係のないが、「ロータリーエンジンファンの
藤森さんへ」と云ううことで朝日新聞の記事が同封されていた。

30余年前に、マツダの2代目RX‐7としてデビューしたクルマに乗っていた。
「寝た子を目覚まさせられる」感じで、直列2ローターエンジン搭載のすぐれた
パワーの疾走感を否が応でも思い出させられた。
今こうして、写真を見ても全然色あせないでオーラを放つ素晴らしい名車だ。
もう一度乗ってみたい思いに駆られるクルマだよ。

いま、エコカー全盛のなか、ロータリーEでは3代目RX‐7の次に2012年に
「RX‐8」生産終了をもってRE搭載車はマツダのカタログから消えた。

(←ブログ:2017・4・8 「わがクルマと今昔駆け巡り」1704)

2017年6月1日木曜日

最初の記憶・乳母車         1758

湯盥のなかで見た月がこの世の最初の記憶、と言った作家がいたが、僕の記憶で
は母親に押される乳母車の中で体感する車輪の振動だった。

2歳前後の夏の日差しの強い日で、発熱した僕をほろ付きの乳母車に入れて1里
ばかり離れた村の医者を訪ねる道程だった。
(皆から、三村先生と呼ばれて親しまれていたなぁ。)
その道すがらのことなどは全く思い出せないが、乳母車が籐製で長方形のソフト
なハンモックの籠に、体を沈めていたように想う。
藤蔓のアイボリーホワイトの網目が目線にあった。

今になって思うのだが、戦前の1941年(昭和16)頃、ベビーカーなど登場
しない時期に、レトロな藤製の乳母車でシトシトビッチャンシトビッチャンであ
ったことが、記憶を妄想化したように思っている。

藤製の乳母車は、今でも高額なベビーカーとして製造され人気があると云う。
ソフトでぬくもりがあり部屋でもそのままベビーベッドとして利用しても華やぐ
人気ものとか、、。